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第二十章「クロエの仮面が剥がれる」
クロエ・アンセル伯爵令嬢の朝は、いつもより遅かった。
目が覚めたとき、カーテンの隙間から午前の光が差し込んでいた。
侍女が「もうお昼近うございます」と言った。
クロエは起き上がらなかった。
天井を見ていた。
(昨夜の夢を、見た)
夢の中でも、リーゼロッテは宣言していた。
静かな声で、広間中に届く声で。
目が覚めても、その声が耳の中に残っていた。
「クロエ様、お食事をお持ちしましょうか」
侍女が声をかけた。
「……いらない」
「でも、昨夜からお食事を」
「いらないと言ったわ」
侍女は黙った。
クロエは寝台の上で、膝を抱えた。
窓の外から、王都の音が聞こえていた。
馬車の音。
人々の声。
いつも通りの朝の音。
しかし何かが、違った。
(私のことを、話しているのかしら)
思った。
王都の誰かが、今この瞬間、クロエの名前を口にしているかもしれない。
そういう考えが、頭から離れなかった。
午後になって、クロエは起き上がった。
鏡の前に座った。
いつもの自分の顔があった。
金色の髪。大きな瞳。整った顔立ち。
「腹が立つわ」
鏡に向かって、小さく言った。
誰に、とは言わなかった。
自分でも、分からなかったから。
リーゼロッテに腹が立つのか。
宣言を許してしまったエドワードに腹が立つのか。
それとも。
(自分に、腹が立つのか)
その考えを、すぐに打ち消した。
自分は何も悪くない。
ただ、エドワードの幼馴染でいただけだ。
エドワードが来てくれるから、来てもらっていただけだ。
(私は何も、していない)
鏡の中の自分が、微笑んだ。
いつもの可憐な笑顔で。
しかし今日は、その笑顔が少し、歪んで見えた。
エドワードからの返事が来ないまま、三日が経った。
クロエは毎日、手紙を書いた。
「会いたい」
「話がしたい」
「心細い」
どれも、いつも効果があった言葉だった。
しかし今回は、返事がなかった。
使いが戻るたびに、「後日に」という言葉だけが届いた。
(おかしい)
クロエは思った。
エドワードはいつでも来てくれた。
いつでも答えてくれた。
なぜ今回だけ、来ないのか。
(リーゼロッテのせいだ)
思った。
あの宣言のせいで、エドワードが変わった。
全部、リーゼロッテのせいだ。
しかし。
(本当に、そうか)
その問いが、頭の隅に浮かんだ。
浮かんだ瞬間、強引に押し込めた。
考えたくなかった。
四日目の朝、クロエは決めた。
エドワードに直接会いに行く。
手紙ではなく、直接。
そうすれば必ず、話を聞いてもらえる。
今まで、いつもそうだったから。
ヴァルト公爵邸を訪ねると、侍従が出てきた。
「クロエ様、本日は公爵様は」
「会わせてください」
「しかし、ご多忙で」
「少しだけでいいの。お願い」
クロエは、困ったように目を細めた。
大きな瞳に、うっすらと涙を浮かべた。
この顔をすれば、必ず通してもらえた。
二年間、ずっとそうだった。
しかし侍従は、少し困った顔をしたまま、動かなかった。
「……少々、お待ちください」
奥に引っ込んだ。
しばらくして、戻ってきた。
「公爵様より、本日はご対応が難しいとのことで」
クロエは少し、目を丸くした。
「難しい?」
「はい、申し訳ございません」
「でも、少しだけでも」
「本日は、とのことでございます」
クロエは侍従を見た。
侍従は目を逸らした。
(追い払われた)
その事実が、じわりと胸に染みた。
エドワードに、追い払われた。
今まで、一度もなかったことだった。
「……そう」
クロエは微笑んだ。
完璧に、可憐に。
「分かったわ。また出直します」
馬車に戻った。
扉を閉めた。
笑顔が、消えた。
帰り道の馬車の中で、クロエは窓の外を見ていた。
王都の街が流れていく。
知り合いの令嬢が、向こうから歩いてきた。
こちらに気づいた。
しかし、目を逸らした。
挨拶をしてこなかった。
(あら)
クロエは思った。
いつもは向こうから声をかけてくるのに。
別の場所でも、同じことが続いた。
馬車が止まると、街の人々がこちらを見た。
何かを囁いていた。
その視線が、いつもと違った。
好奇の視線ではなく。
同情とも違う。
どこか、冷たい視線だった。
(噂が広まっている)
クロエは気づいた。
夜会でのことが、王都中に広まっている。
そしてその噂の中に、クロエの名前も入っているのだと。
帰宅すると、アンセル伯爵、クロエの父が待っていた。
珍しいことだった。
父は普段、クロエの社交界の動向に干渉しない。
「クロエ」
「お父様、どうされました」
「話がある。書斎へ来い」
クロエは父の書斎に通された。
父は椅子に座り、クロエを見た。
「昨夜の夜会のことだが」
「はい」
「リーゼロッテ嬢が、婚約解消を宣言したそうだな」
「ええ、突然のことで私も驚いて」
「理由は聞いたか」
「……公爵様がクロエを優先し過ぎた、ということで」
父は少し間を置いた。
「証拠書類が、国王陛下のもとへ提出されていたそうだな」
「はい」
「八十七項」
「……はい」
「二年間の記録だ」
クロエは黙っていた。
父は静かに言った。
「クロエ、正直に答えなさい」
「はい」
「その八十七項の中に、お前が関わっていることは、いくつある」
クロエは少し間を置いた。
「……私は、ただエドワード様に」
「いくつある」
父の声が、少し低くなった。
クロエは黙った。
「……全部、かもしれません」
「全部か」
「でも私は、エドワード様に頼んだだけで。来てもらったのはエドワード様が自分で」
「クロエ」
父は静かに遮った。
「私はお前を責めているのではない」
「では」
「ただ、現実を見てほしいのだ」
クロエは俯いた。
「エドワード公爵との関係は、これで終わりだ」
「……」
「公爵家との縁は切れた。リーゼロッテ嬢が証拠書類を提出し、国王陛下が受理された以上、もう覆せない」
「でも、エドワード様は」
「エドワード公爵は、今後お前に会わないだろう」
「どうして、そう言い切れるのですか」
父は少し間を置いた。
「あの方は、今やっと気づいたのだろう」
「何を」
「自分が何をしてきたかを」
クロエは顔を上げた。
父は窓の外を見ていた。
「気づいた人間は、同じ過ちを繰り返そうとしない」
「……」
「だからもう、お前のところへは来ない」
クロエは何も言えなかった。
書斎を出た後、クロエは自室に戻った。
鏡の前に座った。
いつもの自分の顔があった。
金色の髪。大きな瞳。整った顔立ち。
泣こうとした。
目に力を入れた。
いつもは、簡単に涙が出た。
泣けば、エドワードが来てくれた。
泣けば、誰かが慰めてくれた。
しかし今日は。
涙が、出なかった。
(あら)
クロエは思った。
(泣けない)
不思議だった。
本当に泣きたいのに、涙が出なかった。
今まで涙を、必要なときに出してきた。
しかし今夜、本当に泣きたいときに、出てこなかった。
(どういうことかしら)
鏡の中の自分を見た。
大きな瞳が、乾いていた。
(……練習しすぎたのかしら)
必要なときに泣けるように、ずっと練習してきた。
感情を操ることを、ずっとしてきた。
その結果、本物の感情が出てこなくなっていた。
(本物の涙が、どんなものか)
クロエは鏡を見たまま、静かに思った。
(忘れてしまったのかもしれない)
翌日から、クロエを取り巻く状況が少しずつ変わり始めた。
社交界での挨拶が、減った。
茶会への招待が、来なくなった。
親しいと思っていた令嬢たちが、少し距離を置き始めた。
明確に、何かが起きているわけではない。
ただ、空気が変わった。
夜会でのリーゼロッテの宣言が、社交界に広まるにつれて。
「アンセル伯爵令嬢が、公爵の婚約者との関係を壊した」
そういう見方をする人間が、増え始めた。
クロエはその視線を、社交界の場で感じた。
微笑んで、受け流した。
いつもの笑顔で。
しかし家に帰るたびに、少しずつ、何かが削れていく気がした。
一週間が経った。
エドワードからの連絡は、まだなかった。
クロエはある夜、侍女に言った。
「ヨーゼフ様に、お手紙を書いてちょうだい」
「ヨーゼフ様、とおっしゃいますと」
「フライング伯爵家の次男よ。先月の夜会で話した方」
侍女は少し間を置いた。
「……かしこまりました」
手紙を書いた。
翌日、返事が来た。
「ぜひ」という内容だった。
クロエは返事を読んで、少し安堵した。
エドワードがいなくなっても、次がいる。
いつもそうしてきた。
誰かに頼ることを、ずっとしてきた。
しかし。
(虚しい)
その言葉が、胸の中に浮かんだ。
浮かんで、消えなかった。
ある夜、クロエは一人で自室にいた。
侍女を下がらせていた。
一人で、窓の外を見ていた。
冬の夜空に、星が出ていた。
(エドワード様は今、何をしているだろう)
思った。
思ってから、気づいた。
(好きだったのだろうか、私は)
エドワードのことを。
本当に、好きだったのだろうか。
泣けば来てくれる。
困れば助けてくれる。
それが、好きだったのか。
それとも、その安心感が、好きだったのか。
(分からない)
クロエは窓の外の星を見た。
分からなかった。
本当に、分からなかった。
好きという感情と、必要という感情の違いが。
自分の中で、ずっと混ざったままだった。
(正直に言えばよかったのかしら)
思った。
エドワードに、正直に言えばよかったのか。
「好きです」と。
「婚約したい」と。
「リーゼロッテ様より私を選んでほしい」と。
しかし言えなかった。
言ったら、壊れると思っていたから。
今の関係が。
(言わないまま、全部壊れた)
クロエは星を見たまま、静かに思った。
(言っても、言わなくても、同じだったのかもしれない)
それが、一番つらかった。
翌朝、父から呼ばれた。
「クロエ、一つ話がある」
「はい」
「来月から、しばらく田舎の別邸に滞在してもらいたい」
クロエは少し間を置いた。
「……それは、社交界から遠ざかれ、ということですか」
「しばらくの間、王都の空気を変えた方がいいだろう」
「私が悪いことをしたと、お父様は思っているのですか」
父は少し黙った。
「お前が悪いとは言っていない」
「では」
「ただ」
父は静かに言った。
「今のお前には、少し立ち止まる時間が必要だ」
クロエは黙っていた。
「王都にいれば、また誰かを探そうとする。また誰かに頼ろうとする」
「……」
「それがお前の生き方だった。しかし」
父は娘を見た。
「その生き方で、本当に幸せだったか」
クロエは答えられなかった。
幸せだったか、と問われると。
(分からない)
また、同じ答えが出てきた。
分からなかった。
ずっと、誰かに頼ってきた。
ずっと、笑顔で生きてきた。
それが幸せだったかどうか、考えたことがなかった。
「……田舎に、行きます」
クロエは静かに言った。
「分かった」
「ただ一つだけ、お父様に聞いてもいいですか」
「なんだ」
クロエは少し間を置いた。
「リーゼロッテ様は、どうして宣言できたのでしょう」
父は少し考えた。
「準備していたからだろう」
「準備」
「二年間、一人で」
クロエは俯いた。
「……私には、できないことです」
「なぜ」
「一人で準備するなんて、怖くて」
父は静かに言った。
「お前が怖かったことを、あの令嬢もきっと怖かっただろう」
「では、なぜ」
「怖くても、動かなければいけなかったに違いない」
クロエは黙っていた。
田舎への出発は、三日後だった。
荷物をまとめながら、クロエは侍女に言った。
「フライング伯爵家への手紙、取り消してちょうだい」
「……よろしいのですか」
「ええ」
「理由を、お伝えしますか」
「しばらく田舎にいる、とだけ言っておいて」
侍女は頷いた。
クロエは窓の外を見た。
王都が見えた。
しばらく、離れることになる。
寂しいか、と問われれば、少し寂しかった。
しかし不思議と、怖くはなかった。
(少し、考えてみようかしら)
思った。
一人で、考えてみようかしら。
誰かに頼らずに。
笑顔を作らずに。
本当のことを。
(できるかどうか、分からないけれど)
クロエは小さく笑った。
今度は、誰かのための笑顔ではなかった。
自分でも、どんな笑顔か分からない、そういう笑顔だった。
出発の朝、クロエは馬車に乗り込んだ。
王都の街が、窓の外に広がっていた。
馬車が動き始めた。
街が、少しずつ後ろへ流れていく。
(エドワード様は今頃、何をしているだろう)
また思った。
そして気づいた。
(また思っている)
この癖は、すぐには治らないだろう。
しかし今回は、すぐに打ち消さなかった。
ただ、思ったまま、窓の外を見た。
(私はエドワード様のことを、好きだったのだろうか)
田舎に着くまでの間、ずっと考えようと思った。
答えが出るかどうか、分からなかった。
でも今まで、考えることを避けてきた。
だから今度は、考えてみようと思った。
馬車は、王都を離れていった。
後に、社交界の人々はこう言った。
「クロエ・アンセル伯爵令嬢は、しばらく田舎に行かれたそうよ」
「まあ、夜会の後で」
「仕方ないわね」
「悪い方ではなかったと思うけれど」
「でも」
誰かが、静かに言った。
「気づくのが、遅すぎたのよ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、別の誰かが言った。
「アルテンベルク令嬢は、今頃どうされているかしら」
「孤児院に行っていらっしゃるそうよ」
「相変わらず」
「ええ」
微笑んだ声で、答えた。
「相変わらず、ご自身のために動いていらっしゃるそうよ」
――それが、二人の、決定的な違いだ。
目が覚めたとき、カーテンの隙間から午前の光が差し込んでいた。
侍女が「もうお昼近うございます」と言った。
クロエは起き上がらなかった。
天井を見ていた。
(昨夜の夢を、見た)
夢の中でも、リーゼロッテは宣言していた。
静かな声で、広間中に届く声で。
目が覚めても、その声が耳の中に残っていた。
「クロエ様、お食事をお持ちしましょうか」
侍女が声をかけた。
「……いらない」
「でも、昨夜からお食事を」
「いらないと言ったわ」
侍女は黙った。
クロエは寝台の上で、膝を抱えた。
窓の外から、王都の音が聞こえていた。
馬車の音。
人々の声。
いつも通りの朝の音。
しかし何かが、違った。
(私のことを、話しているのかしら)
思った。
王都の誰かが、今この瞬間、クロエの名前を口にしているかもしれない。
そういう考えが、頭から離れなかった。
午後になって、クロエは起き上がった。
鏡の前に座った。
いつもの自分の顔があった。
金色の髪。大きな瞳。整った顔立ち。
「腹が立つわ」
鏡に向かって、小さく言った。
誰に、とは言わなかった。
自分でも、分からなかったから。
リーゼロッテに腹が立つのか。
宣言を許してしまったエドワードに腹が立つのか。
それとも。
(自分に、腹が立つのか)
その考えを、すぐに打ち消した。
自分は何も悪くない。
ただ、エドワードの幼馴染でいただけだ。
エドワードが来てくれるから、来てもらっていただけだ。
(私は何も、していない)
鏡の中の自分が、微笑んだ。
いつもの可憐な笑顔で。
しかし今日は、その笑顔が少し、歪んで見えた。
エドワードからの返事が来ないまま、三日が経った。
クロエは毎日、手紙を書いた。
「会いたい」
「話がしたい」
「心細い」
どれも、いつも効果があった言葉だった。
しかし今回は、返事がなかった。
使いが戻るたびに、「後日に」という言葉だけが届いた。
(おかしい)
クロエは思った。
エドワードはいつでも来てくれた。
いつでも答えてくれた。
なぜ今回だけ、来ないのか。
(リーゼロッテのせいだ)
思った。
あの宣言のせいで、エドワードが変わった。
全部、リーゼロッテのせいだ。
しかし。
(本当に、そうか)
その問いが、頭の隅に浮かんだ。
浮かんだ瞬間、強引に押し込めた。
考えたくなかった。
四日目の朝、クロエは決めた。
エドワードに直接会いに行く。
手紙ではなく、直接。
そうすれば必ず、話を聞いてもらえる。
今まで、いつもそうだったから。
ヴァルト公爵邸を訪ねると、侍従が出てきた。
「クロエ様、本日は公爵様は」
「会わせてください」
「しかし、ご多忙で」
「少しだけでいいの。お願い」
クロエは、困ったように目を細めた。
大きな瞳に、うっすらと涙を浮かべた。
この顔をすれば、必ず通してもらえた。
二年間、ずっとそうだった。
しかし侍従は、少し困った顔をしたまま、動かなかった。
「……少々、お待ちください」
奥に引っ込んだ。
しばらくして、戻ってきた。
「公爵様より、本日はご対応が難しいとのことで」
クロエは少し、目を丸くした。
「難しい?」
「はい、申し訳ございません」
「でも、少しだけでも」
「本日は、とのことでございます」
クロエは侍従を見た。
侍従は目を逸らした。
(追い払われた)
その事実が、じわりと胸に染みた。
エドワードに、追い払われた。
今まで、一度もなかったことだった。
「……そう」
クロエは微笑んだ。
完璧に、可憐に。
「分かったわ。また出直します」
馬車に戻った。
扉を閉めた。
笑顔が、消えた。
帰り道の馬車の中で、クロエは窓の外を見ていた。
王都の街が流れていく。
知り合いの令嬢が、向こうから歩いてきた。
こちらに気づいた。
しかし、目を逸らした。
挨拶をしてこなかった。
(あら)
クロエは思った。
いつもは向こうから声をかけてくるのに。
別の場所でも、同じことが続いた。
馬車が止まると、街の人々がこちらを見た。
何かを囁いていた。
その視線が、いつもと違った。
好奇の視線ではなく。
同情とも違う。
どこか、冷たい視線だった。
(噂が広まっている)
クロエは気づいた。
夜会でのことが、王都中に広まっている。
そしてその噂の中に、クロエの名前も入っているのだと。
帰宅すると、アンセル伯爵、クロエの父が待っていた。
珍しいことだった。
父は普段、クロエの社交界の動向に干渉しない。
「クロエ」
「お父様、どうされました」
「話がある。書斎へ来い」
クロエは父の書斎に通された。
父は椅子に座り、クロエを見た。
「昨夜の夜会のことだが」
「はい」
「リーゼロッテ嬢が、婚約解消を宣言したそうだな」
「ええ、突然のことで私も驚いて」
「理由は聞いたか」
「……公爵様がクロエを優先し過ぎた、ということで」
父は少し間を置いた。
「証拠書類が、国王陛下のもとへ提出されていたそうだな」
「はい」
「八十七項」
「……はい」
「二年間の記録だ」
クロエは黙っていた。
父は静かに言った。
「クロエ、正直に答えなさい」
「はい」
「その八十七項の中に、お前が関わっていることは、いくつある」
クロエは少し間を置いた。
「……私は、ただエドワード様に」
「いくつある」
父の声が、少し低くなった。
クロエは黙った。
「……全部、かもしれません」
「全部か」
「でも私は、エドワード様に頼んだだけで。来てもらったのはエドワード様が自分で」
「クロエ」
父は静かに遮った。
「私はお前を責めているのではない」
「では」
「ただ、現実を見てほしいのだ」
クロエは俯いた。
「エドワード公爵との関係は、これで終わりだ」
「……」
「公爵家との縁は切れた。リーゼロッテ嬢が証拠書類を提出し、国王陛下が受理された以上、もう覆せない」
「でも、エドワード様は」
「エドワード公爵は、今後お前に会わないだろう」
「どうして、そう言い切れるのですか」
父は少し間を置いた。
「あの方は、今やっと気づいたのだろう」
「何を」
「自分が何をしてきたかを」
クロエは顔を上げた。
父は窓の外を見ていた。
「気づいた人間は、同じ過ちを繰り返そうとしない」
「……」
「だからもう、お前のところへは来ない」
クロエは何も言えなかった。
書斎を出た後、クロエは自室に戻った。
鏡の前に座った。
いつもの自分の顔があった。
金色の髪。大きな瞳。整った顔立ち。
泣こうとした。
目に力を入れた。
いつもは、簡単に涙が出た。
泣けば、エドワードが来てくれた。
泣けば、誰かが慰めてくれた。
しかし今日は。
涙が、出なかった。
(あら)
クロエは思った。
(泣けない)
不思議だった。
本当に泣きたいのに、涙が出なかった。
今まで涙を、必要なときに出してきた。
しかし今夜、本当に泣きたいときに、出てこなかった。
(どういうことかしら)
鏡の中の自分を見た。
大きな瞳が、乾いていた。
(……練習しすぎたのかしら)
必要なときに泣けるように、ずっと練習してきた。
感情を操ることを、ずっとしてきた。
その結果、本物の感情が出てこなくなっていた。
(本物の涙が、どんなものか)
クロエは鏡を見たまま、静かに思った。
(忘れてしまったのかもしれない)
翌日から、クロエを取り巻く状況が少しずつ変わり始めた。
社交界での挨拶が、減った。
茶会への招待が、来なくなった。
親しいと思っていた令嬢たちが、少し距離を置き始めた。
明確に、何かが起きているわけではない。
ただ、空気が変わった。
夜会でのリーゼロッテの宣言が、社交界に広まるにつれて。
「アンセル伯爵令嬢が、公爵の婚約者との関係を壊した」
そういう見方をする人間が、増え始めた。
クロエはその視線を、社交界の場で感じた。
微笑んで、受け流した。
いつもの笑顔で。
しかし家に帰るたびに、少しずつ、何かが削れていく気がした。
一週間が経った。
エドワードからの連絡は、まだなかった。
クロエはある夜、侍女に言った。
「ヨーゼフ様に、お手紙を書いてちょうだい」
「ヨーゼフ様、とおっしゃいますと」
「フライング伯爵家の次男よ。先月の夜会で話した方」
侍女は少し間を置いた。
「……かしこまりました」
手紙を書いた。
翌日、返事が来た。
「ぜひ」という内容だった。
クロエは返事を読んで、少し安堵した。
エドワードがいなくなっても、次がいる。
いつもそうしてきた。
誰かに頼ることを、ずっとしてきた。
しかし。
(虚しい)
その言葉が、胸の中に浮かんだ。
浮かんで、消えなかった。
ある夜、クロエは一人で自室にいた。
侍女を下がらせていた。
一人で、窓の外を見ていた。
冬の夜空に、星が出ていた。
(エドワード様は今、何をしているだろう)
思った。
思ってから、気づいた。
(好きだったのだろうか、私は)
エドワードのことを。
本当に、好きだったのだろうか。
泣けば来てくれる。
困れば助けてくれる。
それが、好きだったのか。
それとも、その安心感が、好きだったのか。
(分からない)
クロエは窓の外の星を見た。
分からなかった。
本当に、分からなかった。
好きという感情と、必要という感情の違いが。
自分の中で、ずっと混ざったままだった。
(正直に言えばよかったのかしら)
思った。
エドワードに、正直に言えばよかったのか。
「好きです」と。
「婚約したい」と。
「リーゼロッテ様より私を選んでほしい」と。
しかし言えなかった。
言ったら、壊れると思っていたから。
今の関係が。
(言わないまま、全部壊れた)
クロエは星を見たまま、静かに思った。
(言っても、言わなくても、同じだったのかもしれない)
それが、一番つらかった。
翌朝、父から呼ばれた。
「クロエ、一つ話がある」
「はい」
「来月から、しばらく田舎の別邸に滞在してもらいたい」
クロエは少し間を置いた。
「……それは、社交界から遠ざかれ、ということですか」
「しばらくの間、王都の空気を変えた方がいいだろう」
「私が悪いことをしたと、お父様は思っているのですか」
父は少し黙った。
「お前が悪いとは言っていない」
「では」
「ただ」
父は静かに言った。
「今のお前には、少し立ち止まる時間が必要だ」
クロエは黙っていた。
「王都にいれば、また誰かを探そうとする。また誰かに頼ろうとする」
「……」
「それがお前の生き方だった。しかし」
父は娘を見た。
「その生き方で、本当に幸せだったか」
クロエは答えられなかった。
幸せだったか、と問われると。
(分からない)
また、同じ答えが出てきた。
分からなかった。
ずっと、誰かに頼ってきた。
ずっと、笑顔で生きてきた。
それが幸せだったかどうか、考えたことがなかった。
「……田舎に、行きます」
クロエは静かに言った。
「分かった」
「ただ一つだけ、お父様に聞いてもいいですか」
「なんだ」
クロエは少し間を置いた。
「リーゼロッテ様は、どうして宣言できたのでしょう」
父は少し考えた。
「準備していたからだろう」
「準備」
「二年間、一人で」
クロエは俯いた。
「……私には、できないことです」
「なぜ」
「一人で準備するなんて、怖くて」
父は静かに言った。
「お前が怖かったことを、あの令嬢もきっと怖かっただろう」
「では、なぜ」
「怖くても、動かなければいけなかったに違いない」
クロエは黙っていた。
田舎への出発は、三日後だった。
荷物をまとめながら、クロエは侍女に言った。
「フライング伯爵家への手紙、取り消してちょうだい」
「……よろしいのですか」
「ええ」
「理由を、お伝えしますか」
「しばらく田舎にいる、とだけ言っておいて」
侍女は頷いた。
クロエは窓の外を見た。
王都が見えた。
しばらく、離れることになる。
寂しいか、と問われれば、少し寂しかった。
しかし不思議と、怖くはなかった。
(少し、考えてみようかしら)
思った。
一人で、考えてみようかしら。
誰かに頼らずに。
笑顔を作らずに。
本当のことを。
(できるかどうか、分からないけれど)
クロエは小さく笑った。
今度は、誰かのための笑顔ではなかった。
自分でも、どんな笑顔か分からない、そういう笑顔だった。
出発の朝、クロエは馬車に乗り込んだ。
王都の街が、窓の外に広がっていた。
馬車が動き始めた。
街が、少しずつ後ろへ流れていく。
(エドワード様は今頃、何をしているだろう)
また思った。
そして気づいた。
(また思っている)
この癖は、すぐには治らないだろう。
しかし今回は、すぐに打ち消さなかった。
ただ、思ったまま、窓の外を見た。
(私はエドワード様のことを、好きだったのだろうか)
田舎に着くまでの間、ずっと考えようと思った。
答えが出るかどうか、分からなかった。
でも今まで、考えることを避けてきた。
だから今度は、考えてみようと思った。
馬車は、王都を離れていった。
後に、社交界の人々はこう言った。
「クロエ・アンセル伯爵令嬢は、しばらく田舎に行かれたそうよ」
「まあ、夜会の後で」
「仕方ないわね」
「悪い方ではなかったと思うけれど」
「でも」
誰かが、静かに言った。
「気づくのが、遅すぎたのよ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、別の誰かが言った。
「アルテンベルク令嬢は、今頃どうされているかしら」
「孤児院に行っていらっしゃるそうよ」
「相変わらず」
「ええ」
微笑んだ声で、答えた。
「相変わらず、ご自身のために動いていらっしゃるそうよ」
――それが、二人の、決定的な違いだ。
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彼の健康も商会の名声も、私が裏で支えているとも知らずに。
ある日、過労で倒れた私は、「言ってくれれば手伝ったのに」と無神経な夫に微笑まれた時、心の中で決意した。
地下室にあるコーディアルの瓶は残り15本。
これがすべて空になるまでに彼が変わらなければ、離縁状を叩きつけよう。
私を失い、体調も商会も崩壊して這いつくばる夫をよそに、私は真の評価を得て自分の人生を歩み始める。
これは、透明な存在として扱われ続けた私が、失望のカウントダウンを進めて自立するまでの、そして、すべてを失った夫が惨めに後悔するまでの物語。
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