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第一章「笑顔の妻」5
翌朝、エルミラは庭に出た。
公爵家の庭は広い。手入れの行き届いた芝生が奥まで続いて、季節ごとに植え替えられる花壇が左右に並んでいる。その端、石壁に近い日当たりの悪い一角に、白い花が群れて咲いていた。
スノードロップ。
エルミラはしゃがんで、細い茎の根元を確かめた。球根から育てたものだ。種から育てるより手間がかかる。誰かが秋のうちに植えていなければ、今頃この場所に花はなかった。
「奥様、朝から庭に出られるとは珍しい」
背後からハンスの声がした。振り返ると、執事が盆を持って立っていた。温かい飲み物を持ってきたらしい。
「この花、いつから咲いているか知っている?」
「スノードロップでございますか。今年で三年目になります」
エルミラは花から顔を上げた。
「三年目」
「左様でございます。毎年この時期に咲きます」
三年。エルミラが嫁いできた年から、この花はここに咲いている。エルミラが気づいたのは三日前で、それまでの三年間、この場所に来たことがなかった。
「誰が植えたの」
ハンスが少し間を置いた。その間が、答えを持っているときの間だとエルミラは知っていた。
「存じません」
嘘だった。この執事が公爵家のことを「存じません」と言うとき、大抵は知っている。エルミラはそれ以上聞かなかった。聞いても教えないと判断したからではなく、聞かなくてもわかり始めていたからだ。
差し出された温かいカップを受け取った。ハーブティーだった。エルミラが朝に好む種類だ。頼んだ覚えはない。
「ハンス」
「はい」
「シオン様の朝食の好みを教えてもらえる」
ハンスが少し目を見開いた。三年間で初めての質問だと、その顔が語っていた。
「旦那様は卵料理をお好みです。スクランブルよりオムレツ。チーズは入れない方がよろしいかと。パンは薄めに焼いたものを好まれます。コーヒーはブラックで、ただし豆はキリマンジャロに限ります。他の豆は口をつけません」
よどみなく出てきた。ハンスがずっと持っていた情報が、初めて問われて溢れ出たように。
「ありがとう」
「もったいないお言葉でございます」
エルミラはカップを両手で持って、白い花を見下ろした。花言葉は希望。誰かが毎年、ここに希望を植えている。
その日の午後、エルミラは図書室に向かった。
公爵家の図書室は二階建て構造で、蔵書数は王立図書館に次ぐとも言われている。エルミラが離婚条項を調べるために入ったのが最初で、それ以来足を運ぶ回数が増えた。広くて、静かで、カリナの話題が届かない場所だという理由もあった。
植物に関する書籍が一角にまとめられている。エルミラはその棚の前に立って、背表紙を目で追った。王国植物図鑑、薬草の分類と効能、庭園設計の歴史。その並びに一冊だけ、背表紙の色が他と違う本があった。
引き抜くと、植物研究の論文集だった。王立植物研究所の紋章が表紙に入っている。
発行年は五年前。エルミラが知っている最新の研究よりは古いが、基礎的な分類体系が丁寧にまとめられている。
「それ、面白いですよ」
声がして、エルミラは顔を上げた。
棚の反対側から顔を覗かせたのは、見たことのない男性だった。三十前後、眼鏡をかけた、整った顔立ちの人物だ。公爵家の使用人ではない。服の質と仕立てを見れば、貴族か、それに準じる立場の者だとわかる。
「失礼、驚かせましたか。アレクシス・フォン・ヴァールといいます。昨日、イザベルの兄だと紹介しようとしていたのですが、タイミングを逃してしまって」
「エルミラ・アンドルです」
「存じています。シオン卿の奥様。今日は公爵閣下にお招きいただいて、こちらで資料を調べていました。王立植物研究所に勤めていて」
エルミラの手の中の論文集と、アレクシスを交互に見た。
「この論文集の発行元の」
「ええ、私が在籍しているのは分類学の部門ですが。奥様も植物がお好きで?」
「好きです」
「どの分野に興味が?」
エルミラは少し考えた。来客に対してこれほど素直に答えているのが珍しくて、自分でも少し驚いた。
「球根植物です。特に冬から春にかけて咲くもの。スノードロップやクロッカスの生育環境の違いに興味があって、独学で調べているのですが資料が限られていて」
アレクシスの目が変わった。礼儀的な関心から、本物の興味へと切り替わる瞬間が見えた。
「それは面白い着眼点だ。実は今年の研究課題がまさにそこで、スノードロップの低温耐性と開花時期の関係を調べているところです」
「クロッカスとの比較は」
「しています。奥様、少しよろしいですか。こちらに資料があって」
気づいたら一時間が経っていた。
アレクシスが持ち込んでいた資料の束の半分が、エルミラの前に広げられていた。数値のグラフ、観察記録、他国の研究機関との比較データ。エルミラは夢中になって読んでいた。
「奥様、これをご覧になって、どう思われますか」
アレクシスがグラフの一点を指した。エルミラはペンを借りて、余白に計算式を書いた。
「この数値が前年と比較して低いのは、その年の降水量が関係していませんか。土壌の水分量が球根の成長に」
「そうなんです! それを証明したくて今年の観測を続けているんですが」
二人の会話が重なった。図書室の静かさがちょうど良かった。エルミラは今自分が笑っているかどうか考えて、笑っていることに気づいた。作った笑顔ではなく、顔の筋肉が自然に動いている。
「奥様のような方が、なぜ公爵家に」
アレクシスが言いかけて止まった。
「失礼なことを言いかけました。忘れてください」
「いいえ、続けて」
「いや、本当に失礼で」
「構いません」
エルミラは正面からアレクシスを見た。この男性は悪意で言いかけたのではない。純粋な疑問が先に出ただけだ。
「なぜ公爵家にいるのか、ということなら縁があったからです。今のところは」
今のところは、という部分が口から出てから、少しだけ余分だったと思った。アレクシスはそれを聞いて、何かを察したような顔をしたが、深くは入ってこなかった。賢い人間だとエルミラは思った。
「もし今後、研究の資料で必要なものがあればお送りします。公爵家の図書室には珍しい文献もあるでしょうし、交換という形で」
「ぜひ」
答えてから、エルミラは少し考えた。
「王立植物研究所では、外部からの研究補助を受け入れていますか」
「研究補助、というのは」
「私のような、専門の教育を受けていない者でも、資料整理や観察記録の補助として関われるかという意味です」
アレクシスが少し驚いた顔をした。それから、真剣な顔になった。
「受け入れています。ただ奥様のような立場の方が希望されるのは珍しくて」
「将来的な話です。今すぐということではありません」
「わかりました。詳しくは改めてお伝えします」
エルミラは論文集を棚に戻した。一ヶ月後の話だ。離婚が成立すれば、エルミラはもう一度自分の人生を組み直す必要がある。その選択肢の一つが、今日少しだけ具体的になった。
夕方、シオンが予告なく帰宅した。
エルミラが図書室から自室に戻る途中、廊下でばったり出くわした。シオンも驚いた顔をした。お互いに驚いているのが少し滑稽だと、エルミラは思った。自分の家の廊下で、夫婦が鉢合わせて驚いている。
「今日はお早いですね」
「少し早く切り上げられたので」
それだけ言って、シオンの目がエルミラの手元に止まった。図書室から持ち出した植物図鑑を持っている。
「植物の本ですか」
「ええ」
「庭のスノードロップを調べていた」
断定だった。エルミラは少しだけ返答を考えた。
「そうです」
「他に興味のある植物は」
「クロッカスと、あとは水仙の系統を」
シオンが小さくうなずいた。何かを書き留めているような顔だった。メモは取っていない。でも確かに、この夫は何かを記録している。
「アレクシス・ヴァールが来ていましたか」
「図書室でお会いしました」
シオンの目が少し動いた。夜会でイザベルと話していたのを見ていて、今日は兄のアレクシスと図書室で話していた。シオンの中でそれがどう映っているのか、エルミラには読めなかった。
「どんな話を」
「植物の研究について。スノードロップの低温耐性と開花時期の関係が今年の研究課題だそうで、私も興味があったので」
「楽しそうでしたか」
エルミラは夫を見た。
「楽しかったです」
シオンが目を伏せた。廊下の燭台が二人の間に影を作っている。
「そうですか」
その二文字に、エルミラが三年間聞いたことのない何かが乗っていた。感情の名前をつけるなら、後悔に近い何かだとエルミラは思った。でも確信はなかった。
「夕食まで時間がありますが」
シオンが顔を上げた。
「書斎で少し、話をしてもいいですか」
昨夜と立場が逆だった。今度はシオンからの申し出だ。エルミラは図書室の方向と、自室の方向と、シオンの書斎の方向を頭の中で確認した。
「わかりました」
書斎に入るのが二度目になった。
昨夜と同じランプの位置、同じ積み方の書類。違うのは、今夜はエルミラが客用の椅子に座っていることと、シオンが机を挟んで向かいに座っていることだ。
「カリナのことを話します」
シオンが切り出した。前置きのない入り方だった。エルミラは姿勢を正した。
「カリナは十二歳のとき、病気をしました」
エルミラは黙って聞いた。カリナから聞いたことのない話だった。
「心の病です。今は正式な名前がついていますが、当時はそういう概念自体が貴族社会では認められていなかった。母上は認めなかった。父上も表立っては動けなかった。
俺が一番年が近くて、カリナの変化に最初に気づいた」
シオンの声は平坦だった。感情を排しているのではなく、長い時間をかけて整理した話を、整理された状態で話している声だった。
「カリナが誰かを必要とするとき、俺を呼ぶようになったのはその頃からです。俺がいれば安心できると、そういう習慣がついてしまった。俺も断れなかった。断った夜に何があったか、一度経験してからは」
そこで言葉が止まった。エルミラは続きを求めなかった。言えない部分があることは、顔でわかった。
「今のカリナは、あの頃よりずっと状態が良い。ただ習慣だけが残っている。俺を呼ぶことが、カリナにとっての安全弁になっている」
「カリナ自身は、それを理解していますか」
「半分は。でも半分は、自分でも気づいていない」
エルミラは手の中で図鑑の角を感じた。三年間見ていた光景の意味が、少しずつ書き換えられていく感覚があった。
「なぜ今日、話してくださったのですか」
「昨夜、話すと約束したから」
「でも一ヶ月の猶予があります」
シオンが顔を上げた。
「あなたが楽しそうにしているところを、今日初めてちゃんと見た。図書室でアレクシスと話しているところを、廊下から少し見ていました」
エルミラは夫の顔を見た。
「盗み見たことは謝ります。ただあなたがあんな顔をするとは知らなかった。三年間、知らなかった」
「どんな顔をしていましたか」
シオンが少し言葉に詰まった。
「楽しそうな顔です。当たり前のことを言っていますが、俺が見たことのない顔だったので」
エルミラは自分の膝の上に目を落とした。図書室での一時間を思い返した。アレクシスと話しているとき、確かに顔の筋肉が自然に動いていた。作った笑顔ではなかった。
「それが俺の責任だということは、わかっています」
シオンが続けた。
「あなたが楽しそうにしている場所を、この三年間俺は一度も作れなかった。カリナのことも、あなたへの態度も、全部俺の問題です」
エルミラは顔を上げた。夫が自分を見ている。灰色がかった青い目が、昨夜より少しだけ、何かを諦めていない色をしていた。
「一ヶ月では足りないかもしれません」
シオンが言った。
「でも、やります」
何を、とは言わなかった。エルミラも聞かなかった。聞かなくても、輪郭だけはわかった気がした。
「わかりました」
エルミラは立ち上がった。図鑑を脇に抱えて、扉に向かった。昨夜と同じ動作で、昨夜と少しだけ違う気持ちで、扉の取っ手に手をかけた。
「エルミラさん」
「はい」
「水仙の系統に興味があるなら、東棟の古い温室に珍しい品種があります。誰も使っていないので、よければ」
エルミラは扉の前で止まった。
東棟の温室。三年間、存在を知らなかった場所だ。この家にまだ、エルミラが知らない場所がある。
「明日、見てもいいですか」
「鍵はハンスに預けてあります」
エルミラは扉を開けた。廊下に出て、扉を閉めてから、一度だけ深く息を吐いた。
一ヶ月で何かが変わるのか、まだわからない。でも今夜、三年間で初めて、夫の輪郭が少しだけ見えた気がした。
自室に戻る途中、東棟の方向を確認した。明日の朝、ハンスに鍵を借りよう。その小さな予定が、今夜のエルミラの胸の中で一番新しいものだった。
公爵家の庭は広い。手入れの行き届いた芝生が奥まで続いて、季節ごとに植え替えられる花壇が左右に並んでいる。その端、石壁に近い日当たりの悪い一角に、白い花が群れて咲いていた。
スノードロップ。
エルミラはしゃがんで、細い茎の根元を確かめた。球根から育てたものだ。種から育てるより手間がかかる。誰かが秋のうちに植えていなければ、今頃この場所に花はなかった。
「奥様、朝から庭に出られるとは珍しい」
背後からハンスの声がした。振り返ると、執事が盆を持って立っていた。温かい飲み物を持ってきたらしい。
「この花、いつから咲いているか知っている?」
「スノードロップでございますか。今年で三年目になります」
エルミラは花から顔を上げた。
「三年目」
「左様でございます。毎年この時期に咲きます」
三年。エルミラが嫁いできた年から、この花はここに咲いている。エルミラが気づいたのは三日前で、それまでの三年間、この場所に来たことがなかった。
「誰が植えたの」
ハンスが少し間を置いた。その間が、答えを持っているときの間だとエルミラは知っていた。
「存じません」
嘘だった。この執事が公爵家のことを「存じません」と言うとき、大抵は知っている。エルミラはそれ以上聞かなかった。聞いても教えないと判断したからではなく、聞かなくてもわかり始めていたからだ。
差し出された温かいカップを受け取った。ハーブティーだった。エルミラが朝に好む種類だ。頼んだ覚えはない。
「ハンス」
「はい」
「シオン様の朝食の好みを教えてもらえる」
ハンスが少し目を見開いた。三年間で初めての質問だと、その顔が語っていた。
「旦那様は卵料理をお好みです。スクランブルよりオムレツ。チーズは入れない方がよろしいかと。パンは薄めに焼いたものを好まれます。コーヒーはブラックで、ただし豆はキリマンジャロに限ります。他の豆は口をつけません」
よどみなく出てきた。ハンスがずっと持っていた情報が、初めて問われて溢れ出たように。
「ありがとう」
「もったいないお言葉でございます」
エルミラはカップを両手で持って、白い花を見下ろした。花言葉は希望。誰かが毎年、ここに希望を植えている。
その日の午後、エルミラは図書室に向かった。
公爵家の図書室は二階建て構造で、蔵書数は王立図書館に次ぐとも言われている。エルミラが離婚条項を調べるために入ったのが最初で、それ以来足を運ぶ回数が増えた。広くて、静かで、カリナの話題が届かない場所だという理由もあった。
植物に関する書籍が一角にまとめられている。エルミラはその棚の前に立って、背表紙を目で追った。王国植物図鑑、薬草の分類と効能、庭園設計の歴史。その並びに一冊だけ、背表紙の色が他と違う本があった。
引き抜くと、植物研究の論文集だった。王立植物研究所の紋章が表紙に入っている。
発行年は五年前。エルミラが知っている最新の研究よりは古いが、基礎的な分類体系が丁寧にまとめられている。
「それ、面白いですよ」
声がして、エルミラは顔を上げた。
棚の反対側から顔を覗かせたのは、見たことのない男性だった。三十前後、眼鏡をかけた、整った顔立ちの人物だ。公爵家の使用人ではない。服の質と仕立てを見れば、貴族か、それに準じる立場の者だとわかる。
「失礼、驚かせましたか。アレクシス・フォン・ヴァールといいます。昨日、イザベルの兄だと紹介しようとしていたのですが、タイミングを逃してしまって」
「エルミラ・アンドルです」
「存じています。シオン卿の奥様。今日は公爵閣下にお招きいただいて、こちらで資料を調べていました。王立植物研究所に勤めていて」
エルミラの手の中の論文集と、アレクシスを交互に見た。
「この論文集の発行元の」
「ええ、私が在籍しているのは分類学の部門ですが。奥様も植物がお好きで?」
「好きです」
「どの分野に興味が?」
エルミラは少し考えた。来客に対してこれほど素直に答えているのが珍しくて、自分でも少し驚いた。
「球根植物です。特に冬から春にかけて咲くもの。スノードロップやクロッカスの生育環境の違いに興味があって、独学で調べているのですが資料が限られていて」
アレクシスの目が変わった。礼儀的な関心から、本物の興味へと切り替わる瞬間が見えた。
「それは面白い着眼点だ。実は今年の研究課題がまさにそこで、スノードロップの低温耐性と開花時期の関係を調べているところです」
「クロッカスとの比較は」
「しています。奥様、少しよろしいですか。こちらに資料があって」
気づいたら一時間が経っていた。
アレクシスが持ち込んでいた資料の束の半分が、エルミラの前に広げられていた。数値のグラフ、観察記録、他国の研究機関との比較データ。エルミラは夢中になって読んでいた。
「奥様、これをご覧になって、どう思われますか」
アレクシスがグラフの一点を指した。エルミラはペンを借りて、余白に計算式を書いた。
「この数値が前年と比較して低いのは、その年の降水量が関係していませんか。土壌の水分量が球根の成長に」
「そうなんです! それを証明したくて今年の観測を続けているんですが」
二人の会話が重なった。図書室の静かさがちょうど良かった。エルミラは今自分が笑っているかどうか考えて、笑っていることに気づいた。作った笑顔ではなく、顔の筋肉が自然に動いている。
「奥様のような方が、なぜ公爵家に」
アレクシスが言いかけて止まった。
「失礼なことを言いかけました。忘れてください」
「いいえ、続けて」
「いや、本当に失礼で」
「構いません」
エルミラは正面からアレクシスを見た。この男性は悪意で言いかけたのではない。純粋な疑問が先に出ただけだ。
「なぜ公爵家にいるのか、ということなら縁があったからです。今のところは」
今のところは、という部分が口から出てから、少しだけ余分だったと思った。アレクシスはそれを聞いて、何かを察したような顔をしたが、深くは入ってこなかった。賢い人間だとエルミラは思った。
「もし今後、研究の資料で必要なものがあればお送りします。公爵家の図書室には珍しい文献もあるでしょうし、交換という形で」
「ぜひ」
答えてから、エルミラは少し考えた。
「王立植物研究所では、外部からの研究補助を受け入れていますか」
「研究補助、というのは」
「私のような、専門の教育を受けていない者でも、資料整理や観察記録の補助として関われるかという意味です」
アレクシスが少し驚いた顔をした。それから、真剣な顔になった。
「受け入れています。ただ奥様のような立場の方が希望されるのは珍しくて」
「将来的な話です。今すぐということではありません」
「わかりました。詳しくは改めてお伝えします」
エルミラは論文集を棚に戻した。一ヶ月後の話だ。離婚が成立すれば、エルミラはもう一度自分の人生を組み直す必要がある。その選択肢の一つが、今日少しだけ具体的になった。
夕方、シオンが予告なく帰宅した。
エルミラが図書室から自室に戻る途中、廊下でばったり出くわした。シオンも驚いた顔をした。お互いに驚いているのが少し滑稽だと、エルミラは思った。自分の家の廊下で、夫婦が鉢合わせて驚いている。
「今日はお早いですね」
「少し早く切り上げられたので」
それだけ言って、シオンの目がエルミラの手元に止まった。図書室から持ち出した植物図鑑を持っている。
「植物の本ですか」
「ええ」
「庭のスノードロップを調べていた」
断定だった。エルミラは少しだけ返答を考えた。
「そうです」
「他に興味のある植物は」
「クロッカスと、あとは水仙の系統を」
シオンが小さくうなずいた。何かを書き留めているような顔だった。メモは取っていない。でも確かに、この夫は何かを記録している。
「アレクシス・ヴァールが来ていましたか」
「図書室でお会いしました」
シオンの目が少し動いた。夜会でイザベルと話していたのを見ていて、今日は兄のアレクシスと図書室で話していた。シオンの中でそれがどう映っているのか、エルミラには読めなかった。
「どんな話を」
「植物の研究について。スノードロップの低温耐性と開花時期の関係が今年の研究課題だそうで、私も興味があったので」
「楽しそうでしたか」
エルミラは夫を見た。
「楽しかったです」
シオンが目を伏せた。廊下の燭台が二人の間に影を作っている。
「そうですか」
その二文字に、エルミラが三年間聞いたことのない何かが乗っていた。感情の名前をつけるなら、後悔に近い何かだとエルミラは思った。でも確信はなかった。
「夕食まで時間がありますが」
シオンが顔を上げた。
「書斎で少し、話をしてもいいですか」
昨夜と立場が逆だった。今度はシオンからの申し出だ。エルミラは図書室の方向と、自室の方向と、シオンの書斎の方向を頭の中で確認した。
「わかりました」
書斎に入るのが二度目になった。
昨夜と同じランプの位置、同じ積み方の書類。違うのは、今夜はエルミラが客用の椅子に座っていることと、シオンが机を挟んで向かいに座っていることだ。
「カリナのことを話します」
シオンが切り出した。前置きのない入り方だった。エルミラは姿勢を正した。
「カリナは十二歳のとき、病気をしました」
エルミラは黙って聞いた。カリナから聞いたことのない話だった。
「心の病です。今は正式な名前がついていますが、当時はそういう概念自体が貴族社会では認められていなかった。母上は認めなかった。父上も表立っては動けなかった。
俺が一番年が近くて、カリナの変化に最初に気づいた」
シオンの声は平坦だった。感情を排しているのではなく、長い時間をかけて整理した話を、整理された状態で話している声だった。
「カリナが誰かを必要とするとき、俺を呼ぶようになったのはその頃からです。俺がいれば安心できると、そういう習慣がついてしまった。俺も断れなかった。断った夜に何があったか、一度経験してからは」
そこで言葉が止まった。エルミラは続きを求めなかった。言えない部分があることは、顔でわかった。
「今のカリナは、あの頃よりずっと状態が良い。ただ習慣だけが残っている。俺を呼ぶことが、カリナにとっての安全弁になっている」
「カリナ自身は、それを理解していますか」
「半分は。でも半分は、自分でも気づいていない」
エルミラは手の中で図鑑の角を感じた。三年間見ていた光景の意味が、少しずつ書き換えられていく感覚があった。
「なぜ今日、話してくださったのですか」
「昨夜、話すと約束したから」
「でも一ヶ月の猶予があります」
シオンが顔を上げた。
「あなたが楽しそうにしているところを、今日初めてちゃんと見た。図書室でアレクシスと話しているところを、廊下から少し見ていました」
エルミラは夫の顔を見た。
「盗み見たことは謝ります。ただあなたがあんな顔をするとは知らなかった。三年間、知らなかった」
「どんな顔をしていましたか」
シオンが少し言葉に詰まった。
「楽しそうな顔です。当たり前のことを言っていますが、俺が見たことのない顔だったので」
エルミラは自分の膝の上に目を落とした。図書室での一時間を思い返した。アレクシスと話しているとき、確かに顔の筋肉が自然に動いていた。作った笑顔ではなかった。
「それが俺の責任だということは、わかっています」
シオンが続けた。
「あなたが楽しそうにしている場所を、この三年間俺は一度も作れなかった。カリナのことも、あなたへの態度も、全部俺の問題です」
エルミラは顔を上げた。夫が自分を見ている。灰色がかった青い目が、昨夜より少しだけ、何かを諦めていない色をしていた。
「一ヶ月では足りないかもしれません」
シオンが言った。
「でも、やります」
何を、とは言わなかった。エルミラも聞かなかった。聞かなくても、輪郭だけはわかった気がした。
「わかりました」
エルミラは立ち上がった。図鑑を脇に抱えて、扉に向かった。昨夜と同じ動作で、昨夜と少しだけ違う気持ちで、扉の取っ手に手をかけた。
「エルミラさん」
「はい」
「水仙の系統に興味があるなら、東棟の古い温室に珍しい品種があります。誰も使っていないので、よければ」
エルミラは扉の前で止まった。
東棟の温室。三年間、存在を知らなかった場所だ。この家にまだ、エルミラが知らない場所がある。
「明日、見てもいいですか」
「鍵はハンスに預けてあります」
エルミラは扉を開けた。廊下に出て、扉を閉めてから、一度だけ深く息を吐いた。
一ヶ月で何かが変わるのか、まだわからない。でも今夜、三年間で初めて、夫の輪郭が少しだけ見えた気がした。
自室に戻る途中、東棟の方向を確認した。明日の朝、ハンスに鍵を借りよう。その小さな予定が、今夜のエルミラの胸の中で一番新しいものだった。
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