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最終章:『永遠に凍てつく楽園』
それから、数十年の月日が流れた。
かつて社交界を騒がせたレオニス公爵夫妻は、今や「帝国の至宝」と称される模範の老夫婦となっていた。
夫人は衰えぬ知性と気品で公爵家を繁栄へ導き、公爵はただ一人の妻を終生、病的なまでに世話し続けた。
人々は彼らを「愛の結晶」と呼び、若い貴族たちはその絆に憧れた。
――だが、その内側を知る者は、屋敷に一人としていなかった。
晩冬の午後。
老いたレオニスは寝椅子に横たわるエステルの傍らに座っていた。
エステルの髪は雪のように白い。
けれどその美しさは、凍った湖面のように鋭く、静まり返ったままだ。
「……エステル。外は、あの日と同じ雪だ」
震える手で、彼女の細い指を包む。
数十年、彼は毎日こうして触れ、語りかけてきた。
かつて言えなかった愛の言葉を、何万回も。
それでも――エステルが握り返したことは、一度もない。
「左様でございますか、閣下。
……庭師には、庭園の彫像が傷まぬよう防寒の指示を出しておきました。どうぞ、お気遣いなく」
窓の外を見たまま答える。
彼女の瞳は、あの夜会以来、彼を正視しなかった。
「エステル……もう、いいだろう」
レオニスの喉は擦れ、声は祈りになった。
「私は十分に報いを受けた。この数十年の孤独で……君がどれほど痛んでいたかを思い知った。
頼む。死ぬ前に一度でいい。私の名を……レオニスと、呼んでくれ」
契約という冷たい鎧を脱ぎ捨て、ただの男として看取られたかった。
エステルは、ゆっくりと顔を動かした。
そしてようやく、レオニスを見る。
胸が――数十年ぶりに、期待で跳ねる。
だが、彼女の瞳に宿っていたのは慈しみではない。
完成した仕事を眺める職人のような、淡い満足だった。
「閣下。……私は誓った通り、完璧な公爵夫人として生涯を全ういたしましたわ。
一度も感情に流されず、一度もあなたを煩わせず、あなたの理想を体現し続けました。……満足、でしょう?」
「そんなことが言いたいんじゃない……!」
「私は、幸せでしたわ」
ふわり、と微笑む。
それは確かに、かつて彼が愛した甘い微笑だった。
レオニスの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
――戻ってきてくれた。そう錯覚した。
けれど、次の言葉が、その錯覚を凍らせる。
「……あなたの愛を一切必要としないほどに、私は私自身を愛し、誇ることができました。
あなたが望んだ『自立』とは、こういうことでしょう?」
吐息のように、最後を告げる。
「――さあ、契約終了の時間ですわ」
エステルの瞳から、最後の光が消えていく。
彼女は最後まで、夫として彼を愛することを拒み、
「完璧な公爵夫人」という役割を完遂した勝利者として、その生涯を閉じた。
「エステル! エステル……!」
レオニスは亡骸に縋り、慟哭した。
彼女が遺したのは、完璧に整えられた領地、莫大な遺産、そして理想の公爵夫人という伝説。
だが、彼が欲しかった「エステル」という女は、もういない。
あの日。回廊で彼が放った一言とともに――とっくに死んでいたのだ。
レオニスは、彼女の冷たい指先に、かつて修復した懐中時計を握らせた。
針は動かない。
公爵は、その後を追うように数日後、息を引き取った。
二人は同じ墓所に葬られ、墓石には並んで名が刻まれた。
けれど、死してなお――レオニスが彼女の名を呼んでも、隣で眠る「完璧な公爵夫人」が応えることはない。
雪は降り続ける。
すべてを白く塗り潰すように。
そこは、一人の愚かな男が築き、一人の賢い女が守り抜いた、
永遠に凍てつく楽園だった。
かつて社交界を騒がせたレオニス公爵夫妻は、今や「帝国の至宝」と称される模範の老夫婦となっていた。
夫人は衰えぬ知性と気品で公爵家を繁栄へ導き、公爵はただ一人の妻を終生、病的なまでに世話し続けた。
人々は彼らを「愛の結晶」と呼び、若い貴族たちはその絆に憧れた。
――だが、その内側を知る者は、屋敷に一人としていなかった。
晩冬の午後。
老いたレオニスは寝椅子に横たわるエステルの傍らに座っていた。
エステルの髪は雪のように白い。
けれどその美しさは、凍った湖面のように鋭く、静まり返ったままだ。
「……エステル。外は、あの日と同じ雪だ」
震える手で、彼女の細い指を包む。
数十年、彼は毎日こうして触れ、語りかけてきた。
かつて言えなかった愛の言葉を、何万回も。
それでも――エステルが握り返したことは、一度もない。
「左様でございますか、閣下。
……庭師には、庭園の彫像が傷まぬよう防寒の指示を出しておきました。どうぞ、お気遣いなく」
窓の外を見たまま答える。
彼女の瞳は、あの夜会以来、彼を正視しなかった。
「エステル……もう、いいだろう」
レオニスの喉は擦れ、声は祈りになった。
「私は十分に報いを受けた。この数十年の孤独で……君がどれほど痛んでいたかを思い知った。
頼む。死ぬ前に一度でいい。私の名を……レオニスと、呼んでくれ」
契約という冷たい鎧を脱ぎ捨て、ただの男として看取られたかった。
エステルは、ゆっくりと顔を動かした。
そしてようやく、レオニスを見る。
胸が――数十年ぶりに、期待で跳ねる。
だが、彼女の瞳に宿っていたのは慈しみではない。
完成した仕事を眺める職人のような、淡い満足だった。
「閣下。……私は誓った通り、完璧な公爵夫人として生涯を全ういたしましたわ。
一度も感情に流されず、一度もあなたを煩わせず、あなたの理想を体現し続けました。……満足、でしょう?」
「そんなことが言いたいんじゃない……!」
「私は、幸せでしたわ」
ふわり、と微笑む。
それは確かに、かつて彼が愛した甘い微笑だった。
レオニスの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
――戻ってきてくれた。そう錯覚した。
けれど、次の言葉が、その錯覚を凍らせる。
「……あなたの愛を一切必要としないほどに、私は私自身を愛し、誇ることができました。
あなたが望んだ『自立』とは、こういうことでしょう?」
吐息のように、最後を告げる。
「――さあ、契約終了の時間ですわ」
エステルの瞳から、最後の光が消えていく。
彼女は最後まで、夫として彼を愛することを拒み、
「完璧な公爵夫人」という役割を完遂した勝利者として、その生涯を閉じた。
「エステル! エステル……!」
レオニスは亡骸に縋り、慟哭した。
彼女が遺したのは、完璧に整えられた領地、莫大な遺産、そして理想の公爵夫人という伝説。
だが、彼が欲しかった「エステル」という女は、もういない。
あの日。回廊で彼が放った一言とともに――とっくに死んでいたのだ。
レオニスは、彼女の冷たい指先に、かつて修復した懐中時計を握らせた。
針は動かない。
公爵は、その後を追うように数日後、息を引き取った。
二人は同じ墓所に葬られ、墓石には並んで名が刻まれた。
けれど、死してなお――レオニスが彼女の名を呼んでも、隣で眠る「完璧な公爵夫人」が応えることはない。
雪は降り続ける。
すべてを白く塗り潰すように。
そこは、一人の愚かな男が築き、一人の賢い女が守り抜いた、
永遠に凍てつく楽園だった。
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