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第VII章:『完璧な社交、不完全な夫』
王城の小舞踏会は、エステルの独壇場だった。
かつての彼女は、レオニスの影に添うように立ち、彼が他者と談笑するのを妨げぬよう、ただ静かに微笑んでいた。
だが今、輪の中心で言葉を操るのはエステルだ。各国の外交官や文化人たちが、彼女の理知を追いかける。
「夫人の仰る通りです。貿易協定の再検討に、その視点は欠かせない」
「レオニス公爵、失礼ながら……あなたには勿体ないほどの伴侶だ」
称賛は、レオニスの耳に皮肉として刺さる。
胸の奥に溜まる焦りを押さえきれず、彼は輪の中へ踏み込み、エステルの腕を取った。
「……来い。少し話がある」
強引に人目の少ないテラスへ連れ出し、低く告げる。
「少しは自重しろ。公爵夫人が他国の男たちとああも親密に話すなど、外聞が悪すぎる」
焦燥が言葉を汚した。
エステルは掴まれた手首を、不快そうに振り払うのではなく――まるで不要な部品を外すように、静かにほどいた。
「外聞、ですか」
扇を開き、口元を隠して微笑む。優雅で、冷たい。
「閣下は不思議なことをおっしゃるのですね。私は公爵家の利益のために、有益な人脈を築いているだけですわ」
瞳には、かつての熱が一滴もない。
「クラリス夫人のような『自立した女性』であれば、この程度の社交は当然なのでしょう? 閣下が私に求めていたのは、家で大人しく帰りを待つだけの、無知な人形ではないはずです」
「……回廊で言ったことは、もう謝っただろう!」
レオニスは声を荒らげた。怒りの形を借りた、拒絶される恐怖が混ざる。
「なぜそうやって、いちいち過去を持ち出して私を責める!」
エステルは眉ひとつ動かさない。
「責める? いいえ、とんでもない」
扇の陰で、微笑みだけが整う。
「私はただ、閣下の高い理想に追いつこうと努力しているだけですわ。ですから、私の社交についても――どうぞお気遣いなく。閣下は閣下で、ご自身の時間を自由に楽しまれればよろしいのです」
「自由になど、なれるはずがない!」
思わず吐き捨てる。
「妻である君が、あんなに楽しそうに他の男と――」
「おかしな方」
エステルが、くすりと笑った。
その短い笑い声が、錐(きり)のように冷たく胸を抉る。
「閣下は、私があなたを愛していた頃――あなたが他の女性と親しげにするのを、私がどんな思いで見つめていたか。一度でも想像なさったことがあって?」
「それは……」
「あの頃の私にとって、あなたは世界のすべてでした」
静かに言い切る。
「だから、あなたの何気ない『比較』の一言で、私は死ぬほど傷ついた。……でも今の私にとって、あなたは『公爵』という職務上のパートナーに過ぎません」
扇が、わずかに揺れる。
「ですから、あなたが誰と何をしていようと――私はもう、一欠片も傷つかない」
微笑みが、完成する。
「……楽だと思いませんか?」
「エステル……君、まさか……」
血の気が引く。
彼女は彼を夫として見ていない。憎しみですらない。
ただ、徹底した無関心――それが壁となって立っている。
「閣下」
エステルは、丁寧に距離を置いた声音で言う。
「私に対する嫉妬や執着も、どうぞお気遣いなく。それは愛し合っている夫婦の間でこそ価値のある『贅沢品』」
一拍。
「……今の私たちには、分不相応な感情ですわ」
完璧なカーテシーを落とし、彼女は光の満ちる広間へ戻っていった。
残されたレオニスは、豪奢なテラスの真ん中で立ち尽くす。
自分を唯一無二として敬い、愛していたエステルは、もうどこにもいない。
彼が手に入れたのは、望み通り「完璧」で――そして、彼を必要としない一人の女性だった。
かつての彼女は、レオニスの影に添うように立ち、彼が他者と談笑するのを妨げぬよう、ただ静かに微笑んでいた。
だが今、輪の中心で言葉を操るのはエステルだ。各国の外交官や文化人たちが、彼女の理知を追いかける。
「夫人の仰る通りです。貿易協定の再検討に、その視点は欠かせない」
「レオニス公爵、失礼ながら……あなたには勿体ないほどの伴侶だ」
称賛は、レオニスの耳に皮肉として刺さる。
胸の奥に溜まる焦りを押さえきれず、彼は輪の中へ踏み込み、エステルの腕を取った。
「……来い。少し話がある」
強引に人目の少ないテラスへ連れ出し、低く告げる。
「少しは自重しろ。公爵夫人が他国の男たちとああも親密に話すなど、外聞が悪すぎる」
焦燥が言葉を汚した。
エステルは掴まれた手首を、不快そうに振り払うのではなく――まるで不要な部品を外すように、静かにほどいた。
「外聞、ですか」
扇を開き、口元を隠して微笑む。優雅で、冷たい。
「閣下は不思議なことをおっしゃるのですね。私は公爵家の利益のために、有益な人脈を築いているだけですわ」
瞳には、かつての熱が一滴もない。
「クラリス夫人のような『自立した女性』であれば、この程度の社交は当然なのでしょう? 閣下が私に求めていたのは、家で大人しく帰りを待つだけの、無知な人形ではないはずです」
「……回廊で言ったことは、もう謝っただろう!」
レオニスは声を荒らげた。怒りの形を借りた、拒絶される恐怖が混ざる。
「なぜそうやって、いちいち過去を持ち出して私を責める!」
エステルは眉ひとつ動かさない。
「責める? いいえ、とんでもない」
扇の陰で、微笑みだけが整う。
「私はただ、閣下の高い理想に追いつこうと努力しているだけですわ。ですから、私の社交についても――どうぞお気遣いなく。閣下は閣下で、ご自身の時間を自由に楽しまれればよろしいのです」
「自由になど、なれるはずがない!」
思わず吐き捨てる。
「妻である君が、あんなに楽しそうに他の男と――」
「おかしな方」
エステルが、くすりと笑った。
その短い笑い声が、錐(きり)のように冷たく胸を抉る。
「閣下は、私があなたを愛していた頃――あなたが他の女性と親しげにするのを、私がどんな思いで見つめていたか。一度でも想像なさったことがあって?」
「それは……」
「あの頃の私にとって、あなたは世界のすべてでした」
静かに言い切る。
「だから、あなたの何気ない『比較』の一言で、私は死ぬほど傷ついた。……でも今の私にとって、あなたは『公爵』という職務上のパートナーに過ぎません」
扇が、わずかに揺れる。
「ですから、あなたが誰と何をしていようと――私はもう、一欠片も傷つかない」
微笑みが、完成する。
「……楽だと思いませんか?」
「エステル……君、まさか……」
血の気が引く。
彼女は彼を夫として見ていない。憎しみですらない。
ただ、徹底した無関心――それが壁となって立っている。
「閣下」
エステルは、丁寧に距離を置いた声音で言う。
「私に対する嫉妬や執着も、どうぞお気遣いなく。それは愛し合っている夫婦の間でこそ価値のある『贅沢品』」
一拍。
「……今の私たちには、分不相応な感情ですわ」
完璧なカーテシーを落とし、彼女は光の満ちる広間へ戻っていった。
残されたレオニスは、豪奢なテラスの真ん中で立ち尽くす。
自分を唯一無二として敬い、愛していたエステルは、もうどこにもいない。
彼が手に入れたのは、望み通り「完璧」で――そして、彼を必要としない一人の女性だった。
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