あなたの隣は私ではないけれど、それでも好きでいてもいいですか、レオナルド様

柴田はつみ

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第九章「雨の日の馬車」

朝から、空が重かった。

鉛色の雲が王都の上に低く垂れ込めて、風が湿った匂いを運んでくる。庭園の薔薇の枝が揺れ、街路樹の葉が裏返って、行き交う人々が空を仰いでは足を速めていく。
雨が来る。

誰もがそれを知っていた。
エリアーナも、知っていた。
それなのに——今日に限って、傘を持ってこなかった。

王立図書館の催しに出席するために、エリアーナが家を出たのは昼前だった。
その頃はまだ、雲の切れ間から薄い光が差していた。馬車で行けばいい距離だったけれど、久しぶりに少し歩きたい気分だったから、途中で降りて歩くことにした。


クロエに止められた。
「お嬢様、今日は天気が崩れます。馬車で行かれた方が——」
「大丈夫よ、すぐそこだもの」
「でも——」
「クロエ、心配しすぎ」
そうして歩き出したのが、いけなかった。

図書館に着いてから一時間も経たないうちに、窓の外が暗くなった。それからものの十分で、雨粒が石畳を叩き始めた。
最初は細い雨だった。


しかしみるみるうちに激しくなって、通りを走る人々が軒先へと飛び込んでいく。空が、白く霞んでいく。

エリアーナは図書館の入り口で立ち止まり、空を見上げた。
(クロエの言う通りだったわ)
小さく、息をついた。

「エリアーナ」
声がして、振り返った。

レオナルドが、そこに立っていた。
黒い外套を羽織り、手に書類の入った革鞄を提げて——こちらを見ていた。

エリアーナは、瞬きをした。
「レオナルド様……どうしてこちらに?」
「王立図書館に用があった」
素っ気なく、言った。

それからエリアーナの手元を見た。傘がない。
次に空を見た。土砂降りになりつつある雨を見た。
また、エリアーナを見た。

「……馬車は?」
「途中で降りて歩いてきたので、ここにはなくて」
「迎えを呼んだか」
「今、使いを——」
「乗っていけ」
短く、言った。
「俺の馬車がある」

雨の音が、屋根を叩いていた。
馬車の中は、外の騒音が遠くなって、静かだった。
シートの革が冷たく、窓ガラスに雨粒が伝っていく。外の景色が滲んで、王都の街並みが水彩画のように柔らかくなっていた。

向かいに、レオナルドがいた。
昨日のセバスチャンの訪問以来——レオナルドが、エリアーナを見る目が、少し変わった気がした。
気のせいかもしれない。でも、確かに。
何かが、変わった気がした。

馬車が動き出した。
石畳を行く車輪の音が規則正しく響き、雨音がそれに重なる。馬蹄の音。遠くで鐘が鳴る音。雨の王都は、いつもより静かで——どこか、夢の中のようだった。

沈黙が続いた。
エリアーナは窓の外を見ていた。滲む景色を眺めながら、雨粒が窓を伝っていくのを、ただ目で追っていた。

(雨の日が好きだわ)

ふと、思った。
外に出られない代わりに、窓辺で本が読める。世界がほんの少し小さくなって、部屋の中に閉じ込められた時間が、全部自分だけのものになる気がして。
そういう静けさが、好きだった。

「……雨が、好きなのか」

声がした。
エリアーナは顔を上げた。

レオナルドが、自分を見ていた。
「え?」
「表情が、さっきと違う」
「……どう違うんですか」
「柔らかい」

さらりと、言った。
エリアーナの頬が、かすかに温かくなった。

「……雨の日は、好きです。窓の外を見ているだけで、何か物語の中にいるような気がして」
「物語」
「ええ。雨って……世界を少し変えてくれる気がするから」

言ってから、少し恥ずかしくなった。
そんなことを口にするつもりはなかったのに。

「……変なことを言いましたね、すみません」
「変ではない」
レオナルドが、静かに言った。
「……そういう風に見えるのか、雨が」

独り言のような、小さな声だった。
どこか、考え込むような——そういう声だった。

馬車が、大きな水溜まりを越えた。
揺れた拍子に、窓の外の景色が大きく動いた。雨粒が窓を斜めに流れ、街灯の光が細く滲んだ。

レオナルドが、革鞄を膝の上に置いた。
書類を出そうとして——出さなかった。
またエリアーナを見た。

「エリアーナ」
「はい」
「本が好きだと聞いた」

エリアーナは、少し驚いた。
「……どなたから?」
「ロイドから」
「あら」
「旅行記が好きだと」
「……はい。まだ王都の外へ、あまり行ったことがなくて。だから本の中で旅をするのが好きで」
「行きたい場所はあるか」

「え?」

レオナルドが、まっすぐにエリアーナを見ていた。
いつもの静かな琥珀色の瞳が——今日は、少しだけ、柔らかい気がした。

「行きたい場所。どこかあるだろう」

エリアーナは、少しの間、答えを探した。
誰かにそんなことを聞かれたのは、初めてだった。

「……北部のルシエ湖に、また行きたいです。子どもの頃に一度だけ行って、それきりで。秋になると湖面が真っ赤に染まるって、本に書いてあって——自分の目で見てみたくて」
「……そうか」

レオナルドが、頷いた。
何かを、頭の中にしまうような——そういう頷き方だった。

エリアーナは、その横顔を、そっと見た。
(今日のレオナルド様は)
(何かが、違う)

雨が、少し強くなった。
馬車の屋根を叩く音が大きくなって、外の音が全部消えていく。世界が雨に閉じ込められて、この馬車だけが取り残されたような——そういう錯覚を覚えた。

(雨が世界を少し変える)

さっき自分が言った言葉が、頭の中で繰り返された。
本当に——今日は、少し違う気がした。
この人が、質問をしてくれる。自分の好きなものを、聞いてくれる。
三年間で、こんな時間は——あっただろうか。

「エリアーナ」

また、名前を呼ばれた。
今日は何度も名前を呼んでくれる。その度に胸が跳ねて、慣れることができない。

「……はい」
「一つ、聞いていいか」

この言葉は、前にも聞いた。
展示会からの帰り道の馬車で——そう言って、婚約のことを聞いてきた。

エリアーナは、背筋を伸ばした。
「どうぞ」

レオナルドが、少しの間、黙った。
窓の外で雨が降っている。馬車が揺れる。石畳の継ぎ目を、車輪が越えていく。

「俺は——」

レオナルドが、口を開いた。
いつもより、ゆっくりとした話し方だった。

「この三年間、君のことを、ちゃんと見ていなかったと思う」

エリアーナは、息を止めた。

「政略婚約だから、感情を持ち込むべきではないと——そう思っていた。変に期待を持たせることの方が、不誠実だと」
「……」
「だから、距離を置いていた。それが——君にとって、どういうことだったか」

レオナルドの眉が、ほんの少し、動いた。

「今になって、考えている」

エリアーナは、言葉が出なかった。
この人が——こんなことを、言うとは思っていなかった。

三年間、ずっと。
謎で、冷たくて、遠くて。
感情があるのかさえわからなくて。

なのに今日は——

(ちゃんと見ていなかった、と)
(考えている、と)

喉の奥で、何かが固まった。
泣きたいわけではなかった。
でも——この感情に、名前がつけられなかった。

嬉しいのか。
悲しいのか。
三年間待ち続けたことへの、報われるような気持ちなのか。
それとも——今さら、と思う気持ちなのか。

「……レオナルド様」
絞り出すように、言った。
「なぜ、急に」
「急ではない」
レオナルドが、静かに言った。
「ただ——気づくのが、遅かった」

琥珀色の瞳が、まっすぐにエリアーナを見ていた。
誤魔化していない目だった。逸らさない目だった。
こちらが困ってしまうくらい、真剣な目だった。

「これから——君のことを、知ろうとしてもいいか」

雨音が、大きくなった。
馬車が揺れた。
エリアーナの心臓が、肋骨の裏側で、激しく打っていた。

(知ろうとしてもいいか)

三年間、一度も言われなかった言葉だった。
三年間、ずっと欲しかった言葉だった。

なのに——いざその言葉を聞いたら、胸が苦しくて、視界が滲みそうで——どうしていいかわからなかった。

(泣かないで)
自分に言い聞かせた。
(今は、泣かないで)

唇を、小さく噛んだ。
瞳の奥に力を込めた。
それから——ゆっくりと、息を吸った。

「……はい」
小さく、でも確かな声で、言った。
「知ってください」

一瞬の、沈黙。

レオナルドの表情が——ほんの少しだけ、動いた。
いつも張り詰めたような無表情が。
ほんの、本当にほんの少しだけ——解れた。

「……ああ」
短く、答えた。
それだけだった。
それだけで、十分だった。

馬車が、ウィンター公爵家の門の前で止まった。
雨は、まだ降り続けていた。
御者が傘を持って扉を開けに来る。

エリアーナは立ち上がりかけて——止まった。
言わなければ、と思ったことがあった。
ずっと言えなかったことが。
今なら——言えるかもしれない。

「レオナルド様」
「なんだ」

エリアーナは、レオナルドを見た。
琥珀色の瞳が、こちらを見ている。
雨音の中で。揺れる馬車の中で。二人きりで。

「あの——」

言葉が、喉まで来た。
(好きです。三年間、ずっと好きでした。政略婚約でも、あなたのことが——)

「……今日は、ありがとうございました」

やっぱり、言えなかった。

レオナルドが、少しだけ目を細めた。
「それだけか」
「え?」
「もっと、何か言おうとしていただろう」

エリアーナは、息を飲んだ。
(気づいていた?)
(今の、気づいていたの?)
心臓が、うるさかった。

「……気のせいです」
どうにか、笑顔を作って言った。

レオナルドが、静かにエリアーナを見た。
信じていないような目だった。
でも——それ以上は、追いかけてこなかった。

「……そうか」
「では、また」
「ああ」

馬車を降りた。
御者が傘を差し出してくれる。

エリアーナはそれを受け取って、振り返らずに屋敷の門をくぐった。
後ろで、馬車が動き出す音がした。
馬蹄の音が、雨音に溶けていく。
やがて、聞こえなくなった。

屋敷の玄関で、クロエが飛び出してきた。
「お嬢様! やっぱり雨に——あれ、公爵様の馬車で?」
「偶然、ご一緒したの」
「まあ! それはそれは! で、どうでしたか? 何かお話は——」
「クロエ」
「はい!」

エリアーナは、クロエを見た。
それから——堪えきれなくて、笑った。
声を出して、笑った。

「どうしましょう、私」
「え? え? 何がですか!?」

クロエが、目を丸くしている。

エリアーナは、笑いながら——目の奥が、じんわりと滲むのを感じた。
泣いているのか、笑っているのか、自分でもよくわからなかった。

「知ろうとしてもいいか、って——言ってくれたの」
「え……っ」
クロエが、口を押さえた。
「レ、レオナルド様が?」
「ええ」
「な、なな——」
「落ち着いて」
「落ち着けませんよ!!」

クロエの声が、玄関に響いた。

エリアーナは、また笑った。
雨の音が、屋根を静かに叩いていた。
窓の外で、王都が雨に濡れている。
世界が、少し変わった。
雨が——今日も、少しだけ世界を変えてくれた。

その夜。
エリアーナは窓辺に座って、雨の庭を眺めていた。
手元には、旅行記。でも今日は文字が頭に入ってこなかった。

(知ろうとしてもいいか)

何度繰り返しても、胸が温かくなった。
(知ってください、と——言えた)

小さな一歩だ。きっとそれだけのことだ。
でも三年間、一歩も動けなかった自分が——今日は、確かに一歩、前へ進んだ気がした。

(次は)
エリアーナは、窓ガラスに伝う雨粒を目で追いながら、思った。
(次は——もう少しだけ、ちゃんと伝えよう)

本当のことを。
仮面の下の、本当の言葉を。

まだ怖い。
でも——今日よりは、少しだけ、怖くなくなれる気がした。

雨が、静かに降り続けていた。
窓辺で、エリアーナは本を胸に抱いたまま——その夜初めて、穏やかな眠りについた。


一方レオナルド

ロイドが待っていて——
「旦那様。今日のお嬢様は、いかがでしたか」
レオナルドが、珍しく——少し間を置いてから答える。
「……笑っていた」
「はい」
「いつもと——少し、違う笑い方だった」
ロイドが、静かに微笑む。
「気づかれましたか」
レオナルドは、答えなかった。
でも——その沈黙が、答えだった。

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