大人しい令嬢は怒りません。ただ二年間、準備していただけです。――婚約解消の申請が受理されましたので、失礼いたします

柴田はつみ

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第五章「薔薇、百本」

十一月の王都は、冷える。

朝の空気が肌を刺すようになり、庭園の薔薇が最後の花を落とす季節。貴族たちは暖かい室内でのパーティーや茶会を増やし、社交界は冬に向けて賑わいを増していく。

クロエ・アンセルの誕生日は、十一月の初めだった。

リーゼロッテがその話を聞いたのは、刺繍の会の席だった。

「クロエ様の誕生日パーティー、豪華だったそうよ」

隣に座った子爵令嬢が、声を潜めながら言った。

潜めているつもりだろうが、十分に聞こえる声だった。

「公爵様から薔薇が届いたんですって」

「まあ、素敵」

「一本や二本じゃないのよ。百本ですって」

「百本!」

「部屋中が薔薇だらけになったとクロエ様が仰って、それはもう夢みたいだったって」

「公爵様って、ああ見えてロマンチックなのね」

「婚約者がいるのに、それはどうなのかと思うけれど」

「でも幼馴染ですもの。昔からの仲だし、特別なのよきっと」

「そういうものかしら」

令嬢たちは口々に言いながら、刺繍の針を動かしていた。

リーゼロッテも、針を動かしていた。

止まらなかった。

一度も、止まらなかった。

微笑みも、崩れなかった。

(百本)

心の中で、静かにその数字を転がした。

(私の誕生日には、一輪だったわね)

白薔薇、一輪。

まだ花瓶に挿してある。

もう枯れかけているけれど、捨てていない。

(証拠品だから)

「リーゼロッテ様はご存知でしたか?」

突然話しかけられ、リーゼロッテは顔を上げた。

子爵令嬢が少し心配そうな顔をしていた。

「公爵様が、クロエ様に薔薇を贈られたこと」

「ええ、存じております」

「……その、嫌ではありませんでしたか」

リーゼロッテは微笑んだ。

「幼馴染へのお気遣いは、素晴らしいことだと思います」

子爵令嬢は何か言いたそうな顔をしたが、何も言わなかった。

リーゼロッテはまた、針を動かした。

帰宅してすぐ、リーゼロッテは記録帳を開いた。

マリアが後ろから、おずおずと言った。

「お嬢様、今日の刺繍の会で」

「聞いていたわ」

「……お嬢様のお誕生日には、一輪でしたのに」

「ええ」

ペンを走らせた。

第二十七項。クロエ・アンセル伯爵令嬢の誕生日に、薔薇百本を贈呈。婚約者の誕生日の贈呈品は白薔薇一輪。同一人物による贈り物の格差として記録。

ペンを置いた。

「お嬢様」

「なに」

「悔しくないのですか」

リーゼロッテは記録帳を閉じた。

少し考えてから、答えた。

「悔しい、という気持ちとは少し違うわ」

「では」

「呆れている、に近いかしら」

マリアは黙った。

「百本の薔薇を幼馴染に贈れる人が、婚約者には一輪。それを疑問に思わない。それを当然だと思っている」

リーゼロッテは立ち上がり、花瓶の前に立った。

白薔薇は、もう花びらの端が茶色くなっていた。

それでも形は残っている。

「私が怒らないから、これで十分だと思っているのでしょう」

そっと、花びらに触れた。

「大丈夫な人間には、百本贈る必要がないのよ」

マリアは唇を引き結んだ。

「……捨てないのですか、その薔薇」

「ええ」

「枯れかけていますが」

「知っているわ」

リーゼロッテは花瓶から手を離した。

「でも、捨てない。これは公爵様が私の誕生日に持ってきた、唯一の贈り物だから」

窓の外に目をやった。

十一月の空は、低く灰色だった。

「百本と一輪の差を、この薔薇が覚えていてくれるわ」

クロエの誕生日パーティーが盛大だったという話は、その後も尾を引いた。

三日後の夜会でも、一週間後の茶会でも、誰かがその話をしていた。

「公爵様、随分とクロエ様を大切にされているのね」

「でも婚約者はリーゼロッテ様でしょう」

「アルテンベルク侯爵令嬢は何もおっしゃらないのかしら」

「あの方、いつも穏やかだから」

「お気の毒に」

囁き声は、時々リーゼロッテの耳まで届いた。

届くたびに、リーゼロッテは微笑んだ。

穏やかに。完璧に。

(お気の毒、ね)

心の中で、静かに笑った。

(もう少しの辛抱よ)

エドワードが面会に来たのは、パーティーから五日後だった。

応接室のソファに座り、近況を話す。いつもの週に一度の面会だ。

エドワードは外交の話をした。隣国との通商交渉の準備が進んでいること。来月、使節団が王都に来ること。

リーゼロッテは相槌を打ちながら聞いていた。

「そういえば」

エドワードがふと言った。

「クロエの誕生日パーティー、楽しかったそうだ」

「そうでございますか」

「君も招待されていたのではないか」

「ええ。あの日は孤児院の視察がございましたので、失礼させていただきました」

「そうか」

エドワードは特に気にした様子もなく、茶を一口飲んだ。

「薔薇、喜んでもらえたようで良かった」

「……百本、でございましたね」

リーゼロッテは穏やかに言った。

エドワードは少し目を動かした。

「ああ。好きだと言っていたから」

「素敵なことですね」

リーゼロッテは微笑んだ。

「薔薇がお好きな方への贈り物に、百本とは」

「……」

「私の誕生日に頂いた白薔薇も、まだ花瓶に飾っております」

エドワードは少し黙った。

何かを思い出したような顔をした。

何かを言おうとした。

しかしリーゼロッテは先に続けた。

「枯れかけておりますが、綺麗なので。なかなか捨てられなくて」

穏やかな声で、穏やかな顔で。

「公爵様にいただいたものですから」

エドワードは何も言わなかった。

茶を一口飲んだ。

それだけだった。

面会が終わり、エドワードが帰った後。

マリアが言った。

「今のは……」

「なに?」

「わざと、おっしゃいましたか」

リーゼロッテは窓の外を見ながら答えた。

「さあ、どうかしら」

「お嬢様」

「記録帳に書いておいて、マリア」

「……はい」

「枯れかけた白薔薇一輪の話を聞いて、公爵様は何も言わなかった。それだけでいいから」

マリアはペンを取った。

書きながら、小さく聞いた。

「お嬢様は、悲しくないのですか」

少しの間があった。

「悲しい、という感情は」

リーゼロッテは静かに言った。

「とっくに、記録帳の中に閉じ込めたわ」

その夜、リーゼロッテは花瓶の前に立った。

白薔薇は、もうほとんど枯れていた。

花びらが二枚、落ちていた。

リーゼロッテはその花びらを拾って、手のひらに乗せた。

薄く、軽く、乾いていた。

(百本と、一輪)

どちらが本物の気持ちを表しているか、などという話ではない。

エドワードにとって、百本贈る相手と一輪贈る相手がいる。

それだけのことだ。

どちらが正しいとか、間違いとか、そういう話でもない。

ただ、リーゼロッテは一輪の方だった。

それだけのことだ。

(だから)

花びらを、静かに窓の外へ放した。

夜風に乗って、闇の中へ消えた。

(早く、全部終わらせましょう)

花瓶の薔薇は、まだそこにあった。

枯れかけても、形は残っている。

リーゼロッテはその薔薇をもう一度だけ見て、それから背を向けた。

机に座り、記録帳を開いた。

今日の日付を書いた。

ペンを走らせた。

第二十八項。面会中、幼馴染への薔薇百本について「喜んでもらえた」と報告あり。婚約者の誕生日の花が枯れかけていることへの言及なし。

書き終えた。

ペンを置いた。

インクが乾くのを待った。

(着実に、積み重なっている)

記録帳を閉じた。

引き出しにしまった。

鍵をかけた。

立ち上がり、蝋燭を吹き消した。

暗くなった部屋の中で、リーゼロッテは思った。

(百本の薔薇を贈れる人が、一輪しか贈らなかった。それが全てを語っている)

ベッドに横になった。

目を閉じた。

(ありがとう、エドワード様)

皮肉ではなかった。

本当に、思った。

(あなたが教えてくれた。私が一輪の人間だということを)

(だから私は、自分で百本分の価値を証明する)

闇の中で、リーゼロッテは静かに目を閉じたまま、微笑んでいた。

白薔薇は翌朝、花瓶の中で静かに最後の花びらを落とした。
マリアが気づいて、片付けようとした。
「そのままにして」
リーゼロッテは言った。

「もう少しだけ」
マリアは手を止めた。

枯れた白薔薇は、それからしばらくの間、
リーゼロッテの部屋の花瓶の中に、そのままあった。
証拠品として。

そして――
百本と一輪の差を、忘れないための、戒めとして。

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