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第XIV章:『偽りの肖像画』
公爵家の古い慣習に従い、当主夫妻の肖像画が新調されることになった。
かつての絵の中で、エステルはレオニスの腕にそっと手を添え、柔らかな微笑を浮かべていた。夫婦であることを疑う余地のない、あたたかな記録。
だが今、白いキャンバスの前に立つ宮廷画家は、筆を持ったまま困惑を隠せないでいた。
「奥様、もう少し……左肩の力を抜いていただけますか。ええ、それから――旦那様の方へ、ほんの少しだけお顔を」
「これでよろしいかしら?」
エステルは指示通り、完璧な角度で顔を向けた。
けれど、その瞳はレオニスを映さない。
彼の数センチ横――空っぽの空間に視線が落ち、そこに人がいるはずだという前提だけが、形だけ残っていた。
「エステル。もう少しだけ、私の方へ寄ってくれないか」
レオニスが、堪えきれず声を落とす。
この肖像画の中にだけは、かつての「夫婦」を残したかった。せめて絵の上でなら、彼女に抱き寄せられていたかった。
だが、エステルは柔らかくも、刃のように言い切った。
「閣下、どうぞお気遣いなく。これは公爵家の歴史を記すための資料ですわ。そこに私情を持ち込めば、プロフェッショナルな画家の筆を鈍らせるだけではありませんか?」
彼女は、レオニスの肩に触れることすら拒んだ。
ただ、物理的に隣に立つ。――それだけ。
数週間に及ぶ制作期間を経て、肖像画は完成した。
除幕式の日、広間に集まった使用人たちの背筋は、期待と緊張で伸びていた。
レオニスは胸の奥に小さな望みを抱きながら、布を引いた。
その瞬間――空気が止まった。
息を呑む音が、幾つも重なり、飲み込まれていく。
レオニスは、凍りついたまま一歩も動けない。
描かれていたエステルは、息を呑むほど美しかった。
銀色のドレスは月光を纏ったように澄み、立ち姿は「氷の女神」と呼ぶに相応しい気高さを湛えている。
だが、彼女の瞳には――何もなかった。
宮廷画家は、表面的な美しさだけではなく、その内側に潜む「絶対的な空虚」を、残酷なほど正確に掬い取っていたのだ。
エステルの視線は、隣に立つレオニスを透過して、背後の闇へ向かっている。
まるで、そこに「夫」など初めから存在しないかのように。
「……これが、私たちが残すべき姿なのか」
震える声が、広間の天井へ消える。
絵の中のレオニスは、必死に彼女の方を向き、愛を乞うような悲愴な表情を浮かべていた。
その隣でエステルは、意志ある人間ではなく、完璧な役割だけを纏った機械のように、美しく、冷たい。
「素晴らしい出来栄えですわね」
エステルは、完成した絵を眺めて満足そうに頷いた。
「私が公爵夫人という役割を、いかに私情を挟まず遂行しているか――後世にまで伝わることでしょう。……閣下、どうぞお気遣いなく。あなたが望まれた『完璧な妻』の肖像です。これ以上、何を付け加える必要がございますか?」
「エステル……君は、この絵のように、一生私を見ないつもりなのか?」
レオニスが彼女の肩に手を伸ばす。
だが、触れる寸前で――彼女は静かに、けれど決定的に身を引いた。
「見ているではありませんか。……『公爵』という、私の契約相手を」
淡々と、そして、もう二度と戻らない温度で。
「それ以外の、血の通った『レオニス』という男性は――私の世界には存在いたしませんの」
エステルは画家へ礼を告げ、踵を返した。
一度も自分の肖像画を振り返らない。振り返る必要すらないというように。
残されたのは、豪華な額縁に収められた、死ぬまで交わることのない二人の視線。
そして、それを直視できなくなった男の沈黙だけだった。
そこに描かれていたのは――
彼がかつて自分の手で作り上げた、愛という魂を抜き取られた「偽りの肖像」そのものだった。
かつての絵の中で、エステルはレオニスの腕にそっと手を添え、柔らかな微笑を浮かべていた。夫婦であることを疑う余地のない、あたたかな記録。
だが今、白いキャンバスの前に立つ宮廷画家は、筆を持ったまま困惑を隠せないでいた。
「奥様、もう少し……左肩の力を抜いていただけますか。ええ、それから――旦那様の方へ、ほんの少しだけお顔を」
「これでよろしいかしら?」
エステルは指示通り、完璧な角度で顔を向けた。
けれど、その瞳はレオニスを映さない。
彼の数センチ横――空っぽの空間に視線が落ち、そこに人がいるはずだという前提だけが、形だけ残っていた。
「エステル。もう少しだけ、私の方へ寄ってくれないか」
レオニスが、堪えきれず声を落とす。
この肖像画の中にだけは、かつての「夫婦」を残したかった。せめて絵の上でなら、彼女に抱き寄せられていたかった。
だが、エステルは柔らかくも、刃のように言い切った。
「閣下、どうぞお気遣いなく。これは公爵家の歴史を記すための資料ですわ。そこに私情を持ち込めば、プロフェッショナルな画家の筆を鈍らせるだけではありませんか?」
彼女は、レオニスの肩に触れることすら拒んだ。
ただ、物理的に隣に立つ。――それだけ。
数週間に及ぶ制作期間を経て、肖像画は完成した。
除幕式の日、広間に集まった使用人たちの背筋は、期待と緊張で伸びていた。
レオニスは胸の奥に小さな望みを抱きながら、布を引いた。
その瞬間――空気が止まった。
息を呑む音が、幾つも重なり、飲み込まれていく。
レオニスは、凍りついたまま一歩も動けない。
描かれていたエステルは、息を呑むほど美しかった。
銀色のドレスは月光を纏ったように澄み、立ち姿は「氷の女神」と呼ぶに相応しい気高さを湛えている。
だが、彼女の瞳には――何もなかった。
宮廷画家は、表面的な美しさだけではなく、その内側に潜む「絶対的な空虚」を、残酷なほど正確に掬い取っていたのだ。
エステルの視線は、隣に立つレオニスを透過して、背後の闇へ向かっている。
まるで、そこに「夫」など初めから存在しないかのように。
「……これが、私たちが残すべき姿なのか」
震える声が、広間の天井へ消える。
絵の中のレオニスは、必死に彼女の方を向き、愛を乞うような悲愴な表情を浮かべていた。
その隣でエステルは、意志ある人間ではなく、完璧な役割だけを纏った機械のように、美しく、冷たい。
「素晴らしい出来栄えですわね」
エステルは、完成した絵を眺めて満足そうに頷いた。
「私が公爵夫人という役割を、いかに私情を挟まず遂行しているか――後世にまで伝わることでしょう。……閣下、どうぞお気遣いなく。あなたが望まれた『完璧な妻』の肖像です。これ以上、何を付け加える必要がございますか?」
「エステル……君は、この絵のように、一生私を見ないつもりなのか?」
レオニスが彼女の肩に手を伸ばす。
だが、触れる寸前で――彼女は静かに、けれど決定的に身を引いた。
「見ているではありませんか。……『公爵』という、私の契約相手を」
淡々と、そして、もう二度と戻らない温度で。
「それ以外の、血の通った『レオニス』という男性は――私の世界には存在いたしませんの」
エステルは画家へ礼を告げ、踵を返した。
一度も自分の肖像画を振り返らない。振り返る必要すらないというように。
残されたのは、豪華な額縁に収められた、死ぬまで交わることのない二人の視線。
そして、それを直視できなくなった男の沈黙だけだった。
そこに描かれていたのは――
彼がかつて自分の手で作り上げた、愛という魂を抜き取られた「偽りの肖像」そのものだった。
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