噂の聖女と国王陛下 ―婚約破棄を願った令嬢は、溺愛される

柴田はつみ

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第一章 噂

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 ──陛下は、聖女殿とよくお会いになっているらしいわ。
 ──この前もお二人で笑顔を交わしておられたのよ。
 ──まるで物語の中の理想の夫婦のように、ぴたりとお似合いだったわ。

 廊下を通りかかっただけのはずなのに、耳に飛び込んできたその会話は、私の心に鋭く突き刺さった。
 足を止めて振り返ることはしなかったけれど、胸の奥がぎゅっと縮こまる感覚はどうしようもない。
 何も聞かなかったふりをして歩き出すと、背筋を冷たいものが伝っていった。

 私――公爵令嬢エリシア・レイフォードは、淡い亜麻色の髪を持って生まれた。
 光を受ければ金砂のようにきらめき、夜には月明かりの下で銀色に見えると人は言う。


 瞳は翡翠のような緑色で、父には「母の面影を宿す瞳だ」とよく撫でられた。
 宮廷では「清楚な美しさ」と評されることもあったけれど、私は自分の顔立ちを誇らしく思ったことはない。


 なぜなら、その髪も瞳も──今、宮中で称えられる聖女ミレイユの輝きには到底及ばないと思ってしまうからだ。

 エリシアは、幼い頃からアラン殿下……いえ、今は陛下と呼ばねばならない彼と共に育った。


 庭園で一緒に花を摘み、剣の稽古を覗き見して叱られ、雨の日は城の図書室で本を読み合った。


 当たり前のように「いつか結婚するのだ」と信じて疑わなかった。


 事実、王家と我が家の結びつきは強く、私たちは幼くして許嫁となったのだから。

 けれど、最近は──。


 彼と過ごす時間は減り、会っても執務や謁見で疲れている様子ばかり目に入る。
 そして、私の代わりに彼の隣に立つ女性が現れた。それが「聖女」と呼ばれる存在だ。

 聖女ミレイユは、王都に現れた救国の乙女。
 金糸の髪と湖のような青い瞳を持ち、その笑顔は見る者すべてを魅了すると噂される。
 神託を受け、癒しの力で民を救う──その物語のような経歴は、民衆からの絶対的な支持を集めた。

 そんな彼女と陛下が頻繁に会っていると聞けば……。
 しかもその姿が「お似合い」と囁かれるのを耳にしてしまえば……。

 胸の奥が痛い。



 幼馴染として彼を知っているつもりだった。だけど、それは過去のことなのかもしれない。

 今のアラン陛下は、王国の頂点に立つ存在であり、私が知っていた少年ではない。
 彼の隣に立つ資格が、本当に私にあるのだろうか。



 その日の午後、王城の庭園は初夏の香りで満ちていた。
 私がいつものように読書をしていると、ふと視線を感じる。顔を上げると──。

「エリシア、探していた」

 涼やかな低い声とともに、背の高い影が差し込んだ。
 薄藍色のマントを翻し、陽光を背負ったその姿は、少年時代の面影を残しつつも凛々しい国王そのものだった。

「……陛下。お忙しいのでは?」

「アランでいい。お前の前で肩書きは必要ない」

 彼は軽く眉をひそめ、私の隣に腰を下ろす。
 距離が近い。昔はこれが当たり前だったのに、今はどうしてか心臓が早鐘を打つ。
 ドレスの袖からのぞく自分の細い手首を、そっと組む。


 彼と比べるとあまりにも華奢で、小さくて、頼りない――そう思えてならなかった。

「少し、話したいことがあってな。……最近、お前の顔色がよくない。何かあったか?」

 鋭い視線に見透かされそうで、思わず目を伏せる。
 本当は噂のことを聞きたかった。けれど、怖かった。
 彼の口から「聖女殿の方が……」などと告げられたら、きっと私は立っていられない。

「……何も、ありませんわ」

「嘘だな」

 短く吐き捨てられるような言葉に、胸が跳ねる。
 アランは幼い頃から私の嘘を見抜く。
 だけど今回は──どうしても、本当のことは言えなかった。



 日が沈む頃、私は決意していた。
 このままではいけない。彼の傍にいても、不安と劣等感に押し潰されるだけだ。
 ならば──。

 明日、陛下に婚約破棄を申し出よう。

 それは自分を守るための逃げであり、同時に、彼を自由にするための選択でもあると信じたかった。
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