あなたへの愛を捨てた日

柴田はつみ

文字の大きさ
20 / 20

最終章:『永遠に凍てつく楽園』

それから、数十年の月日が流れた。

かつて社交界を騒がせたレオニス公爵夫妻は、今や「帝国の至宝」と称される模範の老夫婦となっていた。
夫人は衰えぬ知性と気品で公爵家を繁栄へ導き、公爵はただ一人の妻を終生、病的なまでに世話し続けた。

人々は彼らを「愛の結晶」と呼び、若い貴族たちはその絆に憧れた。

――だが、その内側を知る者は、屋敷に一人としていなかった。

晩冬の午後。
老いたレオニスは寝椅子に横たわるエステルの傍らに座っていた。

エステルの髪は雪のように白い。
けれどその美しさは、凍った湖面のように鋭く、静まり返ったままだ。

「……エステル。外は、あの日と同じ雪だ」

震える手で、彼女の細い指を包む。
数十年、彼は毎日こうして触れ、語りかけてきた。
かつて言えなかった愛の言葉を、何万回も。

それでも――エステルが握り返したことは、一度もない。

「左様でございますか、閣下。
……庭師には、庭園の彫像が傷まぬよう防寒の指示を出しておきました。どうぞ、お気遣いなく」

窓の外を見たまま答える。
彼女の瞳は、あの夜会以来、彼を正視しなかった。

「エステル……もう、いいだろう」

レオニスの喉は擦れ、声は祈りになった。

「私は十分に報いを受けた。この数十年の孤独で……君がどれほど痛んでいたかを思い知った。
頼む。死ぬ前に一度でいい。私の名を……レオニスと、呼んでくれ」

契約という冷たい鎧を脱ぎ捨て、ただの男として看取られたかった。

エステルは、ゆっくりと顔を動かした。
そしてようやく、レオニスを見る。

胸が――数十年ぶりに、期待で跳ねる。

だが、彼女の瞳に宿っていたのは慈しみではない。
完成した仕事を眺める職人のような、淡い満足だった。

「閣下。……私は誓った通り、完璧な公爵夫人として生涯を全ういたしましたわ。
一度も感情に流されず、一度もあなたを煩わせず、あなたの理想を体現し続けました。……満足、でしょう?」

「そんなことが言いたいんじゃない……!」

「私は、幸せでしたわ」

ふわり、と微笑む。
それは確かに、かつて彼が愛した甘い微笑だった。

レオニスの目から、堰を切ったように涙が溢れた。
――戻ってきてくれた。そう錯覚した。

けれど、次の言葉が、その錯覚を凍らせる。

「……あなたの愛を一切必要としないほどに、私は私自身を愛し、誇ることができました。
あなたが望んだ『自立』とは、こういうことでしょう?」

吐息のように、最後を告げる。

「――さあ、契約終了の時間ですわ」

エステルの瞳から、最後の光が消えていく。

彼女は最後まで、夫として彼を愛することを拒み、
「完璧な公爵夫人」という役割を完遂した勝利者として、その生涯を閉じた。

「エステル! エステル……!」

レオニスは亡骸に縋り、慟哭した。

彼女が遺したのは、完璧に整えられた領地、莫大な遺産、そして理想の公爵夫人という伝説。
だが、彼が欲しかった「エステル」という女は、もういない。

あの日。回廊で彼が放った一言とともに――とっくに死んでいたのだ。

レオニスは、彼女の冷たい指先に、かつて修復した懐中時計を握らせた。
針は動かない。

公爵は、その後を追うように数日後、息を引き取った。

二人は同じ墓所に葬られ、墓石には並んで名が刻まれた。
けれど、死してなお――レオニスが彼女の名を呼んでも、隣で眠る「完璧な公爵夫人」が応えることはない。

雪は降り続ける。
すべてを白く塗り潰すように。

そこは、一人の愚かな男が築き、一人の賢い女が守り抜いた、
永遠に凍てつく楽園だった。

この作品は感想を受け付けておりません。

あなたにおすすめの小説

どうぞ、おかまいなく

こだま。
恋愛
婚約者が他の女性と付き合っていたのを目撃してしまった。 婚約者が好きだった主人公の話。

【完結】冷酷伯爵ディートリヒは、去った妻を取り戻せない

くろねこ
恋愛
名門伯爵家に政略結婚で嫁いだ、正妻エレノア・リーヴェルト。夫である伯爵ディートリヒ・フォン・アイゼンヴァルトは、 軍務と義務を最優先し、彼女に関心を向けることはなかった。 言葉も、視線も、愛情も与えられない日々。それでも伯爵夫人として尽くし続けたエレノアは、ある一言をきっかけに、静かに伯爵家を去る決意をする。 ――そして初めて、夫は気づく。 自分がどれほど多くのものを、彼女から与えられていたのかを。 一方、エレノアは新たな地でその才覚と人柄を評価され、 「必要とされる存在」として歩き始めていた。 去った妻を想い、今さら後悔する冷酷伯爵。前を向いて生きる正妻令嬢。 これは、失ってから愛に気づいた男と、 二度と戻らないかもしれない夫婦の物語。 ――今さら、遅いのです。

『紅茶の香りが消えた午後に』

柴田はつみ
恋愛
穏やかで控えめな公爵令嬢リディアの唯一の楽しみは、幼なじみの公爵アーヴィンと過ごす午後の茶会だった。 けれど、近隣に越してきた伯爵令嬢ミレーユが明るく距離を詰めてくるたび、二人の時間は少しずつ失われていく。 誤解と沈黙、そして抑えた想いの裏で、すれ違う恋の行方は——。

「君は完璧だから、放っておいても大丈夫」と笑った夫。~王宮から私が去ったあと「愛していた」と泣きついても、もう手遅れです~

水上
恋愛
「君は完璧だから、放っておいても大丈夫だ」 夫である王太子はそう笑い、泣き真似が得意な見習い令嬢ばかりを優先した。 王太子妃セシリアは、怒り狂うこともなく、静かに心を閉ざす。 「左様でございますか」 彼女は夫への期待というノイズを遮断し、離縁の準備を始めた。

ため息ひとつ――王宮に散る花びらのように

柴田はつみ
恋愛
「離縁を、お願いしたいのです」 笑顔で、震えずに、エレナはそう言った。 夫は言葉を失った。泣いてくれれば、怒ってくれれば、まだ受け止め方があった。しかしあの静けさは、エレナがもう十分に泣き終わった後の顔だと、ヴィクトルにはわかった。 幼なじみと結ばれた三年間。すれ違いは静かに始まり、深紅のドレスの令嬢によって加速した。ため息を飲み込み、完璧な微笑みを保ち続けた公爵夫人が、最後に選んだのは――。 王宮に散る花びらのような、夫婦の崩壊と再生の物語。

旦那様は離縁をお望みでしょうか

村上かおり
恋愛
 ルーベンス子爵家の三女、バーバラはアルトワイス伯爵家の次男であるリカルドと22歳の時に結婚した。  けれど最初の顔合わせの時から、リカルドは不機嫌丸出しで、王都に来てもバーバラを家に一人残して帰ってくる事もなかった。  バーバラは行き遅れと言われていた自分との政略結婚が気に入らないだろうと思いつつも、いずれはリカルドともいい関係を築けるのではないかと待ち続けていたが。

『最後に名前を呼ばれた日、私はもう妻じゃなかった』

まさき
恋愛
「おい」「なあ」 それが、夫が私を呼ぶときの言葉だった。 名前を呼ばれなくなって三年。 私は、誰かの妻ではあっても、もう“私”ではなかった。 気づかないふりをして、耐えて、慣れて、 それでも心は、少しずつ削れていった。 ——だから、決めた。 この結婚を、終わらせると。 最後の日、彼は初めて私の名前を呼ぶ。 でも、その声は、もう届かない。

《完結》初夜をすっぽかされた令嬢は夫を死亡扱いする

さんけい
恋愛
クズ夫の非常識を帳簿で粛々と清算!真実の愛?笑わせるわね! 全14話。