「親友の兄と結婚したら、親友に夫を取られました。離婚します」

柴田はつみ

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第一章「笑顔の妻」 10


七日目の朝は、木曜日だった。

晩餐会の朝は、他の朝と空気が違う。厨房から早朝の仕込みの音が届いて、使用人の動線が普段より忙しくなる。エルミラはその気配で目が覚めた。三年間、この音で木曜日を認識してきた。

リナに頼んでおいた今週の献立の清書を受け取った。エルミラはもう一度目を通した。

公爵夫妻の好みが二品。シオンの好みが一品。カリナの好みが一品。残り二品は季節の食材を使った料理長の提案。

三年間と、配分が変わった。

三年間、献立の中心は常にカリナの好みだった。今週から変えた。誰かを傷つけるために変えたのではなく、正しい配分に戻したという感覚だった。この家の全員が、等しく食卓に存在している。そういう献立にした。

料理長のベルナールが清書を受け取ったとき、三年間で初めて見る表情をした。何も言わなかった。でもその顔が、全部語っていた。

午前中、図書室に向かうとイザベルがいた。

来訪の連絡はなかった。でもイザベルの顔を見て、今日ここで会うことを、どこかで予感していた気がした。

「少しお時間をいただけますか」

「どうぞ」

二人で窓際に移動した。外の庭が見える場所だ。

「少し顔が変わりましたね、奥様」

「よく言われます、最近」

「一週間前とは目が違う。何かわかったのですか」

エルミラは答えを選んだ。

「はい少しわかってきました。全部ではありませんが」

イザベルがうなずいた。

「カリナと話せましたか」

「昨日も。書斎に行ってきたと言っていました」

イザベルの目が少し動いた。

「嬉しそうでしたか」

「満足している顔をしていました」

イザベルが窓の外を見た。その横顔に、安堵と、まだ解消されていない何かが混ざっている。

「奥様、カリナがなぜ書斎に通うのか。その理由も、おわかりですね」

「ええ」

「カリナは賢い子です。自分がずるいことも、わかっている。だから余計に苦しい。でもやめられない理由も、本物です」

エルミラは答えなかった。

「残りは、カリナ自身の口から聞いてあげてほしい。以前そう申し上げました。今もそう思っています」

「急がなくていいと思っています」

イザベルが立ち上がった。扉に向かいかけて、一度だけ振り返った。

「奥様、カリナが書斎に通うほどシオンの目は、どこを向いていますか」

エルミラは少し考えた。

「私の方を向いています。最近は」

イザベルが小さくうなずいた。

「そうでしょう。それがカリナには一番苦しい」

「わかっています」

「わかった上で、どうするかは奥様が決めることです」

イザベルが会釈して、図書室を出ていった。

エルミラはしばらく、窓の外の庭を見ていた。

カリナが書斎に通うほど、シオンの目はエルミラを向く。カリナはそれを知りながら、やめられない。エルミラはそれを知りながら、何も言わない。シオンはその構図を、どこまで見えているのか。

誰も悪くない。全員が誰かを想っている。だから全員が苦しい。

昼過ぎ、カリナが来なかった。

珍しいことだった。カリナはほぼ毎日顔を出す。でも今日は来なかった。ハンスに聞くと、書斎にいると言った。今日で二日連続だった。

エルミラは温室で過ごした。

球根の鉢を確認して、観察記録をつけて、アレクシスから借りた報告書を読んだ。一人の時間は静かで、頭が整理される。

ふと気づくと、シオンへの怒りが来ていないことに気づいた。

カリナが書斎にいる。シオンはそれを知っている。でもエルミラには怒りがなかった。悲しみもなかった。ただ、静かな観察だけがあった。

私は今、この状況をどう見ているのだろう。

その問いを持ったまま、温室を出た。

晩餐会は七時から始まった。

全員が席についた。公爵が一番最初に料理に目をやる習慣がある。今夜も同じようにテーブルを見渡した。

カリナが固まったのは、エルミラの隣にいたから見えた。テーブルを一度見て、自分の好みのものを数えた。一品しかないとわかった瞬間、カリナの表情が一度だけ動いた。驚きとも、覚悟ともとれる動き方だった。

エルミラは前を向いたまま、ワイングラスに手を伸ばした。

「今夜はいつもと違うな」

公爵が言った。料理に手をつける前に、テーブル全体を見てから言った。

「少し配分を変えました」

「そうか」

それだけだった。公爵が料理を一口食べた。眉の力がわずかに抜けた。

「美味いな」

公爵がそう言うのを、エルミラは三年間で数えるほどしか聞いたことがなかった。レオナルドが「父上が美味いって珍しい」と言った。公爵夫人が窘めた。テーブルが少し和んだ。

食事が進む中で、シオンがエルミラに小声で言った。テーブルの会話に紛れて、エルミラにだけ届く声だった。

「今夜の献立、俺の好みが入っている」

「ええ」

「先週も入っていました」

「気づいていましたか」

「毎回、気づいています」

エルミラは前を向いたまま答えた。

「三年分、取り返しているだけです」

シオンが少し止まった。それからかすかに、口元が動いた。笑ったのかどうか判断できないほど小さな動きだったが、エルミラは見逃さなかった。三年間で一度も見たことのない、力の抜けた口元の動き方だった。

テーブルの向かいでカリナが黙って食事をしていた。いつもより口数が少なかった。エルミラの方を何度か見て、そのたびに視線を戻した。

公爵が言った。

「エルミラ、植物研究所との話はどうなった」

エルミラが顔を上げた。この三年間で、公爵からエルミラに直接話しかけてきたのは、数えるほどしかない。

「書類をいただきました。外部協力者の登録制度があるそうで」

「手続きは」

「当主の許可が必要とのことで、まだ」

公爵が少し考えた。テーブルが静かになった。

「持ってきなさい。署名する」

公爵夫人が「あなた」と声を上げた。公爵は構わず続けた。

「当主の許可が必要なら、俺が出す。それだけのことだ」

エルミラはテーブルの向かいを見た。シオンがエルミラを見ていた。驚いている顔ではなかった。何かを確かめているような顔で、その目の奥に昨夜と同じ色がある。

「ありがとうございます」

エルミラは公爵に向けて言った。

一ヶ月後に離婚が成立したとしても、この許可は残る。アンドル公爵の署名として。エルミラがこの家で初めて、自分だけのものとして得たものだった。

食事が終わって、各自が席を立ち始めた。

エルミラが立ち上がったところで、カリナが隣に来た。他の家族が食堂を出ていく流れの中で、二人だけが少し遅れた。

「エルミラ」

「なに」

「今夜の献立」

「来週も変えますよ」

カリナが止まった。

「怒ってる?」

「怒っていません」

「本当に?」

エルミラはカリナを見た。真っすぐに。

カリナの目が揺れていた。何かを聞きたくて、聞けないでいる目だった。言葉の準備ができていない。でも気持ちは来ている。そういう目の揺れ方だった。

「カリナ」

「うん」

「話せるようになったら、いつでも来てください。私はここにいます」

カリナの唇が少し動いた。言葉にならなかった。その代わりに、目の揺れが止まった。止まって、何かが決まった顔になった。

小さくうなずいて、カリナが先に食堂を出た。

エルミラはその背中を見送った。

食堂を出たところで、シオンが廊下に立っていた。

「少し、時間がありますか」

「あります」

「庭を、歩いてもいいですか」

夜の庭に二人で出ることは今まで一度もなかった。エルミラが上着を取りに戻ろうとすると、シオンが先に自分のジャケットを脱いで差し出した。

「寒いので」

エルミラは一瞬止まってから、受け取った。シオンの上着は体温が残っていて、裏地が思ったより柔らかかった。

庭に出ると、夜気が頬に当たった。月が出ていて、庭の輪郭がうっすら見える。スノードロップが群れて咲いている一角が、月光の中で白く光っていた。

二人で並んで歩いた。石畳の小道を、特に目的地もなく。

「父上が署名すると言ったのは、予想していませんでした」

シオンが言った。

「私もです」

「でも良かった。あなたにここでやりたいことができた方がいい」

エルミラはその言葉を持った。一ヶ月後のことを念頭に置いているのか、それとも置いていないのか。

「シオン様」

「はい」

「カリナが書斎に通っていることを、知っていますか」

「知っています」

「断らないのですか」

シオンが少し間を置いた。

「断れませんでした。昨日も今日も」

「なぜ」

「カリナが来るたびに、断ったら傷つけると思って。でも」

シオンが石畳の先を見た。

「断らないことで、誰かを傷つけているとも、わかっていました」

「誰かを、とは」

「あなたを、です」

エルミラは前を向いたまま、その言葉を受け取った。

シオンが自分の口で言った。断らないことで、エルミラを傷つけていたと。言い訳ではなく、事実として。

「今夜、カリナに何か言うつもりですか」

「言えません。まだ」

「なぜ」

「カリナに向き合うためには、まず——あなたに向き合わなければならない。その順番を、間違えたくない」

エルミラは歩きながら、その言葉の意味を測った。

私に向き合ってから、カリナに向き合う。シオンの中で、その順番が決まっている。

「残り二十三日です」

エルミラが言った。

「ええ」

「その間に、できますか」

「やります」

断言だった。できるかではなく、する、という答えだった。

二人でスノードロップの前まで来た。白い花が月光の中で揺れている。

「シオン様」

「はい」

「この花を、カリナが頼んでくれたと聞きました。私が来る前の秋に」

「そうです」

「カリナはどんな顔でお願いしてきましたか」

シオンが少し考えた。

「嬉しそうな顔でした。エルミラが来るから、エルミラが好きな花を植えてほしいと。カリナがあなたの話をするときは、いつもそういう顔をしていた」

エルミラは白い花を見た。

カリナが嬉しそうな顔で頼んだ花が、三年間ここに咲いている。好きな人のために、大切な親友を呼んだ。その行為の中にどれだけのものが込められていたか、今のエルミラには少しわかる気がした。

「おやすみなさい、シオン様」

エルミラが先に言った。

「おやすみなさい」

屋敷に戻って、廊下が二手に分かれる場所でシオンに上着を返した。シオンが受け取って、一度だけエルミラを見た。

それぞれの方向に歩いていった。

自室に戻って、エルミラは鏡の前に座った。リナが髪を解きながら、何も聞かなかった。

鏡の中の自分を見た。今夜は笑顔の名残がない。晩餐会の七日間で、笑顔を作る回数が減ってきていた。作らない笑い方が、少しずつ増えてきていた。

来週の木曜日の晩餐会まで、あと七日。

一ヶ月のうちの残りは、二十三日。

その二十三日で何が変わるのか。何が変わらないのか。

引き出しを開けた。法律書が入っていた。王国婚姻法、第三章、離婚条項。一ヶ月前に開いたページが、まだ開きやすくなっている。

手に取って、また引き出しに戻した。

今夜は開かなかった。

窓の外で、夜の庭が暗かった。スノードロップがそこに咲いているとわかっていても、今夜は見えない。見えなくても、在ることはわかっている。

一ヶ月のうちの、七日目が終わっ

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