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第XIX章:『仮面の剥離、本当の絶望』
レオニスは悟った。
愛しているからこそ、このまま「契約」という檻に閉じ込めておくのは、彼女をさらに汚すだけだと。
「……エステル。これを」
震える手で差し出したのは、公爵家の紋章が押された一通の書類――離縁状。
「君を自由にする。慰謝料も、今後一生困らないだけの領地も用意した。
……望むなら、隣国の実家へ帰ってもいい。ここで私という“契約相手”に縛られる必要はない」
これが最後の償いだ。
彼女が望んだ「自立」を、名実ともに完成させる。
きっと晴れやかに屋敷を去る――そう信じ、心を裂く覚悟もしていた。
しかし、エステルは離縁状を見もしなかった。
視線は、彼の胸のあたりを素通りする。
「……離縁? 閣下、それは冗談ですの?」
「冗談なものか。君はもう私を愛していない。私も、これ以上苦痛を強いたくない。
自由になってくれ、エステル」
エステルは、氷が割れるような短い笑みを零した。
「自由、ですか。お忘れになったのでしょうか。
私はすでに『エステル』という一人の女であることを捨て、完璧な『公爵夫人』として生きる契約を――結んだのです」
「だから、その契約を解除すると言っている!」
「いいえ。お断りいたします」
エステルはまっすぐ彼を見た。
そこにあるのは解放を望む光ではなく、殉教者のような暗い執念。
「私がどれほど時間をかけて、あなたにふさわしい感情のない機械になりおおせたと思っているのですか。
傷つき、血を流し、心を殺して――ようやく手に入れた地位です。今さら捨てろと?」
「エステル……」
「あなたが望んだのでしょう。
縋らず、泣かず、家門のためにのみ動く妻を。……私はその通りになりました」
彼女の声は、淡々としている。淡々としているからこそ残酷だった。
「今の私は、この公爵家という組織において、最も有能な歯車です。
それを『愛がないから』という、あなたがかつて軽蔑していたはずの情緒で投げ出すのは――無責任にも程がありますわ」
エステルは離縁状を、指先で押し返した。
触れるというより、書類を正しい位置に戻すだけの動き。
「私は死ぬまで、ここで義務を全ういたします。
あなたの隣で、完璧な微笑を浮かべ、完璧な事務処理をし、そして――完璧にあなたを無視し続ける」
そこで、微笑がほんの少しだけ深くなる。
「それが、私が選んだ。……そして、あなたが私に強いた生涯の刑罰ですわ」
「……自分を壊してまで、私に復讐するつもりか」
「復讐? どうぞ、お気遣いなく」
エステルは軽く首を傾げる。
「これはただの『誠実さ』です。閣下」
彼女は彼の頬に手を添えた。
慈しみは一片もない。冷え切った指先が皮膚を測るように触れる。
「私は逃げません。あなたの隣で、あなたが求めた『理想の妻』として生きます。
永遠に、あなたの心を干上がらせて差し上げますわ」
囁きは甘くない。鈍い刃のように静かだ。
「離縁して楽になれるなど――そんな虫のいい話は許しません。
さあ、今夜は晩餐会がございます。公爵夫妻として、仲睦まじい仮面を被りに参りましょう?」
レオニスは、その場に崩れ落ちた。
自由を与えることだけが救いだと思っていた。
だが、エステルは救いなど求めていない。
彼女は、レオニスが築いた冷酷な正論という檻の中で、自ら鍵をかけ――その鍵を飲み込んでしまったのだ。
死ぬまで続く、愛のない、しかし完璧な夫婦生活。
それが彼に下された、本当の、そして最後の絶望だった。
愛しているからこそ、このまま「契約」という檻に閉じ込めておくのは、彼女をさらに汚すだけだと。
「……エステル。これを」
震える手で差し出したのは、公爵家の紋章が押された一通の書類――離縁状。
「君を自由にする。慰謝料も、今後一生困らないだけの領地も用意した。
……望むなら、隣国の実家へ帰ってもいい。ここで私という“契約相手”に縛られる必要はない」
これが最後の償いだ。
彼女が望んだ「自立」を、名実ともに完成させる。
きっと晴れやかに屋敷を去る――そう信じ、心を裂く覚悟もしていた。
しかし、エステルは離縁状を見もしなかった。
視線は、彼の胸のあたりを素通りする。
「……離縁? 閣下、それは冗談ですの?」
「冗談なものか。君はもう私を愛していない。私も、これ以上苦痛を強いたくない。
自由になってくれ、エステル」
エステルは、氷が割れるような短い笑みを零した。
「自由、ですか。お忘れになったのでしょうか。
私はすでに『エステル』という一人の女であることを捨て、完璧な『公爵夫人』として生きる契約を――結んだのです」
「だから、その契約を解除すると言っている!」
「いいえ。お断りいたします」
エステルはまっすぐ彼を見た。
そこにあるのは解放を望む光ではなく、殉教者のような暗い執念。
「私がどれほど時間をかけて、あなたにふさわしい感情のない機械になりおおせたと思っているのですか。
傷つき、血を流し、心を殺して――ようやく手に入れた地位です。今さら捨てろと?」
「エステル……」
「あなたが望んだのでしょう。
縋らず、泣かず、家門のためにのみ動く妻を。……私はその通りになりました」
彼女の声は、淡々としている。淡々としているからこそ残酷だった。
「今の私は、この公爵家という組織において、最も有能な歯車です。
それを『愛がないから』という、あなたがかつて軽蔑していたはずの情緒で投げ出すのは――無責任にも程がありますわ」
エステルは離縁状を、指先で押し返した。
触れるというより、書類を正しい位置に戻すだけの動き。
「私は死ぬまで、ここで義務を全ういたします。
あなたの隣で、完璧な微笑を浮かべ、完璧な事務処理をし、そして――完璧にあなたを無視し続ける」
そこで、微笑がほんの少しだけ深くなる。
「それが、私が選んだ。……そして、あなたが私に強いた生涯の刑罰ですわ」
「……自分を壊してまで、私に復讐するつもりか」
「復讐? どうぞ、お気遣いなく」
エステルは軽く首を傾げる。
「これはただの『誠実さ』です。閣下」
彼女は彼の頬に手を添えた。
慈しみは一片もない。冷え切った指先が皮膚を測るように触れる。
「私は逃げません。あなたの隣で、あなたが求めた『理想の妻』として生きます。
永遠に、あなたの心を干上がらせて差し上げますわ」
囁きは甘くない。鈍い刃のように静かだ。
「離縁して楽になれるなど――そんな虫のいい話は許しません。
さあ、今夜は晩餐会がございます。公爵夫妻として、仲睦まじい仮面を被りに参りましょう?」
レオニスは、その場に崩れ落ちた。
自由を与えることだけが救いだと思っていた。
だが、エステルは救いなど求めていない。
彼女は、レオニスが築いた冷酷な正論という檻の中で、自ら鍵をかけ――その鍵を飲み込んでしまったのだ。
死ぬまで続く、愛のない、しかし完璧な夫婦生活。
それが彼に下された、本当の、そして最後の絶望だった。
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