あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ

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第X章:『仮面の終焉と、契約の始まり』

公爵邸の晩餐会。
それは締めくくりにふさわしい、静謐で――そして残酷な夜だった。

レオニスは、この数週間のエステルの変化を、どうにかして「深い傷が生んだ一時の混乱」だと思い込もうとしていた。
誠意を見せ、過去を悔い、夫として守り続ければ、いつか――あの春の日差しのような微笑みが戻ってくる。そう信じたかった。

だが、食事が終わろうとしたそのとき。
エステルが、静かにナプキンを膝から取り、皿の脇へ置いた。

「閣下。『引継ぎ』が完了いたしましたので、ご報告申し上げます」

「……引継ぎ? 何の話だ」

「先日お話しした通りですわ。私が公爵夫人の座を退いた後、この屋敷が滞りなく運営されるためのマニュアル――および、後任の教育方針の策定です。すべて執事に預けてあります」

氷水が、背筋を滑り落ちた。
冗談だと言って笑ってほしかった。けれど、エステルの瞳には、冗談の余地など欠片もない。冷徹な決意だけが、澄んで宿っていた。

「……何を言っている。君がこの家を去る理由などない。私は離縁など認めないぞ!」

「あら、離縁? 閣下、それはあまりに情緒的で――非効率な選択ですわ」

聞き分けのない子どもを諭すような、慈悲深くも冷たい笑み。
その笑みが、レオニスの胸を刺した。

「私が申し上げているのは、『愛の契約』の終了と、『事務的契約』への移行です。……これまで私は、あなたを愛するという“ボランティア(無償奉仕)に心血を注いでまいりました。けれど、あの夜――あなたが、私よりもクラリス夫人のような女性を望んでいると知った瞬間、その奉仕は期間満了を迎えたのです」

「エステル……!」

「今この瞬間をもって、私はあなたへの『愛』を完全に廃棄いたしました。今後は、公爵家の名誉を守り、資産を管理し、世継ぎを育てる――あるいは、その準備をする。純粋な契約義務のみを遂行いたします」

エステルは立ち上がる。椅子を引く。
一分一秒の無駄もない所作は、機械のように正確で、美しかった。

「……ですから、閣下。
もう私に、愛を乞うような見苦しい真似はどうぞお気遣いなく。私への贈り物も、優しげな言葉も、夜の誘いも――すべて契約外の事項です。義務として必要であれば応じますが、そこに私の『心』を期待なさらないでくださいませ」

淡々と、決定事項を読み上げる声。
その冷たさが、なおさら残酷だった。

「それはもう、この屋敷のどこを探しても――欠片一つ残っておりませんから」

「……待ってくれ! 私は、君の心が欲しいんだ!
契約だなんて冷たい言葉で、私たちを縛らないでくれ!」

レオニスは叫び、彼女の腕を掴もうとした。
だがエステルは、その手を――汚れた書面でも見るかのような視線で制した。

「閣下。あなたが欲しがっていたのは、自分の隣に立つに相応しい、自立した、非の打ちどころのない女性だったはずです。……ご覧ください。私は今、その通りになりました」
レオニスは、俯いたままだ。

「私を縛り、変えたのは――他ならぬあなたの言葉です。……満足でしょう?」

「エステル……」

「これからは、お互いに楽になりますわ。私はあなたに期待しない。あなたも私に愛を返さなくていい。……これこそが、閣下が望まれた『洗練された夫婦』の形ではありませんか」

完璧な一礼。
そして彼女は、食堂を去った。

豪華なシャンデリアの下に残されたのは、抜け殻のように立ち尽くすレオニスだけだった。

エステルの「仮面」は、いまや彼女の「皮膚」になってしまった。剥がそうとすれば、血が出る。
――もう、元の彼女には戻らない。

レオニスは気づく。
自分の声が届かない、透明で頑丈な『契約』という名の檻に、閉じ込められたのは――自分自身だということに。

かつて軽んじ、踏みにじった「無償の愛」という奇跡。
それはもう二度と、この屋敷に芽吹かない。

暗闇の中、レオニスは嗚咽を漏らした。
時計の針だけが、非情なほど正確に――心のない未来を刻み始めていた。

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