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第XVII章:『雨の墓標、枯れた花』
その日は朝から、冷たい雨が降っていた。
エステルの亡き両親の命日だ。
かつてのレオニスは、この日を「たかが法事」と切り捨てた。
一度として同行したこともない。
喪服を纏い、ひとり馬車へ乗り込むエステルの背中を見送ることさえ、当時の彼には億劫だった。
「エステル。今日こそ、私にも同行させてくれ」
馬車へ向かう彼女の前に、レオニスはびしょ濡れのまま立ちはだかった。
罪滅ぼしのつもりだった。今さら何をしたところで遅いと分かっていても、彼女の悲しみに寄り添う形を見せれば、何かが変わるのではないか――そんな浅い望みが喉元まで押し上げてくる。
エステルは傘を差したまま、感情の抜けた瞳で夫を見る。
「閣下。わざわざ雨の中を……どうぞお気遣いなく。公務がお忙しいのでしょう? 亡き者は、生者の時間を奪うことを望みませんわ」
「仕事なら調整した。頼む。君をひとりで行かせたくない」
「……左様ですか。義務感からの同行であれば、お止めはいたしません。どうぞ」
淡々と告げる声が、雨より冷たい。
馬車の中は、死後の世界のように静まり返っていた。
レオニスが言葉を探しても、返るのは決まって同じ。
「左様でございますか」
「ご配慮に感謝いたします」
完璧な敬語の壁。こちら側へ通す気がない。
墓所に着くと、エステルは両親の墓前に跪き、静かに祈りを捧げた。
その横顔を見て、レオニスは胸の奥がひやりとする。
――泣いていない。
かつては違った。花を供えるだけで「お父様、お母様……」と声を震わせ、孤独を訴えるように泣いた。
あの涙も、あの弱さも、もうどこにもない。
祈りを終え、立ち上がったエステルは、墓石の隣――何もない泥濘の一角を、じっと見つめた。
「エステル。どうした? そこには何も――」
「ええ。何もないからこそ。ここには、私が埋めたのですわ。閣下」
薄く笑う。凍てつくほど静かな微笑。
「私があなたを愛していた頃、墓参りのたびに……ここへ『私の心』を少しずつ置いていきました。
いつか振り向いていただける、という淡い期待と一緒に」
雨の匂いが濃くなる。胸が痛む。
「……けれど、去年のこの日に。私は残りのすべてを埋葬いたしました。
もう芽吹くことのない種として」
「エステル……君は……」
「ここに眠っているのは両親だけではありません」
エステルは視線を動かさないまま言う。
「あなたを盲目的に信じ、あなたの顔色ひとつで呼吸を変えていた、愚かな『エステル』という女。
……あれは、ここで終わりました」
そして、礼儀正しく、冷酷に言い切った。
「ですから閣下。今さら花を供えるような真似は、どうぞお気遣いなく。
墓荒らしをされるのは、あまり気分の良いものではございませんから」
彼女は持っていた白い花を、泥の上へぽとりと落とした。
供花というより、不要物を処分する手つきだった。
「さあ、帰りましょう。湿気はドレスを傷めますわ」
歩き出しながら、思い出したように付け足す。
「……ああ、閣下。来年からは、この行事への参加も『契約外』として免除いたします。
無意味な場所に足を運ぶのは、閣下の高い美意識に反するでしょう?」
雨音だけが、容赦なく耳を叩く。
レオニスは悟った。
彼女は両親の墓の隣に、自分との思い出も愛も――遺体として埋めてしまったのだ。
目の前にいるのは、その墓を守るだけの、美しく冷徹な管理人。
差し出そうとした傘は、すでに誰のことも守れない。
ただ震えながら、濡れた柄を握られているだけだった。
エステルの亡き両親の命日だ。
かつてのレオニスは、この日を「たかが法事」と切り捨てた。
一度として同行したこともない。
喪服を纏い、ひとり馬車へ乗り込むエステルの背中を見送ることさえ、当時の彼には億劫だった。
「エステル。今日こそ、私にも同行させてくれ」
馬車へ向かう彼女の前に、レオニスはびしょ濡れのまま立ちはだかった。
罪滅ぼしのつもりだった。今さら何をしたところで遅いと分かっていても、彼女の悲しみに寄り添う形を見せれば、何かが変わるのではないか――そんな浅い望みが喉元まで押し上げてくる。
エステルは傘を差したまま、感情の抜けた瞳で夫を見る。
「閣下。わざわざ雨の中を……どうぞお気遣いなく。公務がお忙しいのでしょう? 亡き者は、生者の時間を奪うことを望みませんわ」
「仕事なら調整した。頼む。君をひとりで行かせたくない」
「……左様ですか。義務感からの同行であれば、お止めはいたしません。どうぞ」
淡々と告げる声が、雨より冷たい。
馬車の中は、死後の世界のように静まり返っていた。
レオニスが言葉を探しても、返るのは決まって同じ。
「左様でございますか」
「ご配慮に感謝いたします」
完璧な敬語の壁。こちら側へ通す気がない。
墓所に着くと、エステルは両親の墓前に跪き、静かに祈りを捧げた。
その横顔を見て、レオニスは胸の奥がひやりとする。
――泣いていない。
かつては違った。花を供えるだけで「お父様、お母様……」と声を震わせ、孤独を訴えるように泣いた。
あの涙も、あの弱さも、もうどこにもない。
祈りを終え、立ち上がったエステルは、墓石の隣――何もない泥濘の一角を、じっと見つめた。
「エステル。どうした? そこには何も――」
「ええ。何もないからこそ。ここには、私が埋めたのですわ。閣下」
薄く笑う。凍てつくほど静かな微笑。
「私があなたを愛していた頃、墓参りのたびに……ここへ『私の心』を少しずつ置いていきました。
いつか振り向いていただける、という淡い期待と一緒に」
雨の匂いが濃くなる。胸が痛む。
「……けれど、去年のこの日に。私は残りのすべてを埋葬いたしました。
もう芽吹くことのない種として」
「エステル……君は……」
「ここに眠っているのは両親だけではありません」
エステルは視線を動かさないまま言う。
「あなたを盲目的に信じ、あなたの顔色ひとつで呼吸を変えていた、愚かな『エステル』という女。
……あれは、ここで終わりました」
そして、礼儀正しく、冷酷に言い切った。
「ですから閣下。今さら花を供えるような真似は、どうぞお気遣いなく。
墓荒らしをされるのは、あまり気分の良いものではございませんから」
彼女は持っていた白い花を、泥の上へぽとりと落とした。
供花というより、不要物を処分する手つきだった。
「さあ、帰りましょう。湿気はドレスを傷めますわ」
歩き出しながら、思い出したように付け足す。
「……ああ、閣下。来年からは、この行事への参加も『契約外』として免除いたします。
無意味な場所に足を運ぶのは、閣下の高い美意識に反するでしょう?」
雨音だけが、容赦なく耳を叩く。
レオニスは悟った。
彼女は両親の墓の隣に、自分との思い出も愛も――遺体として埋めてしまったのだ。
目の前にいるのは、その墓を守るだけの、美しく冷徹な管理人。
差し出そうとした傘は、すでに誰のことも守れない。
ただ震えながら、濡れた柄を握られているだけだった。
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