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第10章|作法講師セレナの冷評
しおりを挟む茶会室の扉が叩かれたのは、まるで“場”が崩れる寸前に差し込まれた楔のようだった。
控えめなノック。
それでも、室内の誰もが顔を上げる。
——誰かが来た。
この空気を、見られる。
「失礼いたします」
入ってきたのは作法講師セレナだった。
年齢は若くない。けれど老いてもいない。厳しさが皮膚になったような人だ。
髪は艶のある黒褐色にまとめ、金の縁の眼鏡の奥の瞳は冷たい湖の色をしている。
彼女はまず、王太子に礼を取る。次に妃に礼を取る。
そして——ミレーユには、礼を取らない。
それが、すでに“評価”だった。
「殿下。妃殿下。少々、お時間を頂戴いたします」
言い方に無駄がない。
許可を求めているようで、断られないと知っている口調。
アーヴィンが頷いた。
「セレナ。何かあったのか」
「はい。……王宮の礼節に関して、確認事項がございます」
確認事項。
その言葉が、空気を引き締める。
セレナの視線が窓辺の卓へ落ちた。
砂糖壺の位置。茶器の並び。椅子の距離。
そのわずかな乱れを、彼女は“乱れ”として捉える。
「本日の茶会は、公式の場ではなくとも、王太子殿下と王太子妃殿下が並ぶ場でございますね」
問いの形。
しかし答えは決まっている。
「……そうだ」
アーヴィンが答える。
セレナは頷き、次の言葉を落とした。
「であれば、伯爵令嬢が“整える”必要はございません」
冷たい。
断罪ではない。事実の提示。
だからこそ逃げ道がない。
ミレーユが目を見開く。
「わたくし、整えたわけでは……ただ、殿下が取りやすいようにと——」
弁解。
善意。
その二つは、時に礼節を壊す。
セレナは眉ひとつ動かさず言った。
「善意は免罪符ではございません。礼節は、善意より優先されます」
室内が、しんと静まる。
ミナの胸が少しだけ上がった。
ヘレナが一瞬、目を閉じる。
ようやく“王宮の言葉”が、妃の側に立った。
セレナは、さらに続ける。
「伯爵令嬢。あなたは王宮に出入りする資格をお持ちです。ですが——王宮は“資格”ではなく“振る舞い”で、その人の価値を測ります」
価値。
その言葉が、ミレーユの頬を赤くした。
羞恥か、怒りか。
あるいは、両方。
「妃殿下は、あなたを咎める立場にあります。けれど妃殿下が場を荒立てぬよう言葉を選び、あなたの顔を立てておいでなのは、見れば分かります」
セレナは、リディアを見ない。
あくまで、言葉で“妃の品位”を示す。
それが、最大の擁護だった。
ミレーユが唇を震わせる。
「……わたくし、そんな……妃殿下に恥をかかせるつもりなど」
「つもり、ではなく結果です」
セレナは即答した。
ためらいも、慈悲もない。
アデラが扇の奥で息を飲む。
この冷評は、噂としても強い。
だがセレナは噂を恐れない。礼節の権威だからだ。
エステルが口を挟もうとして、飲み込んだ。
作法講師に口答えすれば、取り巻きごと焼ける。
セレナの視線が、今度はアーヴィンへ向いた。
「殿下。最後に一点」
それは、ここまでで最も重要な矛先だった。
「殿下が“細かいことはいい”と仰ったと伺いました」
——聞かれていた。
この場の外にも耳がある。
王宮の怖さが、静かに背筋を撫でる。
アーヴィンの眉がわずかに動く。
「……茶会の場だ。穏やかに済ませたかっただけだ」
言い訳。
そして、その言い訳が、リディアの胸をさらに冷やす。
——穏やかに済ませたいのは、私の心ではなく、場の空気。
セレナは、容赦なく言った。
「殿下。穏やかに済ませるために礼節を曖昧にすれば、王宮は必ず“別の形”で荒れます。礼節は、荒れぬための鎖です」
鎖。
その言い方は冷たいのに、正しい。
「妃殿下の正しさを止めれば、妃殿下は言葉を失います。妃殿下が言葉を失えば——殿下は、いずれ妃殿下の心を失います」
言い切った瞬間、室内の空気が凍りつく。
ミナが息を止める。
ヘレナの指が震える。
アデラの扇が、ぴたりと止まる。
リディアだけが、微笑んでいた。
微笑んで——瞳の奥が、少しだけ遠い。
アーヴィンは、何も言えなかった。
否定できない。肯定もできない。
ただ、沈黙するしかない。
セレナは最後に、ミレーユを見た。
その視線は、刃ではない。鏡だ。
「伯爵令嬢。王宮に相応しい距離を学びなさい。あなたが学べないなら——王宮は、あなたを拒みます」
脅しではない。
規範が規範として告げた、当然の帰結。
ミレーユの目に涙が溜まる。
今度の涙は、武器ではなく、悔しさに見えた。
セレナはそれを見ても、表情を変えない。
「本日は以上です。妃殿下、失礼いたしました」
ようやくセレナは、リディアへ深く礼を取った。
それは“妃の品位”への敬意だった。
そして彼女は去る。
残されたのは、正しさと、沈黙と、さらに重くなった空気。
リディアは、カップを持ち上げた。
香りは同じ。
けれど、今はただ——喉を通すための熱だった。
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