あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ

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第VIII章:『クラリスの訪問と、透明な妻』

レオニスは、己の愚かさを上書きしたくて必死だった。
エステルに「潔白」を見せれば――凍てついた心に、ほんの少しでも亀裂が入るのではないか。そう信じた彼は、あえて未亡人クラリスを公爵邸の午餐に招いた。

「エステル、今日クラリス夫人が来る。……君が誤解しているような関係ではないことを、その目で確かめてほしい」

エステルは手帳から顔を上げ、穏やかに微笑んだ。

「あら、わざわざご報告ありがとうございます。ですが、どうぞお気遣いなく。閣下がどなたを招こうと、この屋敷の主人はあなたなのですから」

――それが、いちばん残酷だった。
止めない。咎めない。興味もない。

午餐の席。レオニスは落ち着かなかった。
一方のクラリスは、エステルの豹変に戸惑いつつも、野心を隠す気配など微塵もなく、知的な話題を次々に投げてくる。

「レオニス様、先日の軍事予算の件ですが……」

レオニスは生返事をしながら、エステルの様子を盗み見る。

かつてなら、夫と他の女性が親密に話すだけで、エステルの指先は震えた。
笑顔のまま、目だけが泣いていた。
――それが彼女の愛だった。

だが今のエステルは違う。

彼女は完璧なホステスとして、クラリスのグラスが空けば淀みなく給仕を促し、会話が切れれば絶妙な相槌で客人を立てる。
温度のない親切。隙のない礼儀。
感情だけが、きれいに削ぎ落とされている。

「クラリス夫人、そのお話は大変興味深いですわ」

エステルは柔らかく微笑み、さらりと続けた。

「閣下も、聡明な方との対話を何より愉しみにしておいでですもの。……もっとお近くへ。遠慮なさることはありませんわ」

そして、立ち上がる。
レオニスのすぐ隣――そこを、クラリスに勧めた。

まるで、そこがもはや自分の席ではないと確信しているかのように。

「エステル! 君、何を――」

「閣下、お客様に対して失礼ですわ」

さらり、と切る。

「クラリス夫人、どうぞ。閣下のお好みのお酒も、好む話題も、すべてこちらに手配してあります。私は少し、厨房の確認に失礼いたしますわね」

エステルはレオニスを一度も見ず、軽やかに席を立った。
去り際の瞳に、嫉妬も怒りも悲しみもない。

そこにあるのは「もてなしを完璧に遂行した」という淡い達成感と――それ以外のすべてに対する、圧倒的な無関心だけだった。

「……レオニス様」

クラリスが勝ち誇ったように囁く。

「奥様、随分と寛大になられたのですね」

だが、レオニスの心臓は恐怖で早鐘を打っていた。
エステルは“独占”をやめたのではない。
レオニスという存在を、彼女の人生から――透明なものとして追い出したのだ。

「……エステル、待ってくれ!」

レオニスはクラリスを置き去りにして、回廊へ向かう妻の腕を掴んだ。

「なぜあんな真似をする! 私が求めているのは、君だ! 君に嫉妬してほしい、私を見てほしいんだ!」

エステルは掴まれた腕を、まるで服についた埃を払うように、優雅に――そして残酷にほどいた。

「閣下、困りますわ」

穏やかな声のまま、確定させる。

「クラリス夫人のような方がお隣にいるべきだとおっしゃったのは、あなたでしょう? 私は閣下の望みを、これ以上ないほど完璧に叶えて差し上げているのです」

「それは、あの時の失言で――!」

「いいえ。失言ではありませんわ」

エステルの瞳が、ガラス玉のように澄んでいる。

「あれこそが、あなたの本心。そして今の私の振る舞いこそが、あなたが私に課した『正解』です」

一拍。さらに冷える。

「嫉妬などという、閣下を疲れさせるだけの感情は――もうあの日、回廊に置いて参りました」

エステルは微笑む。
傷ついていない微笑み。
許しているようで、戻る気のない微笑み。

「ですから、どうぞお気遣いなく。私はもう、あなたの愛を疑いません。求めもしません。……それが、あなたにとって最も快適な『公爵夫人』の姿でしょう?」

そう言い残し、光の射す回廊の先へと消えていった。

レオニスは豪奢な絨毯の上に立ち尽くす。
自分が手に入れた完璧な正解が、どれほど息の詰まる地獄かを、骨の髄まで思い知らされた。

かつて彼女が流していた涙は、愛の証だった。
そして今、彼女の完璧な微笑みは――決別の儀式だった。

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