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第十七章「最後の夜会」
大広間に入った瞬間、リーゼロッテは気づいた。
今夜の夜会は、いつもと違う。
人が多い。
国王陛下が列席される夜会は年に数回しかなく、そのたびに王都中の貴族が集まる。
しかし今夜は特別だった。新年最初の大夜会。フォルスタットとの通商協定締結の祝賀も兼ねている。
広間の至るところに、見知った顔があった。
侯爵家、伯爵家、子爵家。外交官。大臣。王族の方々。
全員が、今夜ここにいる。
(これ以上ない舞台だわ)
リーゼロッテは思った。
(二年間の締めくくりに、これ以上ない場所だわ)
エドワードが挨拶回りを始めた。
リーゼロッテは隣に並んで歩いた。
いつもと変わらない、完璧な婚約者の姿で。
「ヴァルト公爵、今夜もご一緒に」
「フォルスタットとの協定、お疲れ様でした」
「アルテンベルク令嬢も、お綺麗ですね」
「ありがとうございます」
微笑んで、答えて、相槌を打つ。
二年間、ずっとそうしてきた。
今夜が、最後だった。
挨拶回りが一段落した頃、エドワードが言った。
「少し外すが、大丈夫か」
「どちらへ」
「大臣と話がある。外交の件で」
リーゼロッテは微笑んだ。
「ええ、もちろんでございます」
「すぐ戻る」
(すぐ戻る)
その言葉を、心の中で転がした。
二年前の誕生日の夜も、同じ言葉だった。
すぐ戻る、と言って、三時間戻らなかった夜。
あの夜から、全てが始まった。
(今夜は、違う終わり方をするわ)
「ええ」
リーゼロッテは答えた。
「お気をつけて」
エドワードは人込みの中へ消えた。
一人になったリーゼロッテのもとへ、マリアが近づいた。
「お嬢様」
「ええ」
「公爵様が外れましたね」
「大臣との話があるそうよ」
「クロエ様も、いらっしゃいますよ」
リーゼロッテは広間を見渡した。
少し離れたところに、淡いピンクのドレスを着たクロエが見えた。
令嬢たちに囲まれて、可憐に笑っていた。
「見えるわ」
「今夜は、どうされますか」
「普通にするわ。何も変わらない夜のように」
「……はい」
「宣言の前に、気づかれてはいけないから」
マリアは深く頷いた。
「かしこまりました」
しばらく、リーゼロッテは夜会を楽しんだ。
本当に楽しんだのか、と問われれば、少し違うかもしれない。
ただ、普段通りに振る舞った。
令嬢たちと話し、夫人たちと挨拶を交わし、音楽を聞いた。
そうしながら、心の中で静かに、今夜のことを考えていた。
エドワードが戻ってくるのを、待っていた。
クロエから使いが来ないことを、確認していた。
宣言の言葉を、心の中で繰り返していた。
(エドワード・ヴァルト公爵様)
(この婚約――私から、お断り申し上げます)
何度も繰り返した。
震えないように。
声が裏返らないように。
完璧に言えるように。
エドワードが戻ってきたのは、夜会が始まって一時間ほど経った頃だった。
「待たせた」
「いいえ」
「外交の話が長くなってしまって」
「大切なことですから」
エドワードはリーゼロッテの隣に立った。
しばらく、二人で広間を眺めた。
「今夜は大勢だな」
「ええ」
「国王陛下も、ご機嫌がよさそうだ」
「フォルスタットとの協定が、うまくいきましたから」
「そうだな」
エドワードは少し間を置いた。
「君も、今夜は楽しんでいるか」
「ええ」
「そうか」
また沈黙があった。
リーゼロッテは前を向いたまま、思った。
(今夜のエドワード様は、少し違う)
何かを、気にしているような。
何かを、言おうとしているような。
しかし言葉にならないような。
(気づき始めているのかもしれない)
(でも、遅い)
そのとき。
広間の向こうから、見知った人物が近づいてきた。
クロエだった。
淡いピンクのドレス。金色の髪。大きな瞳。
いつもの可憐な笑顔を浮かべながら、エドワードとリーゼロッテの前に来た。
「エドワード様、リーゼロッテ様。今夜はご一緒ですのね」
「ああ、クロエ」
エドワードの声が、少し変わった。
クロエに話しかけるときの声になった。
リーゼロッテは微笑んだまま、それを聞いていた。
「クロエ様、今夜はお綺麗ですね」
「まあ、ありがとうございます。リーゼロッテ様こそ、そのドレス、とても素敵ですわ」
「ありがとうございます」
「エドワード様、先ほどのお話の続きを、少しだけ」
クロエはエドワードに向かって、可憐に首を傾けた。
エドワードは少し迷うような顔をした。
一瞬だけ、リーゼロッテを見た。
リーゼロッテは微笑んでいた。
完璧に。一点の曇りもなく。
「ええ、もちろんでございます。どうぞ」
エドワードはリーゼロッテを見た。
「すぐ戻る」
(また、その言葉)
「ええ」
リーゼロッテは答えた。
エドワードはクロエと共に、少し離れた場所へ歩いていった。
リーゼロッテはその背中を見た。
マリアが後ろで、息を飲んだ気配がした。
五分が経った。
十分が経った。
二十分が経った。
エドワードはまだ、クロエと話していた。
リーゼロッテは一人で、広間の隅に立っていた。
令嬢たちが話しかけてきた。
微笑んで答えた。
夫人たちが挨拶に来た。
穏やかに返した。
その間ずっと、視界の端に、エドワードとクロエの姿があった。
(八十八項になるところだったわ)
思った。
でも、記録帳はもうヴェルナーの金庫の中だ。
今夜の出来事を書き足す必要は、ない。
今夜で、全部終わるから。
三十分が経った頃、エドワードが戻ってきた。
「待たせた。クロエが少し、相談したいことがあったようで」
「そうでしたか」
「大丈夫だったか」
「ええ、もちろん」
(大丈夫。いつも大丈夫。だって誰も、大丈夫じゃない私を見たことがないから)
そして気づいた。
今は、違う。
今夜の「大丈夫」は、本物だった。
怖くても、震えていても、本当に大丈夫だった。
二年間の準備があるから。
マリアがいるから。
ヴェルナーがいるから。
父がいるから。
だから大丈夫だった。
音楽が変わった。
ワルツの曲が始まった。
貴族たちがダンスフロアへ向かい始めた。
エドワードがリーゼロッテに手を差し出した。
「踊るか」
「ええ」
リーゼロッテは手を取った。
ダンスフロアに出た。
エドワードと向かい合った。
音楽に乗って、踊り始めた。
(婚約者と踊る、最後の曲かもしれない)
思いながら、踊った。
エドワードのリードは安定していた。
それは確かだった。
ダンスの腕前は、申し分ない。
ただ。
(一度も、私の目を見て踊ったことがなかったわ)
今夜も、エドワードの視線は少し遠かった。
どこか別のところを、見ていた。
リーゼロッテはその横顔を見ながら、静かに思った。
(二年間、こうだった)
(いつも、私の少し遠くを見ていた)
曲が終わった。
二人は向かい合った。
エドワードが何か言おうとした。
その瞬間。
「エドワード様」
クロエの声がした。
広間の向こうから、クロエの侍女が走ってきた。
「クロエ様が、気分が優れないとのことで、少しお時間をいただけないかと」
エドワードは振り返った。
リーゼロッテを見た。
その目に、迷いがあった。
今夜は、あった。
今まで一度もなかった迷いが。
しかし。
「すまない、リーゼ。少しだけ」
「ええ」
リーゼロッテは答えた。
今夜は、違う声で。
「公爵様」
「なに?」
リーゼロッテはエドワードの腕を、自分から掴んだ。
初めて、自分から。
その手は、震えていなかった。
広間が、静かになっていく気がした。
いや、実際に静かになっていた。
近くにいた令嬢たちが、気づいていた。
夫人たちが、振り返っていた。
リーゼロッテの手が、エドワードの腕を掴んでいることに。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
リーゼロッテは言った。
静かな声だった。
しかし広間の空気が、変わった。
エドワードは少し驚いた顔をした。
「リーゼ?」
「エドワード・ヴァルト公爵様」
リーゼロッテは、エドワードをまっすぐ見た。
笑顔はなかった。
初めて、エドワードの前で、笑顔のないリーゼロッテが、そこにいた。
広間が、静まり返っていった。
音楽が遠くなった。
人々の話し声が消えた。
全員が、二人を見ていた。
マリアが広間の隅で、両手を胸の前で固く握りしめていた。
リーゼロッテは、息を吸った。
二年分の、全てを込めて。
「この二年間で」
声は静かだった。
しかし広間の隅々まで、届いた。
「あなたはデートの最中に十四回、クロエ様のために席を外されました」
エドワードの顔が変わった。
「私の誕生日に、三時間お戻りになりませんでした」
誰も、動かなかった。
「舞踏会で、私よりクロエ様と多く踊られた夜が七度」
誰も、声を出さなかった。
「クロエ様の誕生日に薔薇を百本、私の誕生日には一輪」
広間が、息をしていなかった。
「私が体調を崩しても来られず、クロエ様が体調を崩せば面会を延期された」
エドワードは何も言えなかった。
「私の名前を」
リーゼロッテは少し間を置いた。
「エドワード様が、リーゼロッテと呼んでくださったことが、二年間で何度あったか、ご存知ですか」
「……」
「私は数えておりました」
「片手で、足りました」
広間に、完全な静寂が落ちた。
エドワードは、青ざめていた。
クロエは、広間の向こうで、固まっていた。
令嬢たちは、息を飲んでいた。
夫人たちは、互いに顔を見合わせていた。
国王陛下が、上座から静かにこの光景を見ていた。
リーゼロッテはエドワードの腕から、静かに手を離した。
そして、深く、完璧に、優雅に一礼した。
顔を上げた。
その目は、穏やかだった。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
ただ、もう揺れていなかった。
「エドワード・ヴァルト公爵様」
声は、最後まで静かだった。
「この婚約――」
「私から、お断り申し上げます」
広間が、凍りついた。
誰かが、小さく息を飲んだ。
エドワードが、口を開いた。
「リー――」
「なお」
リーゼロッテは続けた。
「添付の証拠書類は、すでに国王陛下のもとへ提出済みでございます」
上座の国王陛下が、静かに頷いた。
それを見た貴族たちが、ざわめき始めた。
「証拠書類……」
「国王陛下に……」
「提出済み……」
囁き声が、広間に広がった。
エドワードは動けなかった。
青ざめたまま、立っていた。
クロエは広間の向こうで、侍女の腕を掴んでいた。
顔が、白かった。
気分が悪い、と言っていた侍女が、今は主人に支えられていた。
リーゼロッテは、エドワードから視線を外した。
広間を見渡した。
全員が、自分を見ていた。
二年間、「大人しい令嬢」として見てきた人たちが。
「公爵の婚約者」として見てきた人たちが。
今夜初めて、リーゼロッテ・フォン・アルテンベルクとして、見ていた。
(これでいい)
思った。
(これが、二年間の終わりだ)
マリアが、静かに歩み寄ってきた。
誰も止めなかった。
リーゼロッテの隣に、静かに立った。
「お嬢様」
小さな声だった。
「ええ」
「手が、震えていますか」
リーゼロッテは自分の手を見た。
震えていた。
少し、震えていた。
「……少し」
「よかった」
「よかった?」
「震えていない方が、怖かったです」
リーゼロッテは少し笑った。
本物の声で、小さく。
「難儀な侍女ね」
「はい、存じております」
広間がざわめく中、一人の男性が静かに歩み寄ってきた。
アルテンベルク侯爵、レオンハルトだった。
父だった。
娘の隣に来た。
何も言わなかった。
ただ、隣に立った。
リーゼロッテは父を見た。
父は前を向いていた。
深緑色の瞳が、まっすぐ広間を見ていた。
「お父様」
「ああ」
「来てくださったのですか」
「娘の大切な夜だ」
それだけ言った。
リーゼロッテは前を向いた。
父の隣で、まっすぐ立った。
エドワードが、ようやく口を開いた。
「リーゼ……ロッテ」
初めて、フルネームで呼んだ。
遅すぎた。
でも、呼んだ。
リーゼロッテは振り返った。
「はい」
「これは……どういうことだ」
「申し上げた通りでございます」
「証拠書類とは」
「二年間の記録です」
リーゼロッテは静かに言った。
「日時と、場所と、状況と。全て、事実だけを記録したものです」
「二年間……」
「第一項は、私の十八歳の誕生日のことでした」
エドワードは固まった。
「蝋燭が溶け切るまで、三時間お待ちしていた夜のことです」
「……」
「最後は、第八十七項でした」
広間がまた、静かになった。
「八十七項」
エドワードは繰り返した。
「八十七……」
「全て、国王陛下がご確認済みでございます」
上座の国王陛下が、再び静かに頷いた。
エドワードは崩れ落ちそうな顔をしていた。
しかしリーゼロッテは、その顔を長くは見なかった。
今夜は、エドワードの顔を見る夜ではない。
自分の顔で、自分の言葉で、立つ夜だから。
「公爵様」
リーゼロッテは最後に言った。
「長い間、お世話になりました」
深く、一礼した。
完璧に。優雅に。
顔を上げた。
それから、踵を返した。
父が隣に並んだ。
マリアが後ろについた。
三人で、広間を歩き始めた。
人々が、道を開けた。
誰も、止めなかった。
誰も、声をかけなかった。
ただ全員が、その背中を見ていた。
広間の大扉が、近づいてきた。
リーゼロッテは前を向いたまま歩いた。
震えていた。
足が、少し、震えていた。
でも止まらなかった。
止まる理由が、なかった。
(二年間、ここまで来た)
(あとは、扉を出るだけ)
大扉の前に立った。
扉が、開いた。
冷たい夜の空気が、流れ込んできた。
雪の匂いがした。
リーゼロッテは一歩、外へ踏み出した。
扉が閉まった。
広間の喧騒が、遠くなった。
夜の王宮の廊下に、三人だけが残った。
リーゼロッテは立ち止まった。
息を吐いた。
長い、長い息を。
「お嬢様」
マリアが言った。
「ええ」
「終わりました」
「……ええ」
「終わりました」
マリアはもう一度言った。
今度は、少し声が震えていた。
リーゼロッテは前を向いたまま、静かに言った。
「泣いていいわよ、マリア」
「え?」
「全部終わったから」
「……約束、覚えていてくださいましたか」
「もちろん」
マリアは、泣いた。
声を抑えながら、しかし確かに泣いた。
父が、リーゼロッテの肩に手を乗せた。
「よくやった」
静かに言った。
リーゼロッテは目を閉じた。
(泣けるかしら)
思った。
(二年間泣き方を忘れていたけれど)
目の奥が、熱くなった。
一粒だけ。
一粒だけ、涙が落ちた。
(ああ)
思った。
(まだ、泣けたわ)
父が言った。
「幸せかどうか、もう答えられるか」
リーゼロッテは目を開けた。
廊下の窓の外に、雪が降っていた。
静かに、白く、音もなく。
「……まだ、途中かもしれません」
「途中か」
「でも」
リーゼロッテは窓の外の雪を見た。
「始まった気がします」
「何が」
「幸せになることが」
父は黙っていた。
それから、静かに笑った。
「……そうか」
「はい」
「母も喜ぶだろう」
リーゼロッテは微笑んだ。
本物の顔で。
「はい」
「はい、きっと」
広間の中では、しばらくの間、
誰も動かなかった。
エドワード・ヴァルト公爵は、
リーゼロッテが出ていった大扉を、
ただ見ていた。
八十七項。
その数字が、頭の中に残っていた。
二年間で、八十七項。
(私は)
思いかけた。
(二年間、何をしていたのだろう)
答えは、もう分かっていた。
見ていなかったのだ。
ずっと、見ていなかったのだ。
隣にいたのに。
婚約者だったのに。
名前すら、ちゃんと呼んだことがなかった。
広間の誰かが、小さく言った。
「大人しい令嬢だと思っていたのに」
別の誰かが答えた。
「大人しかったのではないわ」
少し間があった。
今夜の夜会は、いつもと違う。
人が多い。
国王陛下が列席される夜会は年に数回しかなく、そのたびに王都中の貴族が集まる。
しかし今夜は特別だった。新年最初の大夜会。フォルスタットとの通商協定締結の祝賀も兼ねている。
広間の至るところに、見知った顔があった。
侯爵家、伯爵家、子爵家。外交官。大臣。王族の方々。
全員が、今夜ここにいる。
(これ以上ない舞台だわ)
リーゼロッテは思った。
(二年間の締めくくりに、これ以上ない場所だわ)
エドワードが挨拶回りを始めた。
リーゼロッテは隣に並んで歩いた。
いつもと変わらない、完璧な婚約者の姿で。
「ヴァルト公爵、今夜もご一緒に」
「フォルスタットとの協定、お疲れ様でした」
「アルテンベルク令嬢も、お綺麗ですね」
「ありがとうございます」
微笑んで、答えて、相槌を打つ。
二年間、ずっとそうしてきた。
今夜が、最後だった。
挨拶回りが一段落した頃、エドワードが言った。
「少し外すが、大丈夫か」
「どちらへ」
「大臣と話がある。外交の件で」
リーゼロッテは微笑んだ。
「ええ、もちろんでございます」
「すぐ戻る」
(すぐ戻る)
その言葉を、心の中で転がした。
二年前の誕生日の夜も、同じ言葉だった。
すぐ戻る、と言って、三時間戻らなかった夜。
あの夜から、全てが始まった。
(今夜は、違う終わり方をするわ)
「ええ」
リーゼロッテは答えた。
「お気をつけて」
エドワードは人込みの中へ消えた。
一人になったリーゼロッテのもとへ、マリアが近づいた。
「お嬢様」
「ええ」
「公爵様が外れましたね」
「大臣との話があるそうよ」
「クロエ様も、いらっしゃいますよ」
リーゼロッテは広間を見渡した。
少し離れたところに、淡いピンクのドレスを着たクロエが見えた。
令嬢たちに囲まれて、可憐に笑っていた。
「見えるわ」
「今夜は、どうされますか」
「普通にするわ。何も変わらない夜のように」
「……はい」
「宣言の前に、気づかれてはいけないから」
マリアは深く頷いた。
「かしこまりました」
しばらく、リーゼロッテは夜会を楽しんだ。
本当に楽しんだのか、と問われれば、少し違うかもしれない。
ただ、普段通りに振る舞った。
令嬢たちと話し、夫人たちと挨拶を交わし、音楽を聞いた。
そうしながら、心の中で静かに、今夜のことを考えていた。
エドワードが戻ってくるのを、待っていた。
クロエから使いが来ないことを、確認していた。
宣言の言葉を、心の中で繰り返していた。
(エドワード・ヴァルト公爵様)
(この婚約――私から、お断り申し上げます)
何度も繰り返した。
震えないように。
声が裏返らないように。
完璧に言えるように。
エドワードが戻ってきたのは、夜会が始まって一時間ほど経った頃だった。
「待たせた」
「いいえ」
「外交の話が長くなってしまって」
「大切なことですから」
エドワードはリーゼロッテの隣に立った。
しばらく、二人で広間を眺めた。
「今夜は大勢だな」
「ええ」
「国王陛下も、ご機嫌がよさそうだ」
「フォルスタットとの協定が、うまくいきましたから」
「そうだな」
エドワードは少し間を置いた。
「君も、今夜は楽しんでいるか」
「ええ」
「そうか」
また沈黙があった。
リーゼロッテは前を向いたまま、思った。
(今夜のエドワード様は、少し違う)
何かを、気にしているような。
何かを、言おうとしているような。
しかし言葉にならないような。
(気づき始めているのかもしれない)
(でも、遅い)
そのとき。
広間の向こうから、見知った人物が近づいてきた。
クロエだった。
淡いピンクのドレス。金色の髪。大きな瞳。
いつもの可憐な笑顔を浮かべながら、エドワードとリーゼロッテの前に来た。
「エドワード様、リーゼロッテ様。今夜はご一緒ですのね」
「ああ、クロエ」
エドワードの声が、少し変わった。
クロエに話しかけるときの声になった。
リーゼロッテは微笑んだまま、それを聞いていた。
「クロエ様、今夜はお綺麗ですね」
「まあ、ありがとうございます。リーゼロッテ様こそ、そのドレス、とても素敵ですわ」
「ありがとうございます」
「エドワード様、先ほどのお話の続きを、少しだけ」
クロエはエドワードに向かって、可憐に首を傾けた。
エドワードは少し迷うような顔をした。
一瞬だけ、リーゼロッテを見た。
リーゼロッテは微笑んでいた。
完璧に。一点の曇りもなく。
「ええ、もちろんでございます。どうぞ」
エドワードはリーゼロッテを見た。
「すぐ戻る」
(また、その言葉)
「ええ」
リーゼロッテは答えた。
エドワードはクロエと共に、少し離れた場所へ歩いていった。
リーゼロッテはその背中を見た。
マリアが後ろで、息を飲んだ気配がした。
五分が経った。
十分が経った。
二十分が経った。
エドワードはまだ、クロエと話していた。
リーゼロッテは一人で、広間の隅に立っていた。
令嬢たちが話しかけてきた。
微笑んで答えた。
夫人たちが挨拶に来た。
穏やかに返した。
その間ずっと、視界の端に、エドワードとクロエの姿があった。
(八十八項になるところだったわ)
思った。
でも、記録帳はもうヴェルナーの金庫の中だ。
今夜の出来事を書き足す必要は、ない。
今夜で、全部終わるから。
三十分が経った頃、エドワードが戻ってきた。
「待たせた。クロエが少し、相談したいことがあったようで」
「そうでしたか」
「大丈夫だったか」
「ええ、もちろん」
(大丈夫。いつも大丈夫。だって誰も、大丈夫じゃない私を見たことがないから)
そして気づいた。
今は、違う。
今夜の「大丈夫」は、本物だった。
怖くても、震えていても、本当に大丈夫だった。
二年間の準備があるから。
マリアがいるから。
ヴェルナーがいるから。
父がいるから。
だから大丈夫だった。
音楽が変わった。
ワルツの曲が始まった。
貴族たちがダンスフロアへ向かい始めた。
エドワードがリーゼロッテに手を差し出した。
「踊るか」
「ええ」
リーゼロッテは手を取った。
ダンスフロアに出た。
エドワードと向かい合った。
音楽に乗って、踊り始めた。
(婚約者と踊る、最後の曲かもしれない)
思いながら、踊った。
エドワードのリードは安定していた。
それは確かだった。
ダンスの腕前は、申し分ない。
ただ。
(一度も、私の目を見て踊ったことがなかったわ)
今夜も、エドワードの視線は少し遠かった。
どこか別のところを、見ていた。
リーゼロッテはその横顔を見ながら、静かに思った。
(二年間、こうだった)
(いつも、私の少し遠くを見ていた)
曲が終わった。
二人は向かい合った。
エドワードが何か言おうとした。
その瞬間。
「エドワード様」
クロエの声がした。
広間の向こうから、クロエの侍女が走ってきた。
「クロエ様が、気分が優れないとのことで、少しお時間をいただけないかと」
エドワードは振り返った。
リーゼロッテを見た。
その目に、迷いがあった。
今夜は、あった。
今まで一度もなかった迷いが。
しかし。
「すまない、リーゼ。少しだけ」
「ええ」
リーゼロッテは答えた。
今夜は、違う声で。
「公爵様」
「なに?」
リーゼロッテはエドワードの腕を、自分から掴んだ。
初めて、自分から。
その手は、震えていなかった。
広間が、静かになっていく気がした。
いや、実際に静かになっていた。
近くにいた令嬢たちが、気づいていた。
夫人たちが、振り返っていた。
リーゼロッテの手が、エドワードの腕を掴んでいることに。
「少しだけ、お時間をいただけますか」
リーゼロッテは言った。
静かな声だった。
しかし広間の空気が、変わった。
エドワードは少し驚いた顔をした。
「リーゼ?」
「エドワード・ヴァルト公爵様」
リーゼロッテは、エドワードをまっすぐ見た。
笑顔はなかった。
初めて、エドワードの前で、笑顔のないリーゼロッテが、そこにいた。
広間が、静まり返っていった。
音楽が遠くなった。
人々の話し声が消えた。
全員が、二人を見ていた。
マリアが広間の隅で、両手を胸の前で固く握りしめていた。
リーゼロッテは、息を吸った。
二年分の、全てを込めて。
「この二年間で」
声は静かだった。
しかし広間の隅々まで、届いた。
「あなたはデートの最中に十四回、クロエ様のために席を外されました」
エドワードの顔が変わった。
「私の誕生日に、三時間お戻りになりませんでした」
誰も、動かなかった。
「舞踏会で、私よりクロエ様と多く踊られた夜が七度」
誰も、声を出さなかった。
「クロエ様の誕生日に薔薇を百本、私の誕生日には一輪」
広間が、息をしていなかった。
「私が体調を崩しても来られず、クロエ様が体調を崩せば面会を延期された」
エドワードは何も言えなかった。
「私の名前を」
リーゼロッテは少し間を置いた。
「エドワード様が、リーゼロッテと呼んでくださったことが、二年間で何度あったか、ご存知ですか」
「……」
「私は数えておりました」
「片手で、足りました」
広間に、完全な静寂が落ちた。
エドワードは、青ざめていた。
クロエは、広間の向こうで、固まっていた。
令嬢たちは、息を飲んでいた。
夫人たちは、互いに顔を見合わせていた。
国王陛下が、上座から静かにこの光景を見ていた。
リーゼロッテはエドワードの腕から、静かに手を離した。
そして、深く、完璧に、優雅に一礼した。
顔を上げた。
その目は、穏やかだった。
怒りではなかった。
悲しみでもなかった。
ただ、もう揺れていなかった。
「エドワード・ヴァルト公爵様」
声は、最後まで静かだった。
「この婚約――」
「私から、お断り申し上げます」
広間が、凍りついた。
誰かが、小さく息を飲んだ。
エドワードが、口を開いた。
「リー――」
「なお」
リーゼロッテは続けた。
「添付の証拠書類は、すでに国王陛下のもとへ提出済みでございます」
上座の国王陛下が、静かに頷いた。
それを見た貴族たちが、ざわめき始めた。
「証拠書類……」
「国王陛下に……」
「提出済み……」
囁き声が、広間に広がった。
エドワードは動けなかった。
青ざめたまま、立っていた。
クロエは広間の向こうで、侍女の腕を掴んでいた。
顔が、白かった。
気分が悪い、と言っていた侍女が、今は主人に支えられていた。
リーゼロッテは、エドワードから視線を外した。
広間を見渡した。
全員が、自分を見ていた。
二年間、「大人しい令嬢」として見てきた人たちが。
「公爵の婚約者」として見てきた人たちが。
今夜初めて、リーゼロッテ・フォン・アルテンベルクとして、見ていた。
(これでいい)
思った。
(これが、二年間の終わりだ)
マリアが、静かに歩み寄ってきた。
誰も止めなかった。
リーゼロッテの隣に、静かに立った。
「お嬢様」
小さな声だった。
「ええ」
「手が、震えていますか」
リーゼロッテは自分の手を見た。
震えていた。
少し、震えていた。
「……少し」
「よかった」
「よかった?」
「震えていない方が、怖かったです」
リーゼロッテは少し笑った。
本物の声で、小さく。
「難儀な侍女ね」
「はい、存じております」
広間がざわめく中、一人の男性が静かに歩み寄ってきた。
アルテンベルク侯爵、レオンハルトだった。
父だった。
娘の隣に来た。
何も言わなかった。
ただ、隣に立った。
リーゼロッテは父を見た。
父は前を向いていた。
深緑色の瞳が、まっすぐ広間を見ていた。
「お父様」
「ああ」
「来てくださったのですか」
「娘の大切な夜だ」
それだけ言った。
リーゼロッテは前を向いた。
父の隣で、まっすぐ立った。
エドワードが、ようやく口を開いた。
「リーゼ……ロッテ」
初めて、フルネームで呼んだ。
遅すぎた。
でも、呼んだ。
リーゼロッテは振り返った。
「はい」
「これは……どういうことだ」
「申し上げた通りでございます」
「証拠書類とは」
「二年間の記録です」
リーゼロッテは静かに言った。
「日時と、場所と、状況と。全て、事実だけを記録したものです」
「二年間……」
「第一項は、私の十八歳の誕生日のことでした」
エドワードは固まった。
「蝋燭が溶け切るまで、三時間お待ちしていた夜のことです」
「……」
「最後は、第八十七項でした」
広間がまた、静かになった。
「八十七項」
エドワードは繰り返した。
「八十七……」
「全て、国王陛下がご確認済みでございます」
上座の国王陛下が、再び静かに頷いた。
エドワードは崩れ落ちそうな顔をしていた。
しかしリーゼロッテは、その顔を長くは見なかった。
今夜は、エドワードの顔を見る夜ではない。
自分の顔で、自分の言葉で、立つ夜だから。
「公爵様」
リーゼロッテは最後に言った。
「長い間、お世話になりました」
深く、一礼した。
完璧に。優雅に。
顔を上げた。
それから、踵を返した。
父が隣に並んだ。
マリアが後ろについた。
三人で、広間を歩き始めた。
人々が、道を開けた。
誰も、止めなかった。
誰も、声をかけなかった。
ただ全員が、その背中を見ていた。
広間の大扉が、近づいてきた。
リーゼロッテは前を向いたまま歩いた。
震えていた。
足が、少し、震えていた。
でも止まらなかった。
止まる理由が、なかった。
(二年間、ここまで来た)
(あとは、扉を出るだけ)
大扉の前に立った。
扉が、開いた。
冷たい夜の空気が、流れ込んできた。
雪の匂いがした。
リーゼロッテは一歩、外へ踏み出した。
扉が閉まった。
広間の喧騒が、遠くなった。
夜の王宮の廊下に、三人だけが残った。
リーゼロッテは立ち止まった。
息を吐いた。
長い、長い息を。
「お嬢様」
マリアが言った。
「ええ」
「終わりました」
「……ええ」
「終わりました」
マリアはもう一度言った。
今度は、少し声が震えていた。
リーゼロッテは前を向いたまま、静かに言った。
「泣いていいわよ、マリア」
「え?」
「全部終わったから」
「……約束、覚えていてくださいましたか」
「もちろん」
マリアは、泣いた。
声を抑えながら、しかし確かに泣いた。
父が、リーゼロッテの肩に手を乗せた。
「よくやった」
静かに言った。
リーゼロッテは目を閉じた。
(泣けるかしら)
思った。
(二年間泣き方を忘れていたけれど)
目の奥が、熱くなった。
一粒だけ。
一粒だけ、涙が落ちた。
(ああ)
思った。
(まだ、泣けたわ)
父が言った。
「幸せかどうか、もう答えられるか」
リーゼロッテは目を開けた。
廊下の窓の外に、雪が降っていた。
静かに、白く、音もなく。
「……まだ、途中かもしれません」
「途中か」
「でも」
リーゼロッテは窓の外の雪を見た。
「始まった気がします」
「何が」
「幸せになることが」
父は黙っていた。
それから、静かに笑った。
「……そうか」
「はい」
「母も喜ぶだろう」
リーゼロッテは微笑んだ。
本物の顔で。
「はい」
「はい、きっと」
広間の中では、しばらくの間、
誰も動かなかった。
エドワード・ヴァルト公爵は、
リーゼロッテが出ていった大扉を、
ただ見ていた。
八十七項。
その数字が、頭の中に残っていた。
二年間で、八十七項。
(私は)
思いかけた。
(二年間、何をしていたのだろう)
答えは、もう分かっていた。
見ていなかったのだ。
ずっと、見ていなかったのだ。
隣にいたのに。
婚約者だったのに。
名前すら、ちゃんと呼んだことがなかった。
広間の誰かが、小さく言った。
「大人しい令嬢だと思っていたのに」
別の誰かが答えた。
「大人しかったのではないわ」
少し間があった。
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