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第IX章:『壊れた羅針盤』
レオニスの執務室の机には、古びた――しかし精緻な細工の金色の懐中時計が置かれていた。
それは婚約したばかりの頃、エステルが初めて迎えた彼の誕生日に贈った品だ。
当時レオニスは「古臭い」と一蹴し、いつしか歯車は止まり、引き出しの奥で埃を被った。
レオニスは数日間、城下で最も腕のいい職人のもとへ通い詰めた。
止まっていた針は再び時を刻み、金色のケースは新品のように磨かれている。
(これを渡せば……思い出してくれるはずだ)
(私たちがまだ、純粋に想い合っていた頃を)
縋るような気持ちで、彼はエステルの公務室を訪ねた。
「エステル、これを見てくれ」
レオニスは宝物を差し出す子どものように、懐中時計を彼女の机の端へ置いた。
チク、タク。
静かな部屋に、蘇った「二人の時間」の音が落ちる。
エステルは書類をめくる手を止め、その時計をじっと見た。
レオニスは息を詰める。――瞳に、揺れが戻るのを待った。
だが彼女が口を開いたのは、数秒の沈黙のあとだった。
「……あら。それは、どなたからの贈り物ですの?」
「……え?」
鼓動が、嫌な音を立てて跳ねる。
「君だよ、エステル。君が私の十九の誕生日に――必死で選んでくれた。大切にするって、指切りまでして……」
エステルは記憶の糸を辿るように、ほんの少し首を傾げた。
そして困ったように――どこか慈悲深く微笑む。
「申し訳ありません、閣下。どうやら、あまりに些細なことでしたので……忘却の彼方へ追いやってしまったようですわ」
さらりと、追い打つ。
「そんな古いもの、どうぞお気遣いなく。新しいものを新調なさればよろしいのに」
「些細だと……?」
レオニスの声が震える。
「君があれほど大切にしていた思い出を、些細だと言うのか」
「思い出、ですか」
エステルは懐中時計を指先で軽く押し戻した。
その動作は、汚れを避けるように無機質だった。
「思い出は、未来に希望があるからこそ価値を持つものです。今の私にとって過去の記憶は、職務の妨げになるノイズでしかありませんの」
一拍置き、事務的に続ける。
「その時計、もし閣下が不要なら使用人にでも下げ渡してくださいませ。骨董品としての価値は喜ばれるでしょうから」
「エステル……君は、私との時間を――なかったことにしたいのか」
絶望が声に滲む。
エステルは淀みなくペンを取り、書類へ視線を戻した。
「なかったことにしたいのではありませんわ。――もう、価値を感じられない。ただ、それだけです」
そして、会話を閉じる。
「閣下、お話がそれだけでしたら失礼してもよろしいかしら。これから、新しく雇い入れた家庭教師との面談がございますの。次代の公爵夫人となる方に、私の『役割』を継承する準備を始めなくてはなりませんから」
「継承……? まだ引退するような年齢でもないだろう!」
「ええ。ですが――いつ私がこの場所に飽きて、放り出すか分かりませんでしょう?」
淡々と、管理者の論理で言う。
「不測の事態に備えるのが有能な管理者の務めです。……どうぞお気遣いなく。閣下の生活に支障は出させませんわ」
エステルは一度も懐中時計に触れないまま、会話を打ち切った。
机の上に残された時計は、正確に時を刻み続ける。
けれど――その針が刻む未来に、エステルの心はもう存在しない。
レオニスは胸元で冷たく光る懐中時計を握りしめた。
直ったのは機械だけだった。
壊れた二人の羅針盤は、もう――どちらが北を向いていたのかさえ、わからなくなっていた。
それは婚約したばかりの頃、エステルが初めて迎えた彼の誕生日に贈った品だ。
当時レオニスは「古臭い」と一蹴し、いつしか歯車は止まり、引き出しの奥で埃を被った。
レオニスは数日間、城下で最も腕のいい職人のもとへ通い詰めた。
止まっていた針は再び時を刻み、金色のケースは新品のように磨かれている。
(これを渡せば……思い出してくれるはずだ)
(私たちがまだ、純粋に想い合っていた頃を)
縋るような気持ちで、彼はエステルの公務室を訪ねた。
「エステル、これを見てくれ」
レオニスは宝物を差し出す子どものように、懐中時計を彼女の机の端へ置いた。
チク、タク。
静かな部屋に、蘇った「二人の時間」の音が落ちる。
エステルは書類をめくる手を止め、その時計をじっと見た。
レオニスは息を詰める。――瞳に、揺れが戻るのを待った。
だが彼女が口を開いたのは、数秒の沈黙のあとだった。
「……あら。それは、どなたからの贈り物ですの?」
「……え?」
鼓動が、嫌な音を立てて跳ねる。
「君だよ、エステル。君が私の十九の誕生日に――必死で選んでくれた。大切にするって、指切りまでして……」
エステルは記憶の糸を辿るように、ほんの少し首を傾げた。
そして困ったように――どこか慈悲深く微笑む。
「申し訳ありません、閣下。どうやら、あまりに些細なことでしたので……忘却の彼方へ追いやってしまったようですわ」
さらりと、追い打つ。
「そんな古いもの、どうぞお気遣いなく。新しいものを新調なさればよろしいのに」
「些細だと……?」
レオニスの声が震える。
「君があれほど大切にしていた思い出を、些細だと言うのか」
「思い出、ですか」
エステルは懐中時計を指先で軽く押し戻した。
その動作は、汚れを避けるように無機質だった。
「思い出は、未来に希望があるからこそ価値を持つものです。今の私にとって過去の記憶は、職務の妨げになるノイズでしかありませんの」
一拍置き、事務的に続ける。
「その時計、もし閣下が不要なら使用人にでも下げ渡してくださいませ。骨董品としての価値は喜ばれるでしょうから」
「エステル……君は、私との時間を――なかったことにしたいのか」
絶望が声に滲む。
エステルは淀みなくペンを取り、書類へ視線を戻した。
「なかったことにしたいのではありませんわ。――もう、価値を感じられない。ただ、それだけです」
そして、会話を閉じる。
「閣下、お話がそれだけでしたら失礼してもよろしいかしら。これから、新しく雇い入れた家庭教師との面談がございますの。次代の公爵夫人となる方に、私の『役割』を継承する準備を始めなくてはなりませんから」
「継承……? まだ引退するような年齢でもないだろう!」
「ええ。ですが――いつ私がこの場所に飽きて、放り出すか分かりませんでしょう?」
淡々と、管理者の論理で言う。
「不測の事態に備えるのが有能な管理者の務めです。……どうぞお気遣いなく。閣下の生活に支障は出させませんわ」
エステルは一度も懐中時計に触れないまま、会話を打ち切った。
机の上に残された時計は、正確に時を刻み続ける。
けれど――その針が刻む未来に、エステルの心はもう存在しない。
レオニスは胸元で冷たく光る懐中時計を握りしめた。
直ったのは機械だけだった。
壊れた二人の羅針盤は、もう――どちらが北を向いていたのかさえ、わからなくなっていた。
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