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第26章|独占欲が口に出る
しおりを挟む訓練場の空気は、血の匂いで一段冷えた。
乾いた砂に落ちた赤は、すぐに染み込んで消える。
まるで最初から、ここに命などなかったかのように。
でも、消えないものがある。
セシリアの胸の痛み。
そして、王太子レイヴンの瞳に沈んだ暗い炎。
アデルは片膝をついたまま、肩を押さえていた。
血は止まらない。
それでも彼はセシリアの方へ顔を向け、無理に笑おうとする。
「……大丈夫。掠っただけだ」
掠っただけ。
その言葉は、セシリアの恐怖を軽くするための嘘だ。
優しい嘘。
けれど血の色は嘘をつかない。
セシリアは唇を噛んだ。
震える指で、どうにか布を探す。
医官が来るまでの間、止血だけでも――
その瞬間、王太子の声が落ちた。
「――離れろ」
低い声。
氷のように冷たい声。
セシリアの手が止まった。
(……誰が?)
自分に?
アデルに?
両方に?
アデルが息を整え、顔を上げた。
「殿下、彼女は――」
「聞こえなかったか」
レイヴンの声が一段低くなる。
空気がぴんと張る。
近衛たちが息を殺す。訓練場の掛け声さえ止まっている。
レイヴンは一歩進んだ。
砂を踏む音が、やけに重い。
琥珀の瞳が、アデルの肩の血を見て、次にセシリアを見る。
その視線は冷たい。
でも冷たいだけじゃない。
――獣みたいな暗さ。
嫉妬の暗さ。
セシリアの胸がぎゅっと潰れた。
(……見て、いたんだ)
灯りの下の二人。
中庭の笑い。
噂。
そして今、この瞬間。
レイヴンは、アデルの手がセシリアの肩に置かれていることを見ている。
守る手。
でも彼にとっては、奪う手。
レイヴンは言った。
「その手を、どけろ」
命令。
王太子の命令。
アデルは躊躇った。
躊躇うのは反抗ではない。
セシリアを支えないと、彼女が倒れるかもしれないからだ。
「殿下。彼女は今――」
「……彼女に触れるな」
言葉が落ちた瞬間、空気が割れた。
――触れるな。
その言葉は、ただの命令ではない。
理性の形をした、独占欲だ。
セシリアの呼吸が止まった。
胸が痛い。
頭の奥が白くなる。
(……触れるな?)
触れないで欲しいのは、噂のため?
危険のため?
それとも――彼の感情のため?
アデルが声を低くした。
「殿下。私は護衛です。彼女を守るのが務め――」
「護衛なら、護衛らしく距離を取れ」
レイヴンの声が、怒りで震えていた。
怒りの理由が、事故だけではないのが分かってしまう。
事故なら、矢を放った者に向ければいい。
でも彼は今、アデルとセシリアに向けている。
セシリアの指先が、名札を握りしめた。
金属が掌に食い込む。
痛みが、現実に繋ぎ止める。
ガイルが一歩前に出ようとして、止まった。
止めるべきだ。
でも止めれば、王太子の“崩れ”が露呈する。
レイヴンがアデルを見下ろし、冷たく言う。
「退け。――俺が命じている」
アデルは歯を食いしばり、ゆっくり手を離した。
離した瞬間、セシリアの身体がふらりと揺れる。
セシリアは足を踏ん張った。
倒れない。
倒れたら、また“守られるだけの人”になる。
それに――
(……この人に、抱えられたくない)
王太子に抱えられたら、胸が壊れる。
思い出せないのに、思い出してしまいそうで怖い。
レイヴンの視線が、セシリアに落ちた。
「……お前もだ」
低い声。
「俺の言葉が分からないのか」
セシリアは唇を震わせた。
怒りたい。
でも怒れない。王太子だから。
そして何より、怒りの裏にある“何か”が見えてしまうから。
セシリアは息を吸い、声を絞り出した。
「……私は、物ではありません」
その言葉が、自分の口から出たことに驚いた。
訓練場の空気がさらに凍る。
騎士たちの視線が集まる。
近衛が息を呑む。
王太子に向かって、侍女が反論した。
それは不敬になり得る。
でもセシリアは、引けなかった。
胸が痛い。
痛すぎて、もう耐えられない。
「……“触れるな”なんて。誰に触れるかを、殿下が決めるのですか」
声が震える。
でも、逃げない。
涙が出そうになるのを堪えながら、セシリアは続けた。
「私は……私は、働いているだけです。危険なら、危険だと命じればいい。
でも……その言い方は」
“嫌われている”と思い込んだ心が、ここで叫ぶ。
「私を、ただの邪魔者みたいに扱う」
言ってしまった。
言ってしまった瞬間、喉が焼ける。
レイヴンの瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。
怒りではない。
痛みだ。
でも次の瞬間、彼はその揺れを叩き潰し、冷酷に言った。
「邪魔者だ」
セシリアの胸が、ずきんと痛む。
痛みが深すぎて、逆に涙が引っ込んだ。
(……やっぱり)
そう思い込もうとした瞬間、レイヴンの拳が僅かに震えた。
机もないのに、何かを押さえるように拳を握り潰す。
ガイルが小さく息を吐く。
“殿下が壊れる”のを見ている息。
レイヴンはアデルへ視線を戻し、さらに低い声で言った。
「……次に同じことをしたら、処分する」
それは護衛に対する命令。
でも本当は――
(私の前で、彼女に触れるな)
そう言っている。
セシリアは分かった。
理解してしまったのが怖い。
これは“守り”の言葉ではない。
“独占”の言葉だ。
そして、その独占は、愛の形をしている。
愛の記憶を失っているはずの自分の胸が、さらに痛んだ。
痛んで、息ができなくなる。
そこへ、医官の声が響いた。
「負傷者はどこです!」
医官ユーリが駆け込み、アデルの肩の血を見てすぐに膝をつく。
「矢が掠めています。止血を――」
騒然とする場が、ようやく動き始める。
訓練が止まり、近衛が周囲を押さえ、弓兵が青ざめて頭を下げる。
レイヴンは最後にセシリアを見た。
琥珀の瞳が暗い。
暗いのに、どこか壊れそうだ。
そして、聞こえないほど低い声で言った。
「……お前は、死ぬな」
命令の形。
でもそれは、祈りだった。
セシリアは返事ができなかった。
できるはずがない。
涙も出ない。
怒りも出ない。
ただ、胸の奥で“何か”が焼ける。
――忘れているはずの愛が、灰の中で火を持っている気がした。
セシリアは名札を握りしめたまま、ただ立ち尽くした。
王太子の独占欲が口に出た瞬間。
それは、次の罠を呼ぶ合図にもなってしまったことを――
誰もまだ気づいていなかった。
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