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「研修へ行く日」 19
研修へ向かう朝、エルミラはいつもより早く目を覚ました。
窓の外はまだ薄明るく、庭の芝生には朝露が残っていた。屋敷の中は静かだったが、遠くの方で使用人たちが動き始める気配がある。今日は研究所の滞在研修へ出発する日だった。
十日間、王立植物研究所の宿舎で過ごす。
その間、エルミラはレーヴェン家の奥様ではなく、外部協力員候補として扱われる。研究所の規定に従い、決められた日程で講義を受け、北方薬草の管理を学び、記録を提出する。
それは、エルミラが望んだ道だった。
けれど今朝、支度をしながら胸の奥にあったのは、喜びだけではなかった。
机の上には、荷造りを終えた小さな鞄がある。研究ノート、筆記具、温室の記録の写し、カリナが作ってくれた棚札の見本、そしてシオンが描いた温室改修図の控え。
離婚するために荷物をまとめるのとは、少し違う。
けれど、屋敷を出る準備であることに変わりはなかった。
リナが部屋に入ってきて、丁寧に頭を下げた。
「奥様、お支度を始めてもよろしいでしょうか」
「お願いします」
今日のドレスは、淡い灰青色の外出着にした。研究所で動きやすいように裾は広がりすぎず、袖も邪魔にならない形を選んでいる。髪もきつく飾らず、低い位置でまとめた。
鏡の中の自分は、三年前にこの屋敷へ嫁いできた日の自分とは違って見えた。
あの日のエルミラは、親友の兄と結婚することに少しだけ希望を抱いていた。夫婦として大切にされる未来を、どこかで信じていた。
その希望は三年の間に少しずつ削られ、離婚を決める頃には、もう自分の中に残っていないと思っていた。
けれど今は、また別のものが胸にある。
研究者として外へ出る期待。
この屋敷に戻るかもしれない迷い。
シオンが変わろうとしていることへの戸惑い。
カリナと親友に戻れるかもしれない、かすかな願い。
その全部が重なって、簡単に名前をつけられない感情になっていた。
「奥様」
リナが鏡越しに声をかけた。
「旦那様が玄関広間でお待ちです」
「もう?」
「はい。今朝は馬車の確認を五度、護衛への説明を三度、荷物の位置確認を四度なさっていました」
エルミラは思わずリナを見た。
「昨日より増えていますね」
「はい。ですが、奥様に同行したいとは一度もおっしゃいませんでした」
リナの声は、少しだけやわらかかった。
エルミラは鏡の中の自分へ視線を戻した。
シオンは約束を守っている。
止めたいはずなのに、止めない。
同行したいはずなのに、屋敷で待つ。
そのことが、エルミラの胸を静かに揺らした。
玄関広間へ向かう途中、エルミラは温室の方角へ目を向けた。
この半月で、温室は少し変わった。
低温区画の準備はまだ完全ではないが、水場の確認は終わり、棚の一部は高さが調整され、記録机の周りには新しい資料棚が置かれている。カリナが作った棚札は思ったより見やすく、リナが選んだ布は標本を包むのにちょうどよかった。
シオンは毎朝温室に来た。
仕事の前に図面を見直し、管理人と話し、庭師に確認し、エルミラの意見を聞いた。
最初は焦りが強かった。
エルミラを引き止めたいという気持ちが、どの言葉にもにじんでいた。
けれど日を重ねるうちに、シオンは少しずつ変わった。自分の不安を押しつけるのではなく、エルミラが使いやすい場所にすることを先に考えるようになった。
その変化を、エルミラは見ていた。
見ないふりは、もうできなかった。
玄関広間には、シオンとカリナが並んで立っていた。
シオンは濃紺の上着を着ていたが、今日は外へ出る装いではなかった。屋敷に残るための服装だ。顔は整っているのに、目元だけが少し疲れている。
カリナは白に近い薄桃色のドレスを着ていた。手には小さな包みを持っている。おそらく、昨日から何度も焼き直していた果実の菓子だ。
「おはようございます」
エルミラが声をかけると、シオンはすぐに顔を上げた。
「おはようございます、エルミラさん」
カリナも一歩前に出た。
「おはよう、エルミラ。今日のドレス、すごく似合ってる」
「ありがとうございます」
「研究所の人たち、きっとエルミラのことをちゃんと見るよ。奥様としてじゃなくて、研究者として」
カリナはそう言ってから、少し照れたように包みを差し出した。
「これ、持っていって。甘すぎない果実の焼き菓子。何度も作ったから、昨日よりはおいしいと思う」
エルミラは包みを受け取った。
布越しに、まだほんの少し温かさが残っている。
「ありがとうございます。研究所でいただきます」
「無理に褒めなくていいからね。おいしくなかったら、帰ってきてから言って。直すから」
「では、きちんと感想を伝えます」
カリナは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、エルミラは胸の奥が少し痛くなった。
この半月、カリナも変わった。
まだ時々、シオンの方へ手を伸ばしかけることはあった。けれど、そのたびに自分で止めた。苦しそうな顔をする日もあったが、シオンにすがるのではなく、エルミラに正直に言葉を向けるようになった。
「今日は寂しい」と言った日もある。
「エルミラが研究所へ行くの、まだ少し嫌」と言った日もある。
でも、行かないでとは言わなかった。
その我慢が、カリナにとってどれだけ大きいものか、エルミラにはわかっていた。
シオンが一歩前に出た。
「荷物は馬車に積ませました。研究所までの護衛は一人だけです。約束通り、研究所の中までは入りません」
「ありがとうございます」
「御者には、無理に急がないよう伝えています。道中で気分が悪くなったら、すぐ休ませてください」
「はい」
「研究所に着いたら、受付で所長宛ての書状を渡せばいいはずです。アレクシス・ヴァールが迎えに出ると聞いていますが、万一いなければ——」
「シオン様」
エルミラが呼ぶと、シオンは言葉を止めた。
「大丈夫です」
シオンは少しだけ困った顔をした。
「わかっています。ただ、言っておかないと落ち着かなくて」
「心配してくださっているのですね」
「はい」
以前なら、シオンの心配はエルミラに届かなかった。
カリナを優先し、エルミラを後回しにし、それでも何も言わないまま過ぎていった。
けれど今のシオンは違う。
心配だと言う。
不安だと言う。
引き止めたいけれど、止めないと言う。
その変化が嬉しいと思う自分を、エルミラはもう否定できなかった。
「シオン様」
「はい」
「温室をお願いします」
シオンの表情が変わった。
「はい。必ず整えておきます」
「無理な工事はしないでください」
「約束します」
「カリナの意見も聞いてください」
「ええ」
「それから、私が戻ったら、記録机の位置を一緒に確認してください」
シオンは一瞬だけ息を止めた。
戻ったら。
エルミラがその言葉を口にしたことに、気づいたのだろう。
カリナも同じように顔を上げた。
エルミラは自分でも、胸が少し熱くなった。
「研修が終わったら、一度戻ります」
シオンはゆっくり頷いた。
「待っています」
カリナが両手で口元を押さえた。
「泣きそう」
「カリナ」
「泣かない。今日は泣かないって決めたから」
カリナは上を向いて、息を整えてからエルミラを見た。
「行ってらっしゃい、エルミラ」
その声は震えていた。
けれど、しっかり届いた。
エルミラはカリナの手を取った。
「行ってきます」
「帰ってきたら、お菓子用意しておくね」
「楽しみにしています」
「絶対だよ」
「はい」
シオンが玄関扉の前で、静かに言った。
「行ってらっしゃい、エルミラさん」
エルミラは彼を見た。
「行ってきます、シオン様」
シオンは手を伸ばしかけて、止めた。
抱きしめたいと思ったのかもしれない。
手を握りたいと思ったのかもしれない。
けれど、今この場でそれをするのが正しいか迷ったのだろう。
エルミラは少し考えてから、自分の方から右手を差し出した。
シオンは驚いた顔をした。
「エルミラさん」
「握手です。研修へ行く前の」
「はい」
シオンはエルミラの手を取った。
その手は温かく、少しだけ力が入っていた。
「どうか、無理をしないでください」
「シオン様も」
「俺が?」
「はい。待つことも、無理をしすぎないでください」
シオンは少しだけ苦笑した。
「難しい注文ですね」
「では、努力してください」
「努力します」
エルミラは手を離した。
そして馬車へ向かった。
御者が扉を開け、エルミラは乗り込んだ。窓の外には、シオンとカリナが並んで立っている。
カリナは手を振っていた。
シオンは手を振らなかった。
けれど、馬車が動き出しても、ずっとエルミラを見ていた。
屋敷の門を出る時、エルミラは窓からレーヴェン家を振り返った。
三年間、出ていきたいと思っていた場所だった。
妻としての居場所がなく、親友に夫を取られたような痛みを抱え、温室だけを自分の場所にしてきた屋敷だった。
それなのに今、遠ざかっていく屋敷を見て、胸が少し寂しくなった。
あの家には、エルミラを待つと言った夫がいる。
帰ってきたら菓子を用意すると言った親友がいる。
まだ許したわけではない。
まだ離婚の答えを変えたわけでもない。
それでも、あの家がただの苦しい場所ではなくなっていることを、エルミラは認めるしかなかった。
馬車は王都へ向かって進んだ。
研究所へ着く頃には、空はすっかり明るくなっていた。
王立植物研究所の白い門の前には、アレクシスが待っていた。
深緑の上着を着て、いつものように落ち着いた姿で立っている。エルミラが馬車から降りると、彼は丁寧に礼をした。
「お待ちしておりました、エルミラ様」
「おはようございます、アレクシス様」
アレクシスはエルミラの後ろを見た。
「今日は本当にお一人で来られたのですね」
「はい。護衛は門の外までです」
「シオン卿は、よく送り出しましたね」
「待っているとおっしゃいました」
アレクシスの表情が少し変わった。
「それは、かなり大きな一歩です」
「私もそう思います」
「寂しいですか」
エルミラはすぐには答えなかった。
アレクシスは待っていた。
からかうような笑みではない。研究者として、そしてエルミラの味方として、答えを待っている顔だった。
エルミラはゆっくり言った。
「少し」
「では、良い出発ですね」
「良い出発?」
「離れることを少し寂しいと思える場所なら、戻るかどうかを自分で選べます。逃げるためだけの出発ではないということです」
エルミラはその言葉を胸に受け止めた。
以前の自分なら、この屋敷から出ることだけを考えていた。
けれど今は違う。
研究所へ行きたい。
自分の道を進みたい。
そして、十日後に屋敷へ戻って、変わったシオンとカリナをもう一度見たい。
その全部が、エルミラの本心だった。
「参りましょう」
アレクシスが言った。
エルミラは頷き、研究所の門をくぐった。
今日から十日間、ここで過ごす。
所長に挨拶し、宿舎へ案内され、研修の日程表を受け取った。
初日は説明と温室見学、二日目から北方薬草の管理実習、三日目には記録提出の方法を学ぶ予定になっている。思った以上に詰まった内容だったが、エルミラは不安よりも期待の方が大きいと感じた。
宿舎の部屋は簡素だった。
小さな寝台、机、椅子、衣装箱。窓の外には研究所の温室棟が見える。レーヴェン家の部屋とは比べものにならないほど質素だが、必要なものは揃っていた。
荷物を置き、机の上に研究ノートを並べる。
その横に、カリナの焼き菓子の包みを置いた。
さらに、温室改修図の控えも置いた。
研究所の部屋なのに、屋敷の温室のことを思い出す。
そのことに、エルミラは少しだけ笑った。
夕方、初日の研修を終えたエルミラは、宿舎の机に向かった。
まだ手紙を書くには早いかもしれない。
けれど、今日のうちに伝えたいことがあった。
まずカリナへ。
『無事に着きました。焼き菓子は甘すぎず、とても食べやすかったです。帰ったら、また作ってください。研究所の温室は広く、北方薬草の区画は想像以上に温度管理が細かいです。棚札の作り方も参考になりそうなので、戻ったら一緒に見直しましょう』
書きながら、カリナが喜ぶ顔が浮かんだ。
次に、シオンへ。
少し迷ってから、エルミラは筆を取った。
『無事に研究所へ着きました。初日は日程説明と温室見学でした。北方薬草の低温区画は、屋敷の温室改修にも参考になりそうです。戻ったら、記録机の位置と棚の高さを一緒に確認したいです。馬車の手配、ありがとうございました』
そこまで書いて、エルミラは手を止めた。
少しだけ考え、最後に一文を足した。
『待っていると言ってくださったことが、今日は心強かったです』
書いた後、胸が少し熱くなった。
今の一文は、書かなくてもよかった。
けれど、書きたかった。
エルミラは手紙を封筒に入れ、宿舎の受付へ預けた。
夜になり、部屋へ戻ると、窓の外の温室に灯りがともっていた。
研究所の温室だ。
レーヴェン家の温室ではない。
それでも、ガラス越しの灯りを見ていると、少しだけ屋敷の温室を思い出した。
シオンは今ごろ、温室の図面を見ているだろうか。
カリナは焼き菓子の次の試作をしているだろうか。
エルミラは寝台の端に腰を下ろし、今日の記録を開いた。
研修一日目。
研究所へ到着。
北方薬草区画を見学。
低温管理の方法について説明を受ける。
そして最後に、少し迷ってから書き足した。
レーヴェン家を離れる時、寂しいと思った。
その一文を見つめ、エルミラは深く息を吐いた。
離婚まで、残り十四日。
研修は始まった。
エルミラは研究所で新しい道を歩き出した。
けれど今日、遠ざかる屋敷を見ながら思ったことも、もうなかったことにはできなかった。
窓の外はまだ薄明るく、庭の芝生には朝露が残っていた。屋敷の中は静かだったが、遠くの方で使用人たちが動き始める気配がある。今日は研究所の滞在研修へ出発する日だった。
十日間、王立植物研究所の宿舎で過ごす。
その間、エルミラはレーヴェン家の奥様ではなく、外部協力員候補として扱われる。研究所の規定に従い、決められた日程で講義を受け、北方薬草の管理を学び、記録を提出する。
それは、エルミラが望んだ道だった。
けれど今朝、支度をしながら胸の奥にあったのは、喜びだけではなかった。
机の上には、荷造りを終えた小さな鞄がある。研究ノート、筆記具、温室の記録の写し、カリナが作ってくれた棚札の見本、そしてシオンが描いた温室改修図の控え。
離婚するために荷物をまとめるのとは、少し違う。
けれど、屋敷を出る準備であることに変わりはなかった。
リナが部屋に入ってきて、丁寧に頭を下げた。
「奥様、お支度を始めてもよろしいでしょうか」
「お願いします」
今日のドレスは、淡い灰青色の外出着にした。研究所で動きやすいように裾は広がりすぎず、袖も邪魔にならない形を選んでいる。髪もきつく飾らず、低い位置でまとめた。
鏡の中の自分は、三年前にこの屋敷へ嫁いできた日の自分とは違って見えた。
あの日のエルミラは、親友の兄と結婚することに少しだけ希望を抱いていた。夫婦として大切にされる未来を、どこかで信じていた。
その希望は三年の間に少しずつ削られ、離婚を決める頃には、もう自分の中に残っていないと思っていた。
けれど今は、また別のものが胸にある。
研究者として外へ出る期待。
この屋敷に戻るかもしれない迷い。
シオンが変わろうとしていることへの戸惑い。
カリナと親友に戻れるかもしれない、かすかな願い。
その全部が重なって、簡単に名前をつけられない感情になっていた。
「奥様」
リナが鏡越しに声をかけた。
「旦那様が玄関広間でお待ちです」
「もう?」
「はい。今朝は馬車の確認を五度、護衛への説明を三度、荷物の位置確認を四度なさっていました」
エルミラは思わずリナを見た。
「昨日より増えていますね」
「はい。ですが、奥様に同行したいとは一度もおっしゃいませんでした」
リナの声は、少しだけやわらかかった。
エルミラは鏡の中の自分へ視線を戻した。
シオンは約束を守っている。
止めたいはずなのに、止めない。
同行したいはずなのに、屋敷で待つ。
そのことが、エルミラの胸を静かに揺らした。
玄関広間へ向かう途中、エルミラは温室の方角へ目を向けた。
この半月で、温室は少し変わった。
低温区画の準備はまだ完全ではないが、水場の確認は終わり、棚の一部は高さが調整され、記録机の周りには新しい資料棚が置かれている。カリナが作った棚札は思ったより見やすく、リナが選んだ布は標本を包むのにちょうどよかった。
シオンは毎朝温室に来た。
仕事の前に図面を見直し、管理人と話し、庭師に確認し、エルミラの意見を聞いた。
最初は焦りが強かった。
エルミラを引き止めたいという気持ちが、どの言葉にもにじんでいた。
けれど日を重ねるうちに、シオンは少しずつ変わった。自分の不安を押しつけるのではなく、エルミラが使いやすい場所にすることを先に考えるようになった。
その変化を、エルミラは見ていた。
見ないふりは、もうできなかった。
玄関広間には、シオンとカリナが並んで立っていた。
シオンは濃紺の上着を着ていたが、今日は外へ出る装いではなかった。屋敷に残るための服装だ。顔は整っているのに、目元だけが少し疲れている。
カリナは白に近い薄桃色のドレスを着ていた。手には小さな包みを持っている。おそらく、昨日から何度も焼き直していた果実の菓子だ。
「おはようございます」
エルミラが声をかけると、シオンはすぐに顔を上げた。
「おはようございます、エルミラさん」
カリナも一歩前に出た。
「おはよう、エルミラ。今日のドレス、すごく似合ってる」
「ありがとうございます」
「研究所の人たち、きっとエルミラのことをちゃんと見るよ。奥様としてじゃなくて、研究者として」
カリナはそう言ってから、少し照れたように包みを差し出した。
「これ、持っていって。甘すぎない果実の焼き菓子。何度も作ったから、昨日よりはおいしいと思う」
エルミラは包みを受け取った。
布越しに、まだほんの少し温かさが残っている。
「ありがとうございます。研究所でいただきます」
「無理に褒めなくていいからね。おいしくなかったら、帰ってきてから言って。直すから」
「では、きちんと感想を伝えます」
カリナは嬉しそうに笑った。
その笑顔を見て、エルミラは胸の奥が少し痛くなった。
この半月、カリナも変わった。
まだ時々、シオンの方へ手を伸ばしかけることはあった。けれど、そのたびに自分で止めた。苦しそうな顔をする日もあったが、シオンにすがるのではなく、エルミラに正直に言葉を向けるようになった。
「今日は寂しい」と言った日もある。
「エルミラが研究所へ行くの、まだ少し嫌」と言った日もある。
でも、行かないでとは言わなかった。
その我慢が、カリナにとってどれだけ大きいものか、エルミラにはわかっていた。
シオンが一歩前に出た。
「荷物は馬車に積ませました。研究所までの護衛は一人だけです。約束通り、研究所の中までは入りません」
「ありがとうございます」
「御者には、無理に急がないよう伝えています。道中で気分が悪くなったら、すぐ休ませてください」
「はい」
「研究所に着いたら、受付で所長宛ての書状を渡せばいいはずです。アレクシス・ヴァールが迎えに出ると聞いていますが、万一いなければ——」
「シオン様」
エルミラが呼ぶと、シオンは言葉を止めた。
「大丈夫です」
シオンは少しだけ困った顔をした。
「わかっています。ただ、言っておかないと落ち着かなくて」
「心配してくださっているのですね」
「はい」
以前なら、シオンの心配はエルミラに届かなかった。
カリナを優先し、エルミラを後回しにし、それでも何も言わないまま過ぎていった。
けれど今のシオンは違う。
心配だと言う。
不安だと言う。
引き止めたいけれど、止めないと言う。
その変化が嬉しいと思う自分を、エルミラはもう否定できなかった。
「シオン様」
「はい」
「温室をお願いします」
シオンの表情が変わった。
「はい。必ず整えておきます」
「無理な工事はしないでください」
「約束します」
「カリナの意見も聞いてください」
「ええ」
「それから、私が戻ったら、記録机の位置を一緒に確認してください」
シオンは一瞬だけ息を止めた。
戻ったら。
エルミラがその言葉を口にしたことに、気づいたのだろう。
カリナも同じように顔を上げた。
エルミラは自分でも、胸が少し熱くなった。
「研修が終わったら、一度戻ります」
シオンはゆっくり頷いた。
「待っています」
カリナが両手で口元を押さえた。
「泣きそう」
「カリナ」
「泣かない。今日は泣かないって決めたから」
カリナは上を向いて、息を整えてからエルミラを見た。
「行ってらっしゃい、エルミラ」
その声は震えていた。
けれど、しっかり届いた。
エルミラはカリナの手を取った。
「行ってきます」
「帰ってきたら、お菓子用意しておくね」
「楽しみにしています」
「絶対だよ」
「はい」
シオンが玄関扉の前で、静かに言った。
「行ってらっしゃい、エルミラさん」
エルミラは彼を見た。
「行ってきます、シオン様」
シオンは手を伸ばしかけて、止めた。
抱きしめたいと思ったのかもしれない。
手を握りたいと思ったのかもしれない。
けれど、今この場でそれをするのが正しいか迷ったのだろう。
エルミラは少し考えてから、自分の方から右手を差し出した。
シオンは驚いた顔をした。
「エルミラさん」
「握手です。研修へ行く前の」
「はい」
シオンはエルミラの手を取った。
その手は温かく、少しだけ力が入っていた。
「どうか、無理をしないでください」
「シオン様も」
「俺が?」
「はい。待つことも、無理をしすぎないでください」
シオンは少しだけ苦笑した。
「難しい注文ですね」
「では、努力してください」
「努力します」
エルミラは手を離した。
そして馬車へ向かった。
御者が扉を開け、エルミラは乗り込んだ。窓の外には、シオンとカリナが並んで立っている。
カリナは手を振っていた。
シオンは手を振らなかった。
けれど、馬車が動き出しても、ずっとエルミラを見ていた。
屋敷の門を出る時、エルミラは窓からレーヴェン家を振り返った。
三年間、出ていきたいと思っていた場所だった。
妻としての居場所がなく、親友に夫を取られたような痛みを抱え、温室だけを自分の場所にしてきた屋敷だった。
それなのに今、遠ざかっていく屋敷を見て、胸が少し寂しくなった。
あの家には、エルミラを待つと言った夫がいる。
帰ってきたら菓子を用意すると言った親友がいる。
まだ許したわけではない。
まだ離婚の答えを変えたわけでもない。
それでも、あの家がただの苦しい場所ではなくなっていることを、エルミラは認めるしかなかった。
馬車は王都へ向かって進んだ。
研究所へ着く頃には、空はすっかり明るくなっていた。
王立植物研究所の白い門の前には、アレクシスが待っていた。
深緑の上着を着て、いつものように落ち着いた姿で立っている。エルミラが馬車から降りると、彼は丁寧に礼をした。
「お待ちしておりました、エルミラ様」
「おはようございます、アレクシス様」
アレクシスはエルミラの後ろを見た。
「今日は本当にお一人で来られたのですね」
「はい。護衛は門の外までです」
「シオン卿は、よく送り出しましたね」
「待っているとおっしゃいました」
アレクシスの表情が少し変わった。
「それは、かなり大きな一歩です」
「私もそう思います」
「寂しいですか」
エルミラはすぐには答えなかった。
アレクシスは待っていた。
からかうような笑みではない。研究者として、そしてエルミラの味方として、答えを待っている顔だった。
エルミラはゆっくり言った。
「少し」
「では、良い出発ですね」
「良い出発?」
「離れることを少し寂しいと思える場所なら、戻るかどうかを自分で選べます。逃げるためだけの出発ではないということです」
エルミラはその言葉を胸に受け止めた。
以前の自分なら、この屋敷から出ることだけを考えていた。
けれど今は違う。
研究所へ行きたい。
自分の道を進みたい。
そして、十日後に屋敷へ戻って、変わったシオンとカリナをもう一度見たい。
その全部が、エルミラの本心だった。
「参りましょう」
アレクシスが言った。
エルミラは頷き、研究所の門をくぐった。
今日から十日間、ここで過ごす。
所長に挨拶し、宿舎へ案内され、研修の日程表を受け取った。
初日は説明と温室見学、二日目から北方薬草の管理実習、三日目には記録提出の方法を学ぶ予定になっている。思った以上に詰まった内容だったが、エルミラは不安よりも期待の方が大きいと感じた。
宿舎の部屋は簡素だった。
小さな寝台、机、椅子、衣装箱。窓の外には研究所の温室棟が見える。レーヴェン家の部屋とは比べものにならないほど質素だが、必要なものは揃っていた。
荷物を置き、机の上に研究ノートを並べる。
その横に、カリナの焼き菓子の包みを置いた。
さらに、温室改修図の控えも置いた。
研究所の部屋なのに、屋敷の温室のことを思い出す。
そのことに、エルミラは少しだけ笑った。
夕方、初日の研修を終えたエルミラは、宿舎の机に向かった。
まだ手紙を書くには早いかもしれない。
けれど、今日のうちに伝えたいことがあった。
まずカリナへ。
『無事に着きました。焼き菓子は甘すぎず、とても食べやすかったです。帰ったら、また作ってください。研究所の温室は広く、北方薬草の区画は想像以上に温度管理が細かいです。棚札の作り方も参考になりそうなので、戻ったら一緒に見直しましょう』
書きながら、カリナが喜ぶ顔が浮かんだ。
次に、シオンへ。
少し迷ってから、エルミラは筆を取った。
『無事に研究所へ着きました。初日は日程説明と温室見学でした。北方薬草の低温区画は、屋敷の温室改修にも参考になりそうです。戻ったら、記録机の位置と棚の高さを一緒に確認したいです。馬車の手配、ありがとうございました』
そこまで書いて、エルミラは手を止めた。
少しだけ考え、最後に一文を足した。
『待っていると言ってくださったことが、今日は心強かったです』
書いた後、胸が少し熱くなった。
今の一文は、書かなくてもよかった。
けれど、書きたかった。
エルミラは手紙を封筒に入れ、宿舎の受付へ預けた。
夜になり、部屋へ戻ると、窓の外の温室に灯りがともっていた。
研究所の温室だ。
レーヴェン家の温室ではない。
それでも、ガラス越しの灯りを見ていると、少しだけ屋敷の温室を思い出した。
シオンは今ごろ、温室の図面を見ているだろうか。
カリナは焼き菓子の次の試作をしているだろうか。
エルミラは寝台の端に腰を下ろし、今日の記録を開いた。
研修一日目。
研究所へ到着。
北方薬草区画を見学。
低温管理の方法について説明を受ける。
そして最後に、少し迷ってから書き足した。
レーヴェン家を離れる時、寂しいと思った。
その一文を見つめ、エルミラは深く息を吐いた。
離婚まで、残り十四日。
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