大人しい令嬢は怒りません。ただ二年間、準備していただけです。――婚約解消の申請が受理されましたので、失礼いたします

柴田はつみ

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第二十章「クロエの仮面が剥がれる」

クロエ・アンセル伯爵令嬢の朝は、いつもより遅かった。

目が覚めたとき、カーテンの隙間から午前の光が差し込んでいた。

侍女が「もうお昼近うございます」と言った。

クロエは起き上がらなかった。

天井を見ていた。

(昨夜の夢を、見た)

夢の中でも、リーゼロッテは宣言していた。

静かな声で、広間中に届く声で。

目が覚めても、その声が耳の中に残っていた。

「クロエ様、お食事をお持ちしましょうか」

侍女が声をかけた。

「……いらない」

「でも、昨夜からお食事を」

「いらないと言ったわ」

侍女は黙った。

クロエは寝台の上で、膝を抱えた。

窓の外から、王都の音が聞こえていた。

馬車の音。

人々の声。

いつも通りの朝の音。

しかし何かが、違った。

(私のことを、話しているのかしら)

思った。

王都の誰かが、今この瞬間、クロエの名前を口にしているかもしれない。

そういう考えが、頭から離れなかった。

午後になって、クロエは起き上がった。

鏡の前に座った。

いつもの自分の顔があった。

金色の髪。大きな瞳。整った顔立ち。

「腹が立つわ」

鏡に向かって、小さく言った。

誰に、とは言わなかった。

自分でも、分からなかったから。

リーゼロッテに腹が立つのか。

宣言を許してしまったエドワードに腹が立つのか。

それとも。

(自分に、腹が立つのか)

その考えを、すぐに打ち消した。

自分は何も悪くない。

ただ、エドワードの幼馴染でいただけだ。

エドワードが来てくれるから、来てもらっていただけだ。

(私は何も、していない)

鏡の中の自分が、微笑んだ。

いつもの可憐な笑顔で。

しかし今日は、その笑顔が少し、歪んで見えた。

エドワードからの返事が来ないまま、三日が経った。

クロエは毎日、手紙を書いた。

「会いたい」

「話がしたい」

「心細い」

どれも、いつも効果があった言葉だった。

しかし今回は、返事がなかった。

使いが戻るたびに、「後日に」という言葉だけが届いた。

(おかしい)

クロエは思った。

エドワードはいつでも来てくれた。

いつでも答えてくれた。

なぜ今回だけ、来ないのか。

(リーゼロッテのせいだ)

思った。

あの宣言のせいで、エドワードが変わった。

全部、リーゼロッテのせいだ。

しかし。

(本当に、そうか)

その問いが、頭の隅に浮かんだ。

浮かんだ瞬間、強引に押し込めた。

考えたくなかった。

四日目の朝、クロエは決めた。

エドワードに直接会いに行く。

手紙ではなく、直接。

そうすれば必ず、話を聞いてもらえる。

今まで、いつもそうだったから。

ヴァルト公爵邸を訪ねると、侍従が出てきた。

「クロエ様、本日は公爵様は」

「会わせてください」

「しかし、ご多忙で」

「少しだけでいいの。お願い」

クロエは、困ったように目を細めた。

大きな瞳に、うっすらと涙を浮かべた。

この顔をすれば、必ず通してもらえた。

二年間、ずっとそうだった。

しかし侍従は、少し困った顔をしたまま、動かなかった。

「……少々、お待ちください」

奥に引っ込んだ。

しばらくして、戻ってきた。

「公爵様より、本日はご対応が難しいとのことで」

クロエは少し、目を丸くした。

「難しい?」

「はい、申し訳ございません」

「でも、少しだけでも」

「本日は、とのことでございます」

クロエは侍従を見た。

侍従は目を逸らした。

(追い払われた)

その事実が、じわりと胸に染みた。

エドワードに、追い払われた。

今まで、一度もなかったことだった。

「……そう」

クロエは微笑んだ。

完璧に、可憐に。

「分かったわ。また出直します」

馬車に戻った。

扉を閉めた。

笑顔が、消えた。

帰り道の馬車の中で、クロエは窓の外を見ていた。

王都の街が流れていく。

知り合いの令嬢が、向こうから歩いてきた。

こちらに気づいた。

しかし、目を逸らした。

挨拶をしてこなかった。

(あら)

クロエは思った。

いつもは向こうから声をかけてくるのに。

別の場所でも、同じことが続いた。

馬車が止まると、街の人々がこちらを見た。

何かを囁いていた。

その視線が、いつもと違った。

好奇の視線ではなく。

同情とも違う。

どこか、冷たい視線だった。

(噂が広まっている)

クロエは気づいた。

夜会でのことが、王都中に広まっている。

そしてその噂の中に、クロエの名前も入っているのだと。

帰宅すると、アンセル伯爵、クロエの父が待っていた。

珍しいことだった。

父は普段、クロエの社交界の動向に干渉しない。

「クロエ」

「お父様、どうされました」

「話がある。書斎へ来い」

クロエは父の書斎に通された。

父は椅子に座り、クロエを見た。

「昨夜の夜会のことだが」

「はい」

「リーゼロッテ嬢が、婚約解消を宣言したそうだな」

「ええ、突然のことで私も驚いて」

「理由は聞いたか」

「……公爵様がクロエを優先し過ぎた、ということで」

父は少し間を置いた。

「証拠書類が、国王陛下のもとへ提出されていたそうだな」

「はい」

「八十七項」

「……はい」

「二年間の記録だ」

クロエは黙っていた。

父は静かに言った。

「クロエ、正直に答えなさい」

「はい」

「その八十七項の中に、お前が関わっていることは、いくつある」

クロエは少し間を置いた。

「……私は、ただエドワード様に」

「いくつある」

父の声が、少し低くなった。

クロエは黙った。

「……全部、かもしれません」

「全部か」

「でも私は、エドワード様に頼んだだけで。来てもらったのはエドワード様が自分で」

「クロエ」

父は静かに遮った。

「私はお前を責めているのではない」

「では」

「ただ、現実を見てほしいのだ」

クロエは俯いた。

「エドワード公爵との関係は、これで終わりだ」

「……」

「公爵家との縁は切れた。リーゼロッテ嬢が証拠書類を提出し、国王陛下が受理された以上、もう覆せない」

「でも、エドワード様は」

「エドワード公爵は、今後お前に会わないだろう」

「どうして、そう言い切れるのですか」

父は少し間を置いた。

「あの方は、今やっと気づいたのだろう」

「何を」

「自分が何をしてきたかを」

クロエは顔を上げた。

父は窓の外を見ていた。

「気づいた人間は、同じ過ちを繰り返そうとしない」

「……」

「だからもう、お前のところへは来ない」

クロエは何も言えなかった。

書斎を出た後、クロエは自室に戻った。

鏡の前に座った。

いつもの自分の顔があった。

金色の髪。大きな瞳。整った顔立ち。

泣こうとした。

目に力を入れた。

いつもは、簡単に涙が出た。

泣けば、エドワードが来てくれた。

泣けば、誰かが慰めてくれた。

しかし今日は。

涙が、出なかった。

(あら)

クロエは思った。

(泣けない)

不思議だった。

本当に泣きたいのに、涙が出なかった。

今まで涙を、必要なときに出してきた。

しかし今夜、本当に泣きたいときに、出てこなかった。

(どういうことかしら)

鏡の中の自分を見た。

大きな瞳が、乾いていた。

(……練習しすぎたのかしら)

必要なときに泣けるように、ずっと練習してきた。

感情を操ることを、ずっとしてきた。

その結果、本物の感情が出てこなくなっていた。

(本物の涙が、どんなものか)

クロエは鏡を見たまま、静かに思った。

(忘れてしまったのかもしれない)

翌日から、クロエを取り巻く状況が少しずつ変わり始めた。

社交界での挨拶が、減った。

茶会への招待が、来なくなった。

親しいと思っていた令嬢たちが、少し距離を置き始めた。

明確に、何かが起きているわけではない。

ただ、空気が変わった。

夜会でのリーゼロッテの宣言が、社交界に広まるにつれて。

「アンセル伯爵令嬢が、公爵の婚約者との関係を壊した」

そういう見方をする人間が、増え始めた。

クロエはその視線を、社交界の場で感じた。

微笑んで、受け流した。

いつもの笑顔で。

しかし家に帰るたびに、少しずつ、何かが削れていく気がした。

一週間が経った。

エドワードからの連絡は、まだなかった。

クロエはある夜、侍女に言った。

「ヨーゼフ様に、お手紙を書いてちょうだい」

「ヨーゼフ様、とおっしゃいますと」

「フライング伯爵家の次男よ。先月の夜会で話した方」

侍女は少し間を置いた。

「……かしこまりました」

手紙を書いた。

翌日、返事が来た。

「ぜひ」という内容だった。

クロエは返事を読んで、少し安堵した。

エドワードがいなくなっても、次がいる。

いつもそうしてきた。

誰かに頼ることを、ずっとしてきた。

しかし。

(虚しい)

その言葉が、胸の中に浮かんだ。

浮かんで、消えなかった。

ある夜、クロエは一人で自室にいた。

侍女を下がらせていた。

一人で、窓の外を見ていた。

冬の夜空に、星が出ていた。

(エドワード様は今、何をしているだろう)

思った。

思ってから、気づいた。

(好きだったのだろうか、私は)

エドワードのことを。

本当に、好きだったのだろうか。

泣けば来てくれる。

困れば助けてくれる。

それが、好きだったのか。

それとも、その安心感が、好きだったのか。

(分からない)

クロエは窓の外の星を見た。

分からなかった。

本当に、分からなかった。

好きという感情と、必要という感情の違いが。

自分の中で、ずっと混ざったままだった。

(正直に言えばよかったのかしら)

思った。

エドワードに、正直に言えばよかったのか。

「好きです」と。

「婚約したい」と。

「リーゼロッテ様より私を選んでほしい」と。

しかし言えなかった。

言ったら、壊れると思っていたから。

今の関係が。

(言わないまま、全部壊れた)

クロエは星を見たまま、静かに思った。

(言っても、言わなくても、同じだったのかもしれない)

それが、一番つらかった。

翌朝、父から呼ばれた。

「クロエ、一つ話がある」

「はい」

「来月から、しばらく田舎の別邸に滞在してもらいたい」

クロエは少し間を置いた。

「……それは、社交界から遠ざかれ、ということですか」

「しばらくの間、王都の空気を変えた方がいいだろう」

「私が悪いことをしたと、お父様は思っているのですか」

父は少し黙った。

「お前が悪いとは言っていない」

「では」

「ただ」

父は静かに言った。

「今のお前には、少し立ち止まる時間が必要だ」

クロエは黙っていた。

「王都にいれば、また誰かを探そうとする。また誰かに頼ろうとする」

「……」

「それがお前の生き方だった。しかし」

父は娘を見た。

「その生き方で、本当に幸せだったか」

クロエは答えられなかった。

幸せだったか、と問われると。

(分からない)

また、同じ答えが出てきた。

分からなかった。

ずっと、誰かに頼ってきた。

ずっと、笑顔で生きてきた。

それが幸せだったかどうか、考えたことがなかった。

「……田舎に、行きます」

クロエは静かに言った。

「分かった」

「ただ一つだけ、お父様に聞いてもいいですか」

「なんだ」

クロエは少し間を置いた。

「リーゼロッテ様は、どうして宣言できたのでしょう」

父は少し考えた。

「準備していたからだろう」

「準備」

「二年間、一人で」

クロエは俯いた。

「……私には、できないことです」

「なぜ」

「一人で準備するなんて、怖くて」

父は静かに言った。

「お前が怖かったことを、あの令嬢もきっと怖かっただろう」

「では、なぜ」

「怖くても、動かなければいけなかったに違いない」

クロエは黙っていた。

田舎への出発は、三日後だった。

荷物をまとめながら、クロエは侍女に言った。

「フライング伯爵家への手紙、取り消してちょうだい」

「……よろしいのですか」

「ええ」

「理由を、お伝えしますか」

「しばらく田舎にいる、とだけ言っておいて」

侍女は頷いた。

クロエは窓の外を見た。

王都が見えた。

しばらく、離れることになる。

寂しいか、と問われれば、少し寂しかった。

しかし不思議と、怖くはなかった。

(少し、考えてみようかしら)

思った。

一人で、考えてみようかしら。

誰かに頼らずに。

笑顔を作らずに。

本当のことを。

(できるかどうか、分からないけれど)

クロエは小さく笑った。

今度は、誰かのための笑顔ではなかった。

自分でも、どんな笑顔か分からない、そういう笑顔だった。

出発の朝、クロエは馬車に乗り込んだ。

王都の街が、窓の外に広がっていた。

馬車が動き始めた。

街が、少しずつ後ろへ流れていく。

(エドワード様は今頃、何をしているだろう)

また思った。

そして気づいた。

(また思っている)

この癖は、すぐには治らないだろう。

しかし今回は、すぐに打ち消さなかった。

ただ、思ったまま、窓の外を見た。

(私はエドワード様のことを、好きだったのだろうか)

田舎に着くまでの間、ずっと考えようと思った。

答えが出るかどうか、分からなかった。

でも今まで、考えることを避けてきた。

だから今度は、考えてみようと思った。

馬車は、王都を離れていった。

後に、社交界の人々はこう言った。
「クロエ・アンセル伯爵令嬢は、しばらく田舎に行かれたそうよ」

「まあ、夜会の後で」
「仕方ないわね」
「悪い方ではなかったと思うけれど」
「でも」

誰かが、静かに言った。

「気づくのが、遅すぎたのよ」
しばらく、誰も何も言わなかった。
それから、別の誰かが言った。

「アルテンベルク令嬢は、今頃どうされているかしら」
「孤児院に行っていらっしゃるそうよ」

「相変わらず」
「ええ」
微笑んだ声で、答えた。

「相変わらず、ご自身のために動いていらっしゃるそうよ」
――それが、二人の、決定的な違いだ。

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