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第XI章:『事務的な寝室』
「契約」の移行が宣言されてから、初めての「義務の日」が訪れた。
かつてのエステルにとって、週に一度、レオニスと同じ寝所に入る夜は、一週間で最も胸を高鳴らせる時間だった。
彼は仕事に疲れ、どこか事務的に彼女を抱き寄せることが多かった。それでも、彼の腕の中にいられるだけで、エステルは幸福だったのだ。
――あの頃は。
今夜、レオニスの寝室の扉を開けた彼女は、シルクの寝衣の上から薄手のガウンを隙なく纏い、まるで公務に赴くかのような面持ちで立っていた。
「……来たのか、エステル」
ベッドの上で、レオニスは低く言う。その声には、期待と不安が入り混じっていた。
あの日以来、彼は彼女に触れ、その温もりを確かめたくて仕方がなかった。
「ええ。契約に定められた通り、世継ぎの可能性を維持するための義務を遂行しに参りました」
まるで書類の提出を告げるような口調だった。
エステルは彼の隣に横たわる。
しかしそこには、かつてのようにそっと彼へ触れようとする指先も、甘い期待の気配もない。
ただ、静止している。
「エステル……君は、まだ私を許してはくれないのか」
レオニスは堪えきれず、彼女の肩を抱き寄せた。
以前なら、彼女は待っていましたとばかりにその胸へ身を預けただろう。
だが今、彼の腕にあるのは――温度を持たない彫像のような身体だった。
「……閣下。感情的な対話は義務に含まれておりません。時間は有限です。早めに済ませていただければ、明日の公務にも差し支えませんので」
「済ませる……だと? 私たちの時間を、作業のように言うのか!」
「事実、そうでございましょう?」
エステルは彼を見ず、天井の一点を見つめたまま続ける。
「閣下が私に求めていたのは、愛ではなく役割でした。……どうぞご安心ください。私は義務として、閣下が不快にならぬよう努めます。ただ、そこに私の『心』をお求めになることだけはご遠慮ください。それは契約外でございます」
静かな声だった。
怒りも、皮肉もない。ただ事実を告げているだけの声音。
「私があなたを愛していた頃は、あなたの指先一つで心が震えました。喜び、時に傷つき……それでも、幸せでした。……ですが、今は何も感じません。あなたが私に何を語ろうと、それはただの現象に過ぎません」
そして、ゆっくりと。
「……これこそ、閣下が望まれた『重くない妻』の姿ではありませんか?」
「やめてくれ……」
レオニスは彼女を強く抱きしめた。
だが、抱きしめるほどに思い知らされる。
彼女はそこにいる。確かに腕の中にいる。
それなのに、彼女の心は、遠い。
あの日、彼が言葉で切り捨てた瞬間から――
彼女の魂は、自分の届かない場所へ退いてしまったのだ。
その夜、レオニスは義務を果たすことができなかった。
無機質な瞳で待つだけの「妻」を前に、己の罪が胸を締めつけた。
「……今夜は、もういい。戻ってくれ」
「承知いたしました。未達分は次週に繰り越しますか? それとも今期分は免除とされますか?」
「……繰り越しなど、いらない」
「かしこまりました。では、おやすみなさいませ、閣下」
エステルは静かに起き上がり、乱れを正すこともなくガウンの紐を結ぶ。
一滴の感傷も見せず、部屋を後にした。
扉が閉まる音が、やけに重く響く。
冷え切った寝台の上で、レオニスは自分の両手を見つめた。
かつてこの手は、彼女の無償の愛という奇跡を当然のものとして受け取り、そして踏みにじった。
今、その代償として握っているのは――
温もりのない、完璧な妻と、凍りついた孤独だけだった。
かつてのエステルにとって、週に一度、レオニスと同じ寝所に入る夜は、一週間で最も胸を高鳴らせる時間だった。
彼は仕事に疲れ、どこか事務的に彼女を抱き寄せることが多かった。それでも、彼の腕の中にいられるだけで、エステルは幸福だったのだ。
――あの頃は。
今夜、レオニスの寝室の扉を開けた彼女は、シルクの寝衣の上から薄手のガウンを隙なく纏い、まるで公務に赴くかのような面持ちで立っていた。
「……来たのか、エステル」
ベッドの上で、レオニスは低く言う。その声には、期待と不安が入り混じっていた。
あの日以来、彼は彼女に触れ、その温もりを確かめたくて仕方がなかった。
「ええ。契約に定められた通り、世継ぎの可能性を維持するための義務を遂行しに参りました」
まるで書類の提出を告げるような口調だった。
エステルは彼の隣に横たわる。
しかしそこには、かつてのようにそっと彼へ触れようとする指先も、甘い期待の気配もない。
ただ、静止している。
「エステル……君は、まだ私を許してはくれないのか」
レオニスは堪えきれず、彼女の肩を抱き寄せた。
以前なら、彼女は待っていましたとばかりにその胸へ身を預けただろう。
だが今、彼の腕にあるのは――温度を持たない彫像のような身体だった。
「……閣下。感情的な対話は義務に含まれておりません。時間は有限です。早めに済ませていただければ、明日の公務にも差し支えませんので」
「済ませる……だと? 私たちの時間を、作業のように言うのか!」
「事実、そうでございましょう?」
エステルは彼を見ず、天井の一点を見つめたまま続ける。
「閣下が私に求めていたのは、愛ではなく役割でした。……どうぞご安心ください。私は義務として、閣下が不快にならぬよう努めます。ただ、そこに私の『心』をお求めになることだけはご遠慮ください。それは契約外でございます」
静かな声だった。
怒りも、皮肉もない。ただ事実を告げているだけの声音。
「私があなたを愛していた頃は、あなたの指先一つで心が震えました。喜び、時に傷つき……それでも、幸せでした。……ですが、今は何も感じません。あなたが私に何を語ろうと、それはただの現象に過ぎません」
そして、ゆっくりと。
「……これこそ、閣下が望まれた『重くない妻』の姿ではありませんか?」
「やめてくれ……」
レオニスは彼女を強く抱きしめた。
だが、抱きしめるほどに思い知らされる。
彼女はそこにいる。確かに腕の中にいる。
それなのに、彼女の心は、遠い。
あの日、彼が言葉で切り捨てた瞬間から――
彼女の魂は、自分の届かない場所へ退いてしまったのだ。
その夜、レオニスは義務を果たすことができなかった。
無機質な瞳で待つだけの「妻」を前に、己の罪が胸を締めつけた。
「……今夜は、もういい。戻ってくれ」
「承知いたしました。未達分は次週に繰り越しますか? それとも今期分は免除とされますか?」
「……繰り越しなど、いらない」
「かしこまりました。では、おやすみなさいませ、閣下」
エステルは静かに起き上がり、乱れを正すこともなくガウンの紐を結ぶ。
一滴の感傷も見せず、部屋を後にした。
扉が閉まる音が、やけに重く響く。
冷え切った寝台の上で、レオニスは自分の両手を見つめた。
かつてこの手は、彼女の無償の愛という奇跡を当然のものとして受け取り、そして踏みにじった。
今、その代償として握っているのは――
温もりのない、完璧な妻と、凍りついた孤独だけだった。
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