大人しい令嬢は怒りません。ただ二年間、準備していただけです。――婚約解消の申請が受理されましたので、失礼いたします

柴田はつみ

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第十一章「クロエの牽制」

十二月の後半、アレクシス第二王子の滞在も残り一週間となった。

通商交渉は順調に進んでいると、社交界の噂で聞いた。

エドワードが外交担当として連日会議に出ていることも、侍従からの伝言で知った。

面会の延期が、もう一週間延びた。

第五十三項。
定例面会をさらに一週間延期。
理由:外交会議の多忙。

リーゼロッテは記録帳に書き足しながら、思った。

(外交会議と、クロエ様の体調不良と)

(どちらが本当の理由かしら)

どちらでもよかった。

どちらにせよ、記録帳に書く内容は変わらない。

クロエから二度目の茶会の招待が届いたのは、そんな朝のことだった。

マリアが封筒を持ってきたとき、少し複雑な顔をしていた。

「またクロエ様から、でございます」

「読んだの?」

「宛名だけで分かりました。あの筆跡は見間違えません」

リーゼロッテは封筒を受け取り、開いた。

前回と同じ、丸みを帯びた可憐な文字。

本日の午後、またゆっくりお話しできればと思っております。

先日は少し、言い方が悪かったかもしれません。

改めて、お話ししたいことがあって。

「行きますか?」

マリアが聞いた。

「ええ」

「また何か言われますよ、きっと」

「きっとね」

リーゼロッテは招待状を置いた。

「でも何を言われるか、だいたい分かるから」

「分かるのですか」

「ええ」

リーゼロッテは窓の外を見た。

冬の空は今日も低く、灰色だった。

「アレクシス殿下が来週ご帰国される。その前に、もう一度釘を刺しに来るのよ」

マリアは黙った。

「だから行くの。何を言われるか確認するために」

「……かしこまりました」

「それからマリア」

「はい」

「今日は記録用の手帳を持っていって。帰りの馬車の中で、すぐ書けるように」

マリアは深く頷いた。

「……かしこまりました、お嬢様」

アンセル伯爵邸の応接室は、前回と同じだった。

淡い色のカーテン。上品な花の飾り。クロエという人間を映したような、可憐で華やかな空間。

クロエはすでに座っていた。

今日は淡いピンクのドレスではなく、少し落ち着いた薄紫のドレスを着ていた。

それでも可憐さは変わらない。

クロエという人間は、何を着ても可憐に見える。それは才能だと、リーゼロッテは思っていた。

「来てくださって嬉しいわ」

「こちらこそ」

リーゼロッテは向かいに座った。

茶が注がれた。

今日の世間話は、前回より短かった。

クロエは最初から、少し急いているようだった。

茶を一口飲んだところで、前置きなしに本題に入った。

「リーゼロッテ様、正直にお聞きしてもいいかしら」

「どうぞ」

「王子殿下のことを、どう思っていらっしゃるの」

前回も同じことを聞かれた。

リーゼロッテは微笑んだ。

「話を聞いてくださる方だと思います」

「それだけ?」

「それだけです」

「本当に?」

「ええ」

クロエは少し間を置いた。

「でも殿下は、リーゼロッテ様のことを特別に思っていらっしゃるわ」

「……そうでしょうか」

「ええ。あの目は、そういう目よ。私には分かる」

リーゼロッテは茶を一口飲んだ。

「クロエ様は、人の目をよく見ていらっしゃるのですね」

「……まあ、そうかもしれないわ」

「殿下が私をどう思っていらっしゃるかは、殿下ご本人のことですので、私には分かりません」

「でも」

クロエは少し身を乗り出した。

「リーゼロッテ様は、どうなの? 殿下のことが、好きなの?」

応接室が静かになった。

マリアが後ろで、息を飲む気配がした。

リーゼロッテは微笑んだまま、答えた。

「クロエ様」

「なに?」

「私がアレクシス殿下をどう思っているかより」


「クロエ様が、なぜそれを知りたいのか、の方が気になります」

クロエの目が、一瞬だけ動いた。

「……それは、あなたのことが心配だから」

「心配」

「ええ。婚約者がいる身で、外国の王子と親しくなるのは」

「クロエ様」

リーゼロッテは穏やかに遮った。

「婚約者がいる身で、幼馴染と親しくすることと、どちらが問題でしょうか」


今度は長かった。

クロエは何も言わなかった。

言えなかった。

リーゼロッテは微笑んだまま、続けた。

「私がアレクシス殿下とお話しするのは、外交の場でございます。エドワード様もご存知のことです」

「……ええ」

「クロエ様とエドワード様がどこで何をされているか、私は一度も問いただしたことがありません」

「それは」

「ただ、記録していただけで」

クロエの顔が変わった。

「記録?」

リーゼロッテは一瞬だけ、自分が言いすぎたことに気づいた。

しかし表情は変えなかった。

「ええ。侯爵家の娘として、婚約期間中の出来事は記録しておくようにと、父に教わりましたので」

「……そう」

クロエはしばらく、リーゼロッテを見ていた。

何かを測るように。

何かを探るように。

それからゆっくりと、笑顔を作った。

「そうね、それは大切なことだわ」

「ええ」

「記録、か」

クロエは茶を一口飲んだ。

「どんなことを記録されているの?」

リーゼロッテは微笑んだ。

「日常的なことですわ。日時と、状況と」

「それだけ?」

「それだけです」

クロエは何も言わなかった。

ただ、笑顔のまま、少し黙っていた。

リーゼロッテにはわかった。

クロエが今、何を考えているか。

(記録、という言葉が引っかかっている)

(でも確かめる方法がない)

(だから笑顔で黙っている)

帰り際、クロエが玄関まで見送りながら言った。

「リーゼロッテ様、一つだけ」

「はい」

「王子殿下は来週ご帰国されるわ」

「ええ、存じております」

「そうしたら、また今まで通りに戻るのよ」

リーゼロッテは立ち止まった。

振り返った。

「今まで通り、とおっしゃいますと」

クロエは微笑んでいた。

可憐に、柔らかく。

「エドワード様の婚約者として、今まで通りに」


「それだけを、お願いしたかったの」

リーゼロッテはしばらく、クロエを見た。

クロエも、リーゼロッテを見た。

どちらも微笑んでいた。

どちらの微笑みが仮面か、端から見れば分からなかっただろう。

「クロエ様」

「なに?」

リーゼロッテは静かに言った。

「今まで通りに戻ることを、私にお願いする必要はございません」

「……どういう意味?」

「私がどうするかは、私が決めることですので」

クロエの笑顔が、また一瞬だけ止まった。

リーゼロッテは深く一礼した。

「本日はお招きいただきありがとうございました、クロエ様」

そのまま、馬車へ向かった。

馬車に乗り込むと、マリアがすぐに手帳を開いた。

「今すぐ書きますか」

「ええ、お願い」

リーゼロッテが口述した。

マリアが書き取った。

「本日、クロエ・アンセル伯爵令嬢より二度目の茶会への招待。
会話の中で、王子との関係についての牽制あり。
また、『今まで通りに戻るよう』との要求あり。
婚約者以外の人物による婚約関係への介入、二度目として記録。
なお、記録帳の存在を示唆したところ、明らかな動揺が見られた」

マリアは書き終えた。

「お嬢様、最後の一文は入れてよかったのですか」

「事実だから」

「でも、記録帳のことを知られてしまいましたね」

リーゼロッテは窓の外を見た。

「完全には知られていないわ」

「でも勘づかれたかもしれません」

「……そうね」

リーゼロッテは少し考えた。

「でも、それでいい」

「よいのですか?」

「クロエ様が勘づいたなら、エドワード様に話すかもしれない」

「はい」

「エドワード様が動くかもしれない」

「はい」

「そうしたら」

リーゼロッテは静かに言った。

「また、記録が増えるから」

マリアは少し黙った。

それから、小さく言った。

「……怖いです、お嬢様」

「また?」

「はい、また」

「それは褒め言葉よ、マリア」

「今回も、ですか」

「今回も」

リーゼロッテは微笑んだ。

本物の笑顔で。

「怖いと思ってもらえるなら、うまく動けているということだから」

その夜、リーゼロッテは書斎に一人でいた。

記録帳を開いた。

第五十四項。
クロエ・アンセル伯爵令嬢より二度目の牽制。
「今まで通りに戻るよう」との要求あり。

書き終えた。

ペンを置いた。

窓の外を見た。

冬の夜空に、星が出ていた。

(今まで通り)

クロエの言葉を、心の中で転がした。

(今まで通りって、なんだったかしら)

エドワードが来ない日を待つこと?

記録帳に項目を増やすこと?

完璧な微笑みで、全部大丈夫と言い続けること?

(それが、今まで通りだったわね)

リーゼロッテは静かに思った。

(でも)

記録帳を閉じた。

引き出しにしまった。

鍵をかけた。

(今まで通りは、もうすぐ終わる)

立ち上がり、蝋燭を吹き消した。

暗くなった部屋の中で、リーゼロッテは目を閉じた。

あと少し。

あと少しで、準備が整う。

(待っていて、クロエ様)

静かに、思った。

(今まで通りが終わる日が、もうすぐ来るわ)

翌朝、クロエ・アンセル伯爵令嬢は、
エドワード・ヴァルト公爵に手紙を書いた。

内容は短かった。

リーゼロッテ様が、何か記録をつけているようです。
気になったので、お伝えしておきます。

送るかどうか、しばらく迷った。
それから、送った。

――それが、彼女の最後の悪手になるとは、
知らないまま。

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