大人しい令嬢は怒りません。ただ二年間、準備していただけです。――婚約解消の申請が受理されましたので、失礼いたします

柴田はつみ

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第十七章「最後の夜会」

大広間に入った瞬間、リーゼロッテは気づいた。

今夜の夜会は、いつもと違う。

人が多い。

国王陛下が列席される夜会は年に数回しかなく、そのたびに王都中の貴族が集まる。

しかし今夜は特別だった。新年最初の大夜会。フォルスタットとの通商協定締結の祝賀も兼ねている。

広間の至るところに、見知った顔があった。

侯爵家、伯爵家、子爵家。外交官。大臣。王族の方々。

全員が、今夜ここにいる。

(これ以上ない舞台だわ)

リーゼロッテは思った。

(二年間の締めくくりに、これ以上ない場所だわ)

エドワードが挨拶回りを始めた。

リーゼロッテは隣に並んで歩いた。

いつもと変わらない、完璧な婚約者の姿で。

「ヴァルト公爵、今夜もご一緒に」

「フォルスタットとの協定、お疲れ様でした」

「アルテンベルク令嬢も、お綺麗ですね」

「ありがとうございます」

微笑んで、答えて、相槌を打つ。

二年間、ずっとそうしてきた。

今夜が、最後だった。

挨拶回りが一段落した頃、エドワードが言った。

「少し外すが、大丈夫か」

「どちらへ」

「大臣と話がある。外交の件で」

リーゼロッテは微笑んだ。

「ええ、もちろんでございます」

「すぐ戻る」

(すぐ戻る)

その言葉を、心の中で転がした。

二年前の誕生日の夜も、同じ言葉だった。

すぐ戻る、と言って、三時間戻らなかった夜。

あの夜から、全てが始まった。

(今夜は、違う終わり方をするわ)

「ええ」

リーゼロッテは答えた。

「お気をつけて」

エドワードは人込みの中へ消えた。

一人になったリーゼロッテのもとへ、マリアが近づいた。

「お嬢様」

「ええ」

「公爵様が外れましたね」

「大臣との話があるそうよ」

「クロエ様も、いらっしゃいますよ」

リーゼロッテは広間を見渡した。

少し離れたところに、淡いピンクのドレスを着たクロエが見えた。

令嬢たちに囲まれて、可憐に笑っていた。

「見えるわ」

「今夜は、どうされますか」

「普通にするわ。何も変わらない夜のように」

「……はい」

「宣言の前に、気づかれてはいけないから」

マリアは深く頷いた。

「かしこまりました」

しばらく、リーゼロッテは夜会を楽しんだ。

本当に楽しんだのか、と問われれば、少し違うかもしれない。

ただ、普段通りに振る舞った。

令嬢たちと話し、夫人たちと挨拶を交わし、音楽を聞いた。

そうしながら、心の中で静かに、今夜のことを考えていた。

エドワードが戻ってくるのを、待っていた。

クロエから使いが来ないことを、確認していた。

宣言の言葉を、心の中で繰り返していた。

(エドワード・ヴァルト公爵様)

(この婚約――私から、お断り申し上げます)

何度も繰り返した。

震えないように。

声が裏返らないように。

完璧に言えるように。

エドワードが戻ってきたのは、夜会が始まって一時間ほど経った頃だった。

「待たせた」

「いいえ」

「外交の話が長くなってしまって」

「大切なことですから」

エドワードはリーゼロッテの隣に立った。

しばらく、二人で広間を眺めた。

「今夜は大勢だな」

「ええ」

「国王陛下も、ご機嫌がよさそうだ」

「フォルスタットとの協定が、うまくいきましたから」

「そうだな」

エドワードは少し間を置いた。

「君も、今夜は楽しんでいるか」

「ええ」

「そうか」

また沈黙があった。

リーゼロッテは前を向いたまま、思った。

(今夜のエドワード様は、少し違う)

何かを、気にしているような。

何かを、言おうとしているような。

しかし言葉にならないような。

(気づき始めているのかもしれない)

(でも、遅い)

そのとき。

広間の向こうから、見知った人物が近づいてきた。

クロエだった。

淡いピンクのドレス。金色の髪。大きな瞳。

いつもの可憐な笑顔を浮かべながら、エドワードとリーゼロッテの前に来た。

「エドワード様、リーゼロッテ様。今夜はご一緒ですのね」

「ああ、クロエ」

エドワードの声が、少し変わった。

クロエに話しかけるときの声になった。

リーゼロッテは微笑んだまま、それを聞いていた。

「クロエ様、今夜はお綺麗ですね」

「まあ、ありがとうございます。リーゼロッテ様こそ、そのドレス、とても素敵ですわ」

「ありがとうございます」

「エドワード様、先ほどのお話の続きを、少しだけ」

クロエはエドワードに向かって、可憐に首を傾けた。

エドワードは少し迷うような顔をした。

一瞬だけ、リーゼロッテを見た。

リーゼロッテは微笑んでいた。

完璧に。一点の曇りもなく。

「ええ、もちろんでございます。どうぞ」

エドワードはリーゼロッテを見た。

「すぐ戻る」

(また、その言葉)

「ええ」

リーゼロッテは答えた。

エドワードはクロエと共に、少し離れた場所へ歩いていった。

リーゼロッテはその背中を見た。

マリアが後ろで、息を飲んだ気配がした。

五分が経った。

十分が経った。

二十分が経った。

エドワードはまだ、クロエと話していた。

リーゼロッテは一人で、広間の隅に立っていた。

令嬢たちが話しかけてきた。

微笑んで答えた。

夫人たちが挨拶に来た。

穏やかに返した。

その間ずっと、視界の端に、エドワードとクロエの姿があった。

(八十八項になるところだったわ)

思った。

でも、記録帳はもうヴェルナーの金庫の中だ。

今夜の出来事を書き足す必要は、ない。

今夜で、全部終わるから。

三十分が経った頃、エドワードが戻ってきた。

「待たせた。クロエが少し、相談したいことがあったようで」

「そうでしたか」

「大丈夫だったか」

「ええ、もちろん」

(大丈夫。いつも大丈夫。だって誰も、大丈夫じゃない私を見たことがないから)


そして気づいた。

今は、違う。

今夜の「大丈夫」は、本物だった。

怖くても、震えていても、本当に大丈夫だった。

二年間の準備があるから。

マリアがいるから。

ヴェルナーがいるから。

父がいるから。

だから大丈夫だった。

音楽が変わった。

ワルツの曲が始まった。

貴族たちがダンスフロアへ向かい始めた。

エドワードがリーゼロッテに手を差し出した。

「踊るか」

「ええ」

リーゼロッテは手を取った。

ダンスフロアに出た。

エドワードと向かい合った。

音楽に乗って、踊り始めた。

(婚約者と踊る、最後の曲かもしれない)

思いながら、踊った。

エドワードのリードは安定していた。

それは確かだった。

ダンスの腕前は、申し分ない。

ただ。

(一度も、私の目を見て踊ったことがなかったわ)

今夜も、エドワードの視線は少し遠かった。

どこか別のところを、見ていた。

リーゼロッテはその横顔を見ながら、静かに思った。

(二年間、こうだった)

(いつも、私の少し遠くを見ていた)

曲が終わった。

二人は向かい合った。

エドワードが何か言おうとした。

その瞬間。

「エドワード様」

クロエの声がした。

広間の向こうから、クロエの侍女が走ってきた。

「クロエ様が、気分が優れないとのことで、少しお時間をいただけないかと」

エドワードは振り返った。

リーゼロッテを見た。

その目に、迷いがあった。

今夜は、あった。

今まで一度もなかった迷いが。

しかし。

「すまない、リーゼ。少しだけ」

「ええ」

リーゼロッテは答えた。

今夜は、違う声で。

「公爵様」

「なに?」

リーゼロッテはエドワードの腕を、自分から掴んだ。

初めて、自分から。

その手は、震えていなかった。

広間が、静かになっていく気がした。

いや、実際に静かになっていた。

近くにいた令嬢たちが、気づいていた。

夫人たちが、振り返っていた。

リーゼロッテの手が、エドワードの腕を掴んでいることに。

「少しだけ、お時間をいただけますか」

リーゼロッテは言った。

静かな声だった。

しかし広間の空気が、変わった。

エドワードは少し驚いた顔をした。

「リーゼ?」

「エドワード・ヴァルト公爵様」

リーゼロッテは、エドワードをまっすぐ見た。

笑顔はなかった。

初めて、エドワードの前で、笑顔のないリーゼロッテが、そこにいた。

広間が、静まり返っていった。

音楽が遠くなった。

人々の話し声が消えた。

全員が、二人を見ていた。

マリアが広間の隅で、両手を胸の前で固く握りしめていた。

リーゼロッテは、息を吸った。

二年分の、全てを込めて。

「この二年間で」

声は静かだった。

しかし広間の隅々まで、届いた。

「あなたはデートの最中に十四回、クロエ様のために席を外されました」

エドワードの顔が変わった。

「私の誕生日に、三時間お戻りになりませんでした」

誰も、動かなかった。

「舞踏会で、私よりクロエ様と多く踊られた夜が七度」

誰も、声を出さなかった。

「クロエ様の誕生日に薔薇を百本、私の誕生日には一輪」

広間が、息をしていなかった。

「私が体調を崩しても来られず、クロエ様が体調を崩せば面会を延期された」

エドワードは何も言えなかった。

「私の名前を」

リーゼロッテは少し間を置いた。

「エドワード様が、リーゼロッテと呼んでくださったことが、二年間で何度あったか、ご存知ですか」

「……」

「私は数えておりました」


「片手で、足りました」

広間に、完全な静寂が落ちた。

エドワードは、青ざめていた。

クロエは、広間の向こうで、固まっていた。

令嬢たちは、息を飲んでいた。

夫人たちは、互いに顔を見合わせていた。

国王陛下が、上座から静かにこの光景を見ていた。

リーゼロッテはエドワードの腕から、静かに手を離した。

そして、深く、完璧に、優雅に一礼した。

顔を上げた。

その目は、穏やかだった。

怒りではなかった。

悲しみでもなかった。

ただ、もう揺れていなかった。

「エドワード・ヴァルト公爵様」

声は、最後まで静かだった。

「この婚約――」


「私から、お断り申し上げます」

広間が、凍りついた。

誰かが、小さく息を飲んだ。

エドワードが、口を開いた。

「リー――」

「なお」

リーゼロッテは続けた。

「添付の証拠書類は、すでに国王陛下のもとへ提出済みでございます」

上座の国王陛下が、静かに頷いた。

それを見た貴族たちが、ざわめき始めた。

「証拠書類……」

「国王陛下に……」

「提出済み……」

囁き声が、広間に広がった。

エドワードは動けなかった。

青ざめたまま、立っていた。

クロエは広間の向こうで、侍女の腕を掴んでいた。

顔が、白かった。

気分が悪い、と言っていた侍女が、今は主人に支えられていた。

リーゼロッテは、エドワードから視線を外した。

広間を見渡した。

全員が、自分を見ていた。

二年間、「大人しい令嬢」として見てきた人たちが。

「公爵の婚約者」として見てきた人たちが。

今夜初めて、リーゼロッテ・フォン・アルテンベルクとして、見ていた。

(これでいい)

思った。

(これが、二年間の終わりだ)

マリアが、静かに歩み寄ってきた。

誰も止めなかった。

リーゼロッテの隣に、静かに立った。

「お嬢様」

小さな声だった。

「ええ」

「手が、震えていますか」

リーゼロッテは自分の手を見た。

震えていた。

少し、震えていた。

「……少し」

「よかった」

「よかった?」

「震えていない方が、怖かったです」

リーゼロッテは少し笑った。

本物の声で、小さく。

「難儀な侍女ね」

「はい、存じております」

広間がざわめく中、一人の男性が静かに歩み寄ってきた。

アルテンベルク侯爵、レオンハルトだった。

父だった。

娘の隣に来た。

何も言わなかった。

ただ、隣に立った。

リーゼロッテは父を見た。

父は前を向いていた。

深緑色の瞳が、まっすぐ広間を見ていた。

「お父様」

「ああ」

「来てくださったのですか」

「娘の大切な夜だ」

それだけ言った。

リーゼロッテは前を向いた。

父の隣で、まっすぐ立った。

エドワードが、ようやく口を開いた。

「リーゼ……ロッテ」

初めて、フルネームで呼んだ。

遅すぎた。

でも、呼んだ。

リーゼロッテは振り返った。

「はい」

「これは……どういうことだ」

「申し上げた通りでございます」

「証拠書類とは」

「二年間の記録です」

リーゼロッテは静かに言った。

「日時と、場所と、状況と。全て、事実だけを記録したものです」

「二年間……」

「第一項は、私の十八歳の誕生日のことでした」

エドワードは固まった。

「蝋燭が溶け切るまで、三時間お待ちしていた夜のことです」

「……」

「最後は、第八十七項でした」

広間がまた、静かになった。

「八十七項」

エドワードは繰り返した。

「八十七……」

「全て、国王陛下がご確認済みでございます」

上座の国王陛下が、再び静かに頷いた。

エドワードは崩れ落ちそうな顔をしていた。

しかしリーゼロッテは、その顔を長くは見なかった。

今夜は、エドワードの顔を見る夜ではない。

自分の顔で、自分の言葉で、立つ夜だから。

「公爵様」

リーゼロッテは最後に言った。

「長い間、お世話になりました」

深く、一礼した。

完璧に。優雅に。

顔を上げた。

それから、踵を返した。

父が隣に並んだ。

マリアが後ろについた。

三人で、広間を歩き始めた。

人々が、道を開けた。

誰も、止めなかった。

誰も、声をかけなかった。

ただ全員が、その背中を見ていた。

広間の大扉が、近づいてきた。

リーゼロッテは前を向いたまま歩いた。

震えていた。

足が、少し、震えていた。

でも止まらなかった。

止まる理由が、なかった。

(二年間、ここまで来た)

(あとは、扉を出るだけ)

大扉の前に立った。

扉が、開いた。

冷たい夜の空気が、流れ込んできた。

雪の匂いがした。

リーゼロッテは一歩、外へ踏み出した。

扉が閉まった。

広間の喧騒が、遠くなった。

夜の王宮の廊下に、三人だけが残った。

リーゼロッテは立ち止まった。

息を吐いた。

長い、長い息を。

「お嬢様」

マリアが言った。

「ええ」

「終わりました」

「……ええ」

「終わりました」

マリアはもう一度言った。

今度は、少し声が震えていた。

リーゼロッテは前を向いたまま、静かに言った。

「泣いていいわよ、マリア」

「え?」

「全部終わったから」

「……約束、覚えていてくださいましたか」

「もちろん」

マリアは、泣いた。

声を抑えながら、しかし確かに泣いた。

父が、リーゼロッテの肩に手を乗せた。

「よくやった」

静かに言った。

リーゼロッテは目を閉じた。

(泣けるかしら)

思った。

(二年間泣き方を忘れていたけれど)

目の奥が、熱くなった。

一粒だけ。

一粒だけ、涙が落ちた。

(ああ)

思った。

(まだ、泣けたわ)

父が言った。

「幸せかどうか、もう答えられるか」

リーゼロッテは目を開けた。

廊下の窓の外に、雪が降っていた。

静かに、白く、音もなく。

「……まだ、途中かもしれません」

「途中か」

「でも」

リーゼロッテは窓の外の雪を見た。

「始まった気がします」

「何が」

「幸せになることが」

父は黙っていた。

それから、静かに笑った。

「……そうか」

「はい」

「母も喜ぶだろう」

リーゼロッテは微笑んだ。

本物の顔で。

「はい」

「はい、きっと」

広間の中では、しばらくの間、
誰も動かなかった。
エドワード・ヴァルト公爵は、
リーゼロッテが出ていった大扉を、
ただ見ていた。

八十七項。
その数字が、頭の中に残っていた。
二年間で、八十七項。

(私は)
思いかけた。
(二年間、何をしていたのだろう)
答えは、もう分かっていた。

見ていなかったのだ。
ずっと、見ていなかったのだ。
隣にいたのに。

婚約者だったのに。
名前すら、ちゃんと呼んだことがなかった。
広間の誰かが、小さく言った。

「大人しい令嬢だと思っていたのに」
別の誰かが答えた。

「大人しかったのではないわ」
少し間があった。

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