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第十章「限界の笑顔」
王家主催の茶会は、午後の光の中で穏やかに続いていた。
白いテーブルクロスの上に並ぶ焼き菓子。
銀のティーセットが燭台の光を受けて輝いて、令嬢たちの笑い声が部屋に弾けている。窓の外には冬の庭園が広がり、枯れ枝が風にゆっくりと揺れていた。
エリアーナは、その部屋の中で——微笑んでいた。
完璧な、令嬢の笑顔で。
誰も気づかない。
この笑顔の裏に何があるか——誰一人、気づかない。
それが、エリアーナの三年間だった。
今日で、雨の馬車から四日が経った。
知ろうとしてもいいか——あの言葉から、四日。
一日目、何もなかった。
二日目も、何もなかった。
三日目も。
四日目の今日——こうして同じ会場にいるのに。
レオナルドは、部屋の向こう側にいた。
エリアーナとは、対角線上に位置する場所に。
まるで、意図して距離を置いているように。
(話しかけよう)
エリアーナは、そう決めていた。
今日こそ、自分から——
足を踏み出した。
その瞬間。
「まあ、レオナルド様! お久しぶりですわ」
甘い声が、部屋に響いた。
エリアーナは、足を止めた。
バークレー侯爵家の長女——アデル・バークレーが、レオナルドの前に立っていた。
亜麻色の髪を優雅にまとめた、二十歳の美しい令嬢だ。
社交界での評判も高く、誰からも好かれる——そういう人だった。
その令嬢が今、レオナルドに向かって——花のように微笑んでいた。
エリアーナは、その場で——動けなくなった。
アデル令嬢が、レオナルドとの距離を縮める。
何かを囁くように、顔を近づけた。
細い指先が——レオナルドの腕に、そっと触れた。
レオナルドは、視線を逸らさなかった。
短く、何かを答えた。
アデル令嬢が、ころころと笑った。
胸の奥で——何かが、ぎゅっと締まった。
痛い、と思った。
理不尽だとわかっている。
アデル令嬢は何も悪くない。レオナルドもただ話しているだけだ。
なのに。
(私には)
(近づきもしないのに)
四日間、文の一つも来なかった。
今日だって、会場に入った瞬間から距離を置かれている。
なのに——アデル令嬢の腕には、視線を逸らさない。
これが嫉妬というものなのだと——エリアーナは今日、初めて、はっきりと知った。
知ってしまった。
「エリアーナ嬢、大丈夫ですか?」
横からアランの声がした。
エリアーナは、慌てて表情を整えた。
「ええ、大丈夫よ」
「……顔色が」
「大丈夫だと言っているわ」
アランが、苦笑した。
それから——声を低くして、言った。
「バークレー嬢、昔からレオに気があるんですよ。でもレオは本当に気づいていないから……」
「そう」
エリアーナは、短く答えた。
「嫌なら言った方がいいと思いますよ。婚約者なんだから」
(婚約者)
その言葉が、今日は——ひどく空虚に聞こえた。
しばらくして、バークレー令嬢が別の方向へ去っていった。
レオナルドが、一人になった。
今だ、とエリアーナは思った。
今なら——話しかけられる。
足を踏み出した、その瞬間。
「レオ~!! やっと見つけた!!」
弾けるような声が、部屋に響いた。
ソフィアが、走るように駆けてきて——レオナルドの腕に、飛びつくように絡みついた。
「ずっと探してたんだよ! さっきバークレー様と何話してたの? 私、見てたらなんか心配になっちゃって」
「……大した話ではない」
「ホントに? だってあの人、レオのこと好きだって噂あるじゃない。私、レオが誰かに取られたら嫌だもん」
ソフィアが、上目遣いをした。
潤んだような、蜂蜜色の瞳で。
「……レオは私のだから」
小さく、でもはっきりと——言った。
エリアーナは、踏み出した足を——引いた。
(レオは私のだから)
その言葉が、頭の中でこだました。
レオナルドは——腕を振り払わなかった。
ソフィアを遠ざけなかった。
ただ、小さく息をついて。
「大袈裟なことを言うな」
それだけ言って——でも、そのままにしていた。
バークレー令嬢には視線を逸らさなかった。
ソフィアの腕は——振り払わない。
私には——背を向けた。
(わかってる)
エリアーナは、心の中で自分に言い聞かせた。
(幼馴染だから。昔からそうだから。それだけのこと)
わかっている。
全部——頭では、わかっている。
なのに。
なのに——どうして。
胸が、こんなに痛いの。
目の奥が、こんなに熱くなるの。
(泣かない)
強く、自分に命じた。
(こんなところで、絶対に、泣かない)
唇を噛んだ。
目の奥に力を込めた。
笑顔を——作った。
完璧な、令嬢の笑顔を。
その笑顔で、周囲の令嬢たちとの会話に戻った。
相槌を打ちながら。
微笑みながら。
焼き菓子を口に運びながら。
誰も気づかなかった。
このエリアーナ・ウィンターという令嬢が今、どれほど胸が痛いか——誰一人、気づかなかった。
それが——三年間、ずっとそうだった。
茶会が終わったのは、夕方近くだった。
帰り支度をしていたエリアーナの元に、マリアンヌが来た。
いつものように明るい顔で——しかし、その目だけが、真剣だった。
「エリィ」
「なんでしょう」
「……今日、どうだった?」
エリアーナは、微笑んだ。
「何もなかったわ。いつも通りよ」
「……そう」
マリアンヌが、何かを言いかけて——止めた。
代わりに、エリアーナの手を、きゅっと握った。
「帰り、少し一緒に歩かない?」
王都の大通りを、二人で歩いた。
夕暮れが街を橙色に染めて、行き交う人々の影が長く伸びている。馬車の音、商人の声、子どもたちの笑い声——いつもと変わらぬ、王都の夕方だった。
二人は、しばらく黙って歩いた。
マリアンヌは何も聞かなかった。
エリアーナも、何も言わなかった。
ただ——並んで、歩いた。
通りの角を曲がったところに、小さな公園があった。
冬枯れの木が並んで、噴水は水が止まっている。人気の少ない、静かな場所だった。
マリアンヌが、ベンチの前で立ち止まった。
「少し、座らない?」
「……ええ」
二人で、並んで腰を下ろした。
夕暮れの光が、枯れ枝の間から差し込んでくる。
また——沈黙が、流れた。
最初に口を開いたのは——エリアーナだった。
「……今日も、話しかけられなかったわ」
ぽつりと、言った。
マリアンヌが、静かに聞いていた。
「四日間、何もなかった。今日、やっと同じ場所にいられたのに——また、ソフィア様が来て。私は結局、また一人で笑っていた」
「……うん」
「バークレー令嬢という方が、レオナルド様に近づいていたの。それを見て——胸が、痛かった」
「……エリィ」
「おかしいわよね。婚約者なのに、嫉妬なんてしちゃって」
笑おうとした。
でも——うまく笑えなかった。
口元が、歪んだ。
「それで——ソフィア様が『レオは私のだから』って言っていたの。それを聞いた時——もっと、胸が痛くて」
言葉が、詰まった。
「三年間、ずっとそうだったのに。今更、こんなに痛くなるなんて」
マリアンヌは、何も言わなかった。
エリアーナの手を——両手で、包んだ。
温かかった。
その温もりが——三年間、ずっと張り詰めていた何かを、少しだけ、溶かした。
「……疲れた」
エリアーナは、小さく——言った。
聞こえるか聞こえないかの、小さな声で。
「笑顔を作ることに。平気なふりをすることに。ずっと——疲れた」
マリアンヌの手が、強くなった。
「うん」
「三年間、笑い続けた。それで何かが変わったかと言えば——何も変わらなかった。ソフィア様はいつもそこにいて、レオナルド様は私を見ていなくて。私はただ、笑顔でいるだけで」
「……うん」
「いつまで、こうしていればいいのかしら」
呟いた瞬間——目の奥から、熱いものが込み上げてきた。
(ダメ)
自分に言い聞かせた。
(泣かないって、決めていたのに)
でも——マリアンヌの手の温もりの中では。
三年間押し込めてきたものが——今日だけは、堪えられなかった。
一粒が——こぼれた。
次の一粒が——また、こぼれた。
声は、出なかった。
ただ、静かに——涙が流れた。
マリアンヌは、何も言わなかった。
余計なことを言わなかった。
「大丈夫」とも言わなかった。
ただ——エリアーナの手を握ったまま、隣にいた。
夕暮れの光の中で。
枯れ枝が風に揺れる公園で。
ただ、隣にいてくれた。
それだけで——よかった。
それだけが——今の、エリアーナには。
充分だった。
しばらくして、涙が止まった。
エリアーナは、手の甲で目元を拭った。
空を見上げた。
橙色が、少しずつ、薄紫に変わっていく。
冬の夕暮れが、静かに——夜に向かっていた。
「……みっともないわね」
エリアーナは、苦笑した。
「こんなところで泣くなんて」
「みっともなくない」
マリアンヌが、静かに言った。
「三年間、一度も泣かなかったんでしょ。……遅すぎるくらいよ」
エリアーナは、マリアンヌを見た。
グリーンの瞳が、潤んでいた。
ずっと——泣くのを堪えていたのだとわかった。
エリアーナのために、泣いてくれていたのだとわかった。
「マリアンヌ」
「なに」
「……ありがとう」
マリアンヌが、また手を握った。
今度は——言葉が、出てきた。
「エリィ、一つだけ聞いていい?」
「なんでしょう」
「……本当に、好きなの? レオナルド様のこと」
エリアーナは、少しの間——考えた。
(好きか)
(今でも、好きか)
今日、嫉妬した。
胸が痛かった。
泣いた。
それは全部——好きだから、だ。
三年間経っても、何も変わらなくても——それでも、消えない感情があるとしたら。
「……好きよ」
静かに、答えた。
「今日みたいな日でも——それだけは、変わらないの」
マリアンヌが、唇を噛んだ。
「なら——」
「うん」
「なら、戦いなさい」
静かに、でも確かに——言った。
「笑顔で見守るのをやめなさい。ちゃんと自分の気持ちを——ちゃんと、あの人に届けなさい」
「……でも」
「でも、じゃない」
マリアンヌの声が、低くなった。
「エリィがこのまま笑い続けていたら——私が、許さないから」
空が、薄紫から深い藍色に変わっていった。
一番星が、静かに瞬き始めた。
エリアーナは、その星を見ながら——マリアンヌの言葉を、胸の中で繰り返した。
(戦いなさい)
(笑顔で見守るのをやめなさい)
三年間、ずっとそうしてきた。
笑顔でいれば、いつか——と思っていた。
待っていれば、いつか——と思っていた。
でも。
三年間——何も、変わらなかった。
(このまま、また三年が過ぎていく?)
(また三年間、笑い続ける?)
エリアーナは、目を閉じた。
胸の中で、何かが——静かに、決まっていく気がした。
屋敷に帰ったのは、夜になってからだった。
クロエが、玄関で待っていた。
エリアーナの顔を見た瞬間——クロエの表情が、変わった。
「……お嬢様」
「大丈夫よ」
「でも、目が——」
「大丈夫だから」
エリアーナは、微笑んだ。
いつもの——仮面の笑顔を、作ろうとした。
でも。
今日は——うまく、作れなかった。
口元だけが動いて、瞳が——笑っていなかった。
クロエが、それに気づいた。
何も言わずに——エリアーナに、抱きついた。
十六歳の、小さな侍女が。
主人より小さな体で——精一杯、抱きしめてくれた。
エリアーナは、しばらく——動けなかった。
クロエの温もりの中で。
玄関の薄明かりの中で。
(ああ)
思った。
(私、疲れていたんだわ)
ずっと。
三年間——ずっと、疲れていたんだ。
涙は、もう出なかった。
さっき全部、出してしまったのかもしれない。
ただ——クロエの温もりが、今夜は、心地よかった。
「クロエ」
「……はい」
クロエの声が、こもっていた。
泣いている。この子も、泣いている。
「明日、レオナルド様に——お時間をいただきたいと、文を書くわ」
クロエが、顔を上げた。
目が、赤かった。
「……どうなさるんですか?」
エリアーナは、少しの間——沈黙した。
(どうするの?)
自分に問いかけた。
(笑顔でいることに疲れた。ソフィア様に笑顔を向けることに疲れた。変わらない日々に疲れた)
(なら——どうする?)
答えは、まだ——はっきりしていなかった。
でも。
このまま、何もしないことだけは——もう、できなかった。
「ちゃんと——話してみようと思うの」
静かに、答えた。
「全部。ちゃんと」
クロエが、またぎゅっとしがみついた。
「……応援しています。全力で」
「ありがとう、クロエ」
自室に戻って、机に向かった。
便箋を一枚、引き出しから取り出した。
ペンを持つ。
ヴァルフォード公爵レオナルド様
書いた。
それから——少し、止まった。
今日のことが、頭の中を流れていく。
バークレー令嬢への嫉妬。
ソフィアの「レオは私のだから」という言葉。
マリアンヌの「戦いなさい」という声。
クロエの温もり。
そして——玄関先で、一人でこぼれた涙を。
(もう)
(笑顔でいるのは、やめよう)
エリアーナは、ペンを動かした。
近いうちに、二人きりでお話しできる時間をいただけますでしょうか。
お伝えしたいことが、ございます。
エリアーナ・ウィンター
短い文だった。
書き直しは——しなかった。
封をして、クロエに渡した。
クロエが、震える手でそれを受け取った。
「……明日の朝、届けます」
「ええ、お願い」
「お嬢様」
「なに?」
クロエが、真剣な顔で言った。
「絶対に——うまくいきます」
根拠のない確信だった。
でも——その根拠のなさが、今夜は、温かかった。
窓辺に座って、夜の空を見た。
冬の星が、静かに瞬いていた。
一つ、また一つと——増えていく。
(全部、話そう)
エリアーナは、思った。
(三年間、好きだったこと)
(ソフィア様のことが、辛かったこと)
(このままでは——続けていけないこと)
全部。
仮面を外して——全部、話そう。
怖い。
今でも、怖い。
振り向いてもらえないかもしれない。
傷つくかもしれない。
それでも——
(このまま笑い続けるよりは)
(傷ついた方が、ましだわ)
エリアーナは、窓ガラスに額をそっと当てた。
冷たかった。
でも——胸の中には、今夜初めて。
おかしな温もりが、灯っていた。
決意という名前の——小さな炎が。
その夜のエリアーナは、泣かなかった。
眠れなかったけれど——泣かなかった。
ただ、星を見ながら——明日のことを、考えていた。
全部、話す。
全部——届ける。
それで、どうなるとしても。
三年間笑い続けた令嬢が——今夜初めて。
自分のために、動くことを、決めた。
冬の星が、静かに瞬いていた。
白いテーブルクロスの上に並ぶ焼き菓子。
銀のティーセットが燭台の光を受けて輝いて、令嬢たちの笑い声が部屋に弾けている。窓の外には冬の庭園が広がり、枯れ枝が風にゆっくりと揺れていた。
エリアーナは、その部屋の中で——微笑んでいた。
完璧な、令嬢の笑顔で。
誰も気づかない。
この笑顔の裏に何があるか——誰一人、気づかない。
それが、エリアーナの三年間だった。
今日で、雨の馬車から四日が経った。
知ろうとしてもいいか——あの言葉から、四日。
一日目、何もなかった。
二日目も、何もなかった。
三日目も。
四日目の今日——こうして同じ会場にいるのに。
レオナルドは、部屋の向こう側にいた。
エリアーナとは、対角線上に位置する場所に。
まるで、意図して距離を置いているように。
(話しかけよう)
エリアーナは、そう決めていた。
今日こそ、自分から——
足を踏み出した。
その瞬間。
「まあ、レオナルド様! お久しぶりですわ」
甘い声が、部屋に響いた。
エリアーナは、足を止めた。
バークレー侯爵家の長女——アデル・バークレーが、レオナルドの前に立っていた。
亜麻色の髪を優雅にまとめた、二十歳の美しい令嬢だ。
社交界での評判も高く、誰からも好かれる——そういう人だった。
その令嬢が今、レオナルドに向かって——花のように微笑んでいた。
エリアーナは、その場で——動けなくなった。
アデル令嬢が、レオナルドとの距離を縮める。
何かを囁くように、顔を近づけた。
細い指先が——レオナルドの腕に、そっと触れた。
レオナルドは、視線を逸らさなかった。
短く、何かを答えた。
アデル令嬢が、ころころと笑った。
胸の奥で——何かが、ぎゅっと締まった。
痛い、と思った。
理不尽だとわかっている。
アデル令嬢は何も悪くない。レオナルドもただ話しているだけだ。
なのに。
(私には)
(近づきもしないのに)
四日間、文の一つも来なかった。
今日だって、会場に入った瞬間から距離を置かれている。
なのに——アデル令嬢の腕には、視線を逸らさない。
これが嫉妬というものなのだと——エリアーナは今日、初めて、はっきりと知った。
知ってしまった。
「エリアーナ嬢、大丈夫ですか?」
横からアランの声がした。
エリアーナは、慌てて表情を整えた。
「ええ、大丈夫よ」
「……顔色が」
「大丈夫だと言っているわ」
アランが、苦笑した。
それから——声を低くして、言った。
「バークレー嬢、昔からレオに気があるんですよ。でもレオは本当に気づいていないから……」
「そう」
エリアーナは、短く答えた。
「嫌なら言った方がいいと思いますよ。婚約者なんだから」
(婚約者)
その言葉が、今日は——ひどく空虚に聞こえた。
しばらくして、バークレー令嬢が別の方向へ去っていった。
レオナルドが、一人になった。
今だ、とエリアーナは思った。
今なら——話しかけられる。
足を踏み出した、その瞬間。
「レオ~!! やっと見つけた!!」
弾けるような声が、部屋に響いた。
ソフィアが、走るように駆けてきて——レオナルドの腕に、飛びつくように絡みついた。
「ずっと探してたんだよ! さっきバークレー様と何話してたの? 私、見てたらなんか心配になっちゃって」
「……大した話ではない」
「ホントに? だってあの人、レオのこと好きだって噂あるじゃない。私、レオが誰かに取られたら嫌だもん」
ソフィアが、上目遣いをした。
潤んだような、蜂蜜色の瞳で。
「……レオは私のだから」
小さく、でもはっきりと——言った。
エリアーナは、踏み出した足を——引いた。
(レオは私のだから)
その言葉が、頭の中でこだました。
レオナルドは——腕を振り払わなかった。
ソフィアを遠ざけなかった。
ただ、小さく息をついて。
「大袈裟なことを言うな」
それだけ言って——でも、そのままにしていた。
バークレー令嬢には視線を逸らさなかった。
ソフィアの腕は——振り払わない。
私には——背を向けた。
(わかってる)
エリアーナは、心の中で自分に言い聞かせた。
(幼馴染だから。昔からそうだから。それだけのこと)
わかっている。
全部——頭では、わかっている。
なのに。
なのに——どうして。
胸が、こんなに痛いの。
目の奥が、こんなに熱くなるの。
(泣かない)
強く、自分に命じた。
(こんなところで、絶対に、泣かない)
唇を噛んだ。
目の奥に力を込めた。
笑顔を——作った。
完璧な、令嬢の笑顔を。
その笑顔で、周囲の令嬢たちとの会話に戻った。
相槌を打ちながら。
微笑みながら。
焼き菓子を口に運びながら。
誰も気づかなかった。
このエリアーナ・ウィンターという令嬢が今、どれほど胸が痛いか——誰一人、気づかなかった。
それが——三年間、ずっとそうだった。
茶会が終わったのは、夕方近くだった。
帰り支度をしていたエリアーナの元に、マリアンヌが来た。
いつものように明るい顔で——しかし、その目だけが、真剣だった。
「エリィ」
「なんでしょう」
「……今日、どうだった?」
エリアーナは、微笑んだ。
「何もなかったわ。いつも通りよ」
「……そう」
マリアンヌが、何かを言いかけて——止めた。
代わりに、エリアーナの手を、きゅっと握った。
「帰り、少し一緒に歩かない?」
王都の大通りを、二人で歩いた。
夕暮れが街を橙色に染めて、行き交う人々の影が長く伸びている。馬車の音、商人の声、子どもたちの笑い声——いつもと変わらぬ、王都の夕方だった。
二人は、しばらく黙って歩いた。
マリアンヌは何も聞かなかった。
エリアーナも、何も言わなかった。
ただ——並んで、歩いた。
通りの角を曲がったところに、小さな公園があった。
冬枯れの木が並んで、噴水は水が止まっている。人気の少ない、静かな場所だった。
マリアンヌが、ベンチの前で立ち止まった。
「少し、座らない?」
「……ええ」
二人で、並んで腰を下ろした。
夕暮れの光が、枯れ枝の間から差し込んでくる。
また——沈黙が、流れた。
最初に口を開いたのは——エリアーナだった。
「……今日も、話しかけられなかったわ」
ぽつりと、言った。
マリアンヌが、静かに聞いていた。
「四日間、何もなかった。今日、やっと同じ場所にいられたのに——また、ソフィア様が来て。私は結局、また一人で笑っていた」
「……うん」
「バークレー令嬢という方が、レオナルド様に近づいていたの。それを見て——胸が、痛かった」
「……エリィ」
「おかしいわよね。婚約者なのに、嫉妬なんてしちゃって」
笑おうとした。
でも——うまく笑えなかった。
口元が、歪んだ。
「それで——ソフィア様が『レオは私のだから』って言っていたの。それを聞いた時——もっと、胸が痛くて」
言葉が、詰まった。
「三年間、ずっとそうだったのに。今更、こんなに痛くなるなんて」
マリアンヌは、何も言わなかった。
エリアーナの手を——両手で、包んだ。
温かかった。
その温もりが——三年間、ずっと張り詰めていた何かを、少しだけ、溶かした。
「……疲れた」
エリアーナは、小さく——言った。
聞こえるか聞こえないかの、小さな声で。
「笑顔を作ることに。平気なふりをすることに。ずっと——疲れた」
マリアンヌの手が、強くなった。
「うん」
「三年間、笑い続けた。それで何かが変わったかと言えば——何も変わらなかった。ソフィア様はいつもそこにいて、レオナルド様は私を見ていなくて。私はただ、笑顔でいるだけで」
「……うん」
「いつまで、こうしていればいいのかしら」
呟いた瞬間——目の奥から、熱いものが込み上げてきた。
(ダメ)
自分に言い聞かせた。
(泣かないって、決めていたのに)
でも——マリアンヌの手の温もりの中では。
三年間押し込めてきたものが——今日だけは、堪えられなかった。
一粒が——こぼれた。
次の一粒が——また、こぼれた。
声は、出なかった。
ただ、静かに——涙が流れた。
マリアンヌは、何も言わなかった。
余計なことを言わなかった。
「大丈夫」とも言わなかった。
ただ——エリアーナの手を握ったまま、隣にいた。
夕暮れの光の中で。
枯れ枝が風に揺れる公園で。
ただ、隣にいてくれた。
それだけで——よかった。
それだけが——今の、エリアーナには。
充分だった。
しばらくして、涙が止まった。
エリアーナは、手の甲で目元を拭った。
空を見上げた。
橙色が、少しずつ、薄紫に変わっていく。
冬の夕暮れが、静かに——夜に向かっていた。
「……みっともないわね」
エリアーナは、苦笑した。
「こんなところで泣くなんて」
「みっともなくない」
マリアンヌが、静かに言った。
「三年間、一度も泣かなかったんでしょ。……遅すぎるくらいよ」
エリアーナは、マリアンヌを見た。
グリーンの瞳が、潤んでいた。
ずっと——泣くのを堪えていたのだとわかった。
エリアーナのために、泣いてくれていたのだとわかった。
「マリアンヌ」
「なに」
「……ありがとう」
マリアンヌが、また手を握った。
今度は——言葉が、出てきた。
「エリィ、一つだけ聞いていい?」
「なんでしょう」
「……本当に、好きなの? レオナルド様のこと」
エリアーナは、少しの間——考えた。
(好きか)
(今でも、好きか)
今日、嫉妬した。
胸が痛かった。
泣いた。
それは全部——好きだから、だ。
三年間経っても、何も変わらなくても——それでも、消えない感情があるとしたら。
「……好きよ」
静かに、答えた。
「今日みたいな日でも——それだけは、変わらないの」
マリアンヌが、唇を噛んだ。
「なら——」
「うん」
「なら、戦いなさい」
静かに、でも確かに——言った。
「笑顔で見守るのをやめなさい。ちゃんと自分の気持ちを——ちゃんと、あの人に届けなさい」
「……でも」
「でも、じゃない」
マリアンヌの声が、低くなった。
「エリィがこのまま笑い続けていたら——私が、許さないから」
空が、薄紫から深い藍色に変わっていった。
一番星が、静かに瞬き始めた。
エリアーナは、その星を見ながら——マリアンヌの言葉を、胸の中で繰り返した。
(戦いなさい)
(笑顔で見守るのをやめなさい)
三年間、ずっとそうしてきた。
笑顔でいれば、いつか——と思っていた。
待っていれば、いつか——と思っていた。
でも。
三年間——何も、変わらなかった。
(このまま、また三年が過ぎていく?)
(また三年間、笑い続ける?)
エリアーナは、目を閉じた。
胸の中で、何かが——静かに、決まっていく気がした。
屋敷に帰ったのは、夜になってからだった。
クロエが、玄関で待っていた。
エリアーナの顔を見た瞬間——クロエの表情が、変わった。
「……お嬢様」
「大丈夫よ」
「でも、目が——」
「大丈夫だから」
エリアーナは、微笑んだ。
いつもの——仮面の笑顔を、作ろうとした。
でも。
今日は——うまく、作れなかった。
口元だけが動いて、瞳が——笑っていなかった。
クロエが、それに気づいた。
何も言わずに——エリアーナに、抱きついた。
十六歳の、小さな侍女が。
主人より小さな体で——精一杯、抱きしめてくれた。
エリアーナは、しばらく——動けなかった。
クロエの温もりの中で。
玄関の薄明かりの中で。
(ああ)
思った。
(私、疲れていたんだわ)
ずっと。
三年間——ずっと、疲れていたんだ。
涙は、もう出なかった。
さっき全部、出してしまったのかもしれない。
ただ——クロエの温もりが、今夜は、心地よかった。
「クロエ」
「……はい」
クロエの声が、こもっていた。
泣いている。この子も、泣いている。
「明日、レオナルド様に——お時間をいただきたいと、文を書くわ」
クロエが、顔を上げた。
目が、赤かった。
「……どうなさるんですか?」
エリアーナは、少しの間——沈黙した。
(どうするの?)
自分に問いかけた。
(笑顔でいることに疲れた。ソフィア様に笑顔を向けることに疲れた。変わらない日々に疲れた)
(なら——どうする?)
答えは、まだ——はっきりしていなかった。
でも。
このまま、何もしないことだけは——もう、できなかった。
「ちゃんと——話してみようと思うの」
静かに、答えた。
「全部。ちゃんと」
クロエが、またぎゅっとしがみついた。
「……応援しています。全力で」
「ありがとう、クロエ」
自室に戻って、机に向かった。
便箋を一枚、引き出しから取り出した。
ペンを持つ。
ヴァルフォード公爵レオナルド様
書いた。
それから——少し、止まった。
今日のことが、頭の中を流れていく。
バークレー令嬢への嫉妬。
ソフィアの「レオは私のだから」という言葉。
マリアンヌの「戦いなさい」という声。
クロエの温もり。
そして——玄関先で、一人でこぼれた涙を。
(もう)
(笑顔でいるのは、やめよう)
エリアーナは、ペンを動かした。
近いうちに、二人きりでお話しできる時間をいただけますでしょうか。
お伝えしたいことが、ございます。
エリアーナ・ウィンター
短い文だった。
書き直しは——しなかった。
封をして、クロエに渡した。
クロエが、震える手でそれを受け取った。
「……明日の朝、届けます」
「ええ、お願い」
「お嬢様」
「なに?」
クロエが、真剣な顔で言った。
「絶対に——うまくいきます」
根拠のない確信だった。
でも——その根拠のなさが、今夜は、温かかった。
窓辺に座って、夜の空を見た。
冬の星が、静かに瞬いていた。
一つ、また一つと——増えていく。
(全部、話そう)
エリアーナは、思った。
(三年間、好きだったこと)
(ソフィア様のことが、辛かったこと)
(このままでは——続けていけないこと)
全部。
仮面を外して——全部、話そう。
怖い。
今でも、怖い。
振り向いてもらえないかもしれない。
傷つくかもしれない。
それでも——
(このまま笑い続けるよりは)
(傷ついた方が、ましだわ)
エリアーナは、窓ガラスに額をそっと当てた。
冷たかった。
でも——胸の中には、今夜初めて。
おかしな温もりが、灯っていた。
決意という名前の——小さな炎が。
その夜のエリアーナは、泣かなかった。
眠れなかったけれど——泣かなかった。
ただ、星を見ながら——明日のことを、考えていた。
全部、話す。
全部——届ける。
それで、どうなるとしても。
三年間笑い続けた令嬢が——今夜初めて。
自分のために、動くことを、決めた。
冬の星が、静かに瞬いていた。
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