「親友の兄と結婚したら、親友に夫を取られました。離婚します」

柴田はつみ

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離婚届を出さない日 最終章

十日間の研修を終えて、エルミラがレーヴェン家へ戻ったのは、夕方に近い時間だった。

馬車の窓から屋敷の門が見えたとき、エルミラは膝の上に置いた契約書の入った封筒をそっと押さえた。

王立植物研究所の外部協力員契約書。

署名すれば、エルミラは研究所と正式に繋がることになる。レーヴェン家の温室を使ってもいい。必要なら研究所の宿舎を使うこともできる。どちらを選んでも、研究は続けられる。

その自由を手にした上で、エルミラはこの屋敷へ戻ってきた。

離婚届は、まだ机の引き出しにある。

出そうと思えば、いつでも出せる。

けれど今、馬車の窓から見える屋敷は、十日前とは少し違って見えた。

三年間、妻としての居場所がなかった家。

温室だけが、自分の息をつける場所だった家。

けれど今は、帰りを待っている人がいる。

エルミラは、その事実をもう否定できなかった。

馬車が玄関前に止まると、扉の向こうに二人の姿が見えた。

シオンとカリナだった。

カリナは真っ先に駆け寄りそうになったが、途中で足を止めた。以前のようにシオンの袖を引くことも、シオンの前に出ることもしなかった。

彼女はエルミラが馬車から降りるのを待って、両手を胸の前で握った。

「おかえり、エルミラ」

声は少し震えていた。

けれど、明るくしようと無理をしているだけの声ではなかった。

エルミラはゆっくり頷いた。

「ただいま戻りました、カリナ」

その瞬間、カリナの目に涙が浮かんだ。

「泣かないって決めてたのに」

「泣いてもいいと思います」

「そう言われると、余計に泣きそうになる」

カリナは笑いながら涙を拭いた。

それから、小さな包みを差し出した。

「約束のお菓子。甘すぎない果実の焼き菓子。前より少し上手にできたと思う」

「ありがとうございます。後でいただきます」

「ちゃんと感想を聞かせてね。お世辞じゃなくて」

「はい」

カリナは嬉しそうに頷いた。

それから、少しだけ後ろに下がった。

シオンが前へ出る。

十日前と同じように整った姿だったが、以前よりずっと人間らしい疲れが顔に出ていた。寝不足なのか、目元に少し影がある。それでも背筋はまっすぐで、エルミラを正面から見ていた。

「おかえりなさい、エルミラさん」

「ただいま戻りました、シオン様」

「無事でよかった」

その一言だけだった。

けれど、シオンの声には十日分の感情が込められていた。

聞きたいことはたくさんあるはずだった。

研修はどうだったのか。

契約はどうなったのか。

研究所に残るつもりはあるのか。

離婚をどうするのか。

それでもシオンは、まず帰ってきたことを受け止める言葉だけを選んだ。

エルミラはその変化を見た。

そして、胸の奥が少し熱くなった。

「温室を見てもいいですか」

エルミラが尋ねると、シオンはすぐに頷いた。

「はい。まだ完成ではありませんが、最低限の整備は終わりました」

カリナが少し得意げに言った。

「棚札も作ったの。勝手に貼らないで待ってたよ」

「見せてください」

三人は温室へ向かった。

十日ぶりの温室は、エルミラが思っていた以上に変わっていた。

記録机は、以前と同じ窓際に置かれていた。けれど椅子は修理され、机の横には新しい資料棚が設けられている。標本を包む布は種類ごとに分けられ、カリナが作った棚札は小さな箱に並べられていた。

奥の区画には、低温管理のための仕切りが作られている。まだ研究所ほど本格的ではないが、試験栽培を始めるには十分な準備だった。

水場の近くには、新しい細い水路が引かれていた。床の一部はきれいに張り替えられている。

エルミラは温室の中をゆっくり歩いた。

「無理な工事はしていませんか」

「していません。あなたが確認してから進める部分は残しています」

シオンが答えた。

「記録机も動かさなかったのですね」

「カリナに止められました」

カリナがすぐに言う。

「だって、そこはエルミラの場所だから。勝手に変えたら駄目でしょう」

エルミラは机に手を置いた。

三年間、この机に向かって一人で記録をつけていた。

誰にも見せるつもりのなかった記録。

自分の価値を確かめるように続けてきた時間。

その場所を、今はシオンとカリナが守ろうとしてくれている。

嬉しい。

けれど、その嬉しさの奥に、まだ三年間の寂しさがある。

エルミラはその両方を感じながら、棚札の箱を手に取った。

「とても見やすいです」

カリナの顔が明るくなった。

「本当?」

「ええ。研究所の棚札に似ています。でも、こちらの方が少し柔らかい印象ですね」

「リナと相談したの。研究所みたいにきっちりしすぎると、この温室には合わないかなって」

「よく考えてくれたのですね」

カリナは嬉しそうに笑った。

その後、少しだけ表情を引き締めた。

「エルミラ」

「はい」

「私、ちゃんと謝りたい」

シオンがカリナを見た。

カリナは首を振った。

「お兄様は口を出さないで。これは私が言うことだから」

シオンは静かに頷いた。

カリナはエルミラの前に立った。

「私、エルミラの親友だったのに、お兄様を取っていたと思う」

その言葉に、温室の空気が変わった。

カリナは泣きそうだったが、言葉を止めなかった。

「最初は、そんなつもりじゃなかった。お兄様のそばにいるのが当たり前で、エルミラもわかってくれると思ってた。でも、本当はわかっていたの。お兄様が私を優先するたびに、エルミラが少し寂しそうにしていたこと」

エルミラは何も言わずに聞いた。

「それなのに、知らないふりをした。エルミラが妻として見られていないことに、安心した日もあった。親友なのに、ひどいことを思った」

カリナの声が震えた。

「ごめんなさい、エルミラ。私はあなたの親友なのに、あなたの居場所を狭くした」

エルミラの胸に痛みが戻った。

けれど、それは今までのように一人で抱える痛みではなかった。

カリナが自分の言葉で認めている。

それがわかったから、エルミラも逃げずに答えた。

「傷つきました」

カリナの目から涙が落ちた。

「うん」

「カリナのことを嫌いになりたくなかったから、ずっと自分に言い聞かせていました。カリナは悪くない。シオン様とは家族のようなものだ。私が気にしすぎているだけだと」

「うん」

「でも、苦しかったです」

カリナは何度も頷いた。

「ごめんなさい」

「謝罪は受け取ります」

カリナが顔を上げた。

エルミラは続けた。

「でも、すぐに元通りの親友に戻れるかは、まだわかりません」

「うん。それでいい」

カリナは涙を拭きながら言った。

「すぐ許してもらえるとは思っていない。けど、また親友になれるように、私もちゃんと変わる」

「はい」

「もう、お兄様の袖を引いてエルミラを一人にしない」

その言葉を、エルミラは静かに受け取った。

カリナは一歩下がった。

「私は先に戻るね。二人で話して」

「カリナ」

「大丈夫。今はお兄様の袖を引かなくても、自分の部屋まで戻れるから」

冗談めかした言い方だったが、その声には少し誇らしさがあった。

カリナは温室を出ていった。

扉が閉まると、温室にはエルミラとシオンだけが残った。

シオンはしばらくカリナが出ていった扉を見ていたが、やがてエルミラへ向き直った。

「カリナに言わせてしまいました」

「カリナが自分で言ったのだと思います」

「はい」

シオンは深く息を吐いた。

「次は、俺の番です」

エルミラは記録机の前に立ったまま、シオンを見た。

シオンはゆっくり頭を下げた。

「エルミラさん。俺は、あなたを妻として迎えたのに、妻として大切にしませんでした」

エルミラは何も挟まなかった。

「カリナが心配だったことは事実です。けれど、それを理由に、あなたを後回しにし続けた。あなたが何を好きで、何を望んで、何に傷ついているのかを知ろうとしなかった」

シオンの声は低く、でもはっきりしていた。

「あなたは三年間、この屋敷で待っていた。俺がカリナを見ている間、あなたはずっと一人で立っていた。研修の十日間、あなたがいないだけで俺は耐えられなくなりそうでした。それなのに、あなたには三年も同じ思いをさせた」

エルミラの目の奥が熱くなった。

シオンは顔を上げた。

「申し訳ありませんでした」

その謝罪は、今までで一番深かった。

言葉だけではない。

この十日間、エルミラがいない屋敷で過ごした時間が、シオンに何かを刻んだのだとわかった。

エルミラは静かに言った。

「シオン様」

「はい」

「私は、あなたに愛されていないのだと思っていました」

シオンの顔が痛みに歪んだ。

「はい」

「妻として必要とされていないのだと。カリナのそばにいるあなたを見るたびに、この家で私だけが余分なのだと思っていました」

「違います、と今さら言う資格はありません」

「ええ。今さら違うと言われても、三年間の私は救われません」

シオンは唇を引き結んだ。

エルミラは続けた。

「でも、今のあなたが変わろうとしていることは見ました。温室を整えてくれたことも、研究所へ送り出してくれたことも、カリナに向き合ったことも、全部見ています」

「はい」

「だから、今日は答えを出します」

シオンの体がわずかに強張った。

エルミラは机の上に、研究所の契約書を置いた。

「研究所の外部協力員契約です。私は署名します」

「はい」

シオンはすぐに頷いた。

「あなたの研究です。続けてください」

「この家の温室を使います」

シオンの目が大きく揺れた。

エルミラはまっすぐ続けた。

「ただし、私は研究所にも通います。必要なら宿舎も使います。妻だからといって、この温室だけに閉じこもるつもりはありません」

「もちろんです」

「私が研究所へ行く時、嫉妬しても構いません。でも邪魔はしないでください」

「努力します」

エルミラは少し眉を上げた。

シオンはすぐに言い直した。

「邪魔はしません」

「よろしいです」

シオンの表情に、少しだけ安堵が浮かんだ。

けれど、まだ一番大切なことは残っている。

エルミラは記録机の引き出しを開けた。

そこには、離婚届が入っていた。

シオンの視線が紙に止まった。

エルミラはそれを取り出し、机の上に置いた。

「これは、一ヶ月前に出すつもりだったものです」

「はい」

「研修へ行く前も、まだ出すつもりでした」

「はい」

「でも今は、出しません」

シオンが息を止めた。

エルミラは離婚届を見下ろしたまま言った。

「ただし、捨てません」

シオンはすぐには答えなかった。

エルミラは顔を上げた。

「私は、あなたを許したわけではありません」

「はい」

「三年間をなかったことにはできません」

「はい」

「今日から急に、仲の良い夫婦になれるとも思っていません」

「はい」

「それでも、離婚届は出しません。もう一度、夫婦を始めるかどうかを、あなたと見てみます」

シオンの目が赤くなった。

彼は深く頭を下げた。

「ありがとうございます」

「お礼ではなく、覚悟を見せてください」

「はい」

シオンは顔を上げた。

「今度こそ、あなたの夫になります。あなたを後回しにしない。あなたの研究を尊重する。カリナのことも、あなたのことも、言葉にして向き合います」

「言葉だけでは足りません」

「行動します」

「見ています」

「見ていてください」

エルミラは離婚届を畳み、封筒に戻した。

そして、机の引き出しにしまった。

鍵はかけなかった。

捨てたわけではない。

けれど、今日出す必要はもうなかった。

シオンはそれを見ていた。

「エルミラさん」

「はい」

「手を握ってもいいですか」

エルミラは少し考えた。

以前なら、シオンがそう尋ねることなどなかった。

許可を求める。

エルミラの気持ちを確認する。

その小さなことが、今は大切だった。

「少しだけなら」

シオンはゆっくり手を伸ばした。

エルミラの手を取る。

研修へ出発する朝の握手とは違った。

夫婦として、もう一度始めるための手だった。

「おかえりなさい、エルミラさん」

シオンが改めて言った。

エルミラは彼を見た。

「ただいま戻りました」

その返事をすると、胸の奥にあった緊張が少しほどけた。

温室の扉が控えめに開いた。

カリナが顔をのぞかせる。

「入ってもいい?」

シオンはエルミラを見た。

判断を任せる視線だった。

エルミラは頷いた。

「どうぞ」

カリナはそっと入ってきた。

そして、机の上に離婚届がないことに気づいたようだった。

「エルミラ」

「離婚届は、出さないことにしました」

カリナの顔がくしゃりと歪んだ。

「本当?」

「はい。ただし、許したわけではありません」

「うん」

「カリナとのことも、すぐに元通りにはなりません」

「うん。それでいい」

「でも、もう一度親友に戻れるかどうか、私も考えます」

カリナはとうとう泣いた。

けれど、シオンにすがらなかった。

エルミラの前に立って、自分で涙を拭いた。

「ありがとう、エルミラ」

「まだお礼を言うところではありません」

「それでも、ありがとう」

カリナはそう言って、箱を差し出した。

「焼き菓子、食べようと思って持ってきたの。甘すぎないやつ」

エルミラは思わず少し笑った。

「では、お茶にしましょう」

「温室で?」

「ええ。この記録机で」

シオンがすぐに言った。

「お茶を用意させます」

「シオン様」

「はい」

「座っていてください。今日はリナにお願いします」

シオンは一瞬驚いたが、すぐに頷いた。

「わかりました」

カリナが少し笑った。

「お兄様、今のはすぐ動こうとしたね」

「悪かった」

「悪くないけど、エルミラの言うことを聞いた方がいいよ」

「そうする」

三人で記録机のそばに座った。

リナが用意してくれたお茶と、カリナの焼き菓子が並ぶ。

焼き菓子は本当に甘すぎなかった。果実の酸味がほどよく残り、温かいお茶によく合った。

「おいしいです」

エルミラが言うと、カリナはぱっと顔を輝かせた。

「本当?」

「ええ。前よりずっと食べやすいです」

「よかった。次はもう少し香りを出してみる」

「楽しみにしています」

シオンはそのやり取りを見て、穏やかな顔をしていた。

そして、ふと机の上の研究ノートに視線を向けた。

「今日の記録をつけますか」

エルミラは頷いた。

「はい。研修から戻った日の記録をつけます」

「俺も手伝っていいですか」

「まずは観察からです」

「はい」

「カリナも、棚札の確認をお願いします」

「任せて」

エルミラは研究ノートを開いた。

日付を書き、温室の状態を書き、低温区画の準備状況を書いた。

そして少し迷ってから、最後に一行だけ書き足した。

『離婚届は、本日出さないことにした。研究は続ける。夫婦も、もう一度始める』

書いた後、エルミラはノートを閉じた。

シオンもカリナも、その一文を覗き込むことはしなかった。

それが嬉しかった。

エルミラの記録は、エルミラのものだ。

見せるかどうかは、自分で決める。

この家でも、それが尊重される。

そう思えた。

夜が近づき、温室のガラスに屋敷の灯りが映った。

以前なら、その灯りの中に自分の居場所を見つけられなかった。

けれど今は違う。

まだ完全ではない。

まだ痛みも残っている。

それでも、ここに立ってみようと思えた。

エルミラは研究所の契約書を手に取り、シオンに見せた。

「明日、署名します」

「はい」

「シオン様も、夫としてではなく、この温室の管理責任者として確認してください」

「承知しました」

「カリナも、棚札担当として見てください」

「えっ、私も?」

「ええ。大切な担当です」

カリナは涙の跡が残る顔で笑った。

「うん。ちゃんと見る」

三人の役割が、少しずつ変わっていく。

夫。

妻。

親友。

兄妹。

そのどれも、以前と同じではない。

けれど、以前よりずっと正直だった。

エルミラは温室の棚を見渡した。

研修前に整えられた場所。

十日間待っていた場所。

これから研究を続ける場所。

そして、自分が選んで戻ってきた場所。

離婚まで、残り四日だった。

けれど、エルミラはもうその日を終わりの日として待ってはいなかった。

一ヶ月の終わりに、離婚届は出さない。

その代わり、明日から新しい記録をつける。

研究者として。

妻として。

そして、自分の人生を自分で選ぶ一人の人間として。

エルミラは隣に立つシオンを見た。

「まずは、明日の朝の記録から始めましょう」

シオンは静かに頷いた。

「はい。あなたと一緒に」

カリナが少し泣き笑いの顔で言った。

「私も棚札、持ってくるね」

エルミラは頷いた。

「お願いします」

温室の中に、穏やかな空気が満ちていく。

それは、すべてが元通りになったという意味ではなかった。

むしろ、元には戻らない。

三年間をなかったことにはしない。

傷ついたことも、寂しかったことも、離婚を決めたことも、全部抱えたまま進む。

けれど今のエルミラは、それでいいと思った。

離婚届は、机の引き出しの中にある。

いつでも出せる。

それでも今日、エルミラは出さないことを選んだ。

この家を、もう一度だけ自分の場所にしてみるために。



ここまでお読みくださり、本当にありがとうございました。

この物語を最後まで見届けてくださった方、途中から追いかけてくださった方、更新のたびにページを開いてくださった方、そのすべての方に心から感謝しています。

最後までお付き合いくださり、本当にありがとうございました。


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