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第18章|沈黙の王宮、私の選択
リーシャは書状の件を確かめようとして国王の扉の前に立った。
けれど扉は開かず、答えは沈黙だけだった。
――そして翌朝、その沈黙は“日常”になっていた。
王宮の朝は、何事もなかった顔をして始まる。
鐘が鳴り、湯が運ばれ、衣が整えられ、髪が結われる。
けれど整えば整うほど、心の中の崩れは見えなくなる。見えない崩れほど怖い。
リーシャは鏡台の前で、白い手袋を嵌めた。
指先を揃える。揃えるほど落ち着く。落ち着くほど、何かが死んでいく。
「王妃陛下」
アグネスが低い声で言った。
「本日より、お食事はお部屋で――陛下のご意向です」
“ご意向”。
上品な言い方が、鋭い。
同じ席にすら座らせない。
言葉も、温度も、視線も、すべて“必要以上”は与えない。
リーシャは微笑を作った。
王妃の微笑。崩れたら終わる微笑。
「承知したわ」
返事が短いほど、心が冷たい音がする。
でも長く言えば、泣きそうになる。泣けば負ける。
食事は小さな盆で運ばれてきた。
湯気の立つスープ。温かなパン。整った銀のカトラリー。
温度はあるのに、部屋には自分の咀嚼音だけが残る。
(私は、何のためにここへ来たのだろう)
問いが喉元まで上がり、リーシャは息を止めた。
期待は毒。問いは期待を呼ぶ。
ここで問いを育てたら、また扉の前で死ぬ。
リーシャはスプーンを置き、窓の外を見た。
白薔薇が揺れている。
白い花は、いつだって美しい。美しいほど、嘘みたいだ。
午後、リーシャは決めた。
“必要最低限しか回廊を歩かない”
――そう命じられる前に、もう自分でやっていた。
回廊を歩けば、国王に出会ってしまう。出会えば目が合うかもしれない。
目が合えば、意味を探してしまう。意味を探せば、また殺される。
だから避ける。
避けることで生き延びる。
けれど、その「避ける」だけでは――もう息ができなかった。
息ができないのは、王宮が狭いからではない。
自分が“透明”になっていくからだ。
食事も別、言葉も別、扉も閉じ、回廊も避ける。
そうしていれば安全なはずなのに、心だけが削れていく。
(私は、消えていく)
その恐怖が、リーシャを立たせた。
扉が控えめに叩かれた。
「王妃陛下。王弟殿下がお越しでございます」
リーシャの胸が、すっと静まった。
――温度ではない。
危険ではある。噂になる。宰相が喜ぶ。国王が嫉妬する。
それでも。
“透明にされる”よりは、まだ生きている方を選びたい。
「通して」
アグネスが一瞬だけ眉を寄せた。止めたいのだろう。
けれど止めなかった。止めれば、王妃の選択を奪うことになるから。
アドリアンが入ってきた。
プラチナブロンドの髪が室内の光を拾い、軍服の濃紺が冬の冷えを切る。
彼は近づかない。触れない。距離を保ったまま、深く礼をした。
「王妃陛下。……ご無事で」
“ご無事で”。
たったそれだけで、胸の奥が少し痛い。
心配の言葉が、久しぶりに“言葉”として届くからだ。
リーシャは微笑を作った。
「ええ。大丈夫よ」
大丈夫。
この城で大丈夫と言うのは、祈りに近い。
アドリアンは声を落とした。
「本日、離宮の施しの倉へ視察が入ります。
宰相府が“監査”を強める気配です。……王妃陛下が一人で動けば、危険になる」
危険。
その二文字が、リーシャの胸の奥にあるものと一致した。
「だから――」
アドリアンが言いかけて、止める。
止めたのは礼儀ではない。
“兄の命令”が、彼の喉を塞ぐからだ。
リーシャは知っている。
国王は弟に言った。「近づくな」と。
それでもアドリアンは、遠回りで守ってくれた。
リーシャは、静かに言った。
「一緒に行くわ」
アグネスが息を呑んだ。
アドリアンの目もわずかに揺れた。
「王妃陛下――」
「噂になるのは分かっている」
リーシャは微笑のまま続けた。
「でも、私はもう“透明”になりたくない。
一人で動けば、罪を着せられる。
なら私は、証人のいる場所で動く」
証人。
王弟という“王家の盾”。
同時に、それは国王の嫉妬を燃やす火種でもある。
分かっている。分かっているのに、選ぶ。
リーシャは、もうひとつだけ言った。
「たとえ国王に言われても」
その言葉を口にした瞬間、胸が痛くなる。
反抗ではない。復讐でもない。
ただ――生きるためだ。
アドリアンは一拍置いて、深く礼をした。
「……承知しました。
私は王弟として、王妃陛下を“お守りする”のではなく――“同行する”だけです」
言葉を選ぶ。
噂に形を与えないための言葉。
リーシャは頷いた。
「それでいい」
出発の直前、アグネスが低く告げた。
「陛下のお耳に入れば……叱責がございます」
叱責。
嫉妬。
冷たい言葉。
全部、来る。
リーシャは白い手袋の指先を揃えた。
「叱責は、もう慣れたわ」
慣れてはいけないのに。
慣れたと言えるほど、ここで痛みに晒されてきた。
そして、もうひとつ。
「食事も、もうご一緒にはしない」
アグネスが目を見開く。
リーシャは微笑んだ。
微笑は鎧。鎧は決意を隠す布。
「同じ席に座る資格がないと言うなら、座らない。
座って期待する自分を、これ以上増やしたくないの」
言い切った瞬間、胸の奥が少しだけ楽になった。
楽になるのが、怖い。
でも楽にならないと、生きられない。
リーシャは扉へ向かった。
アドリアンが半歩後ろに付き、距離を守る。
その距離が、逆に“共に行動する”事実を強く見せる。
回廊の角を曲がると、冷たい視線が刺さった。
宰相派の視線。噂屋の気配。監視の影。
――燃える。
噂が燃える。
それでもリーシャは歩いた。
王妃の歩幅で。王妃の微笑で。
(私は、自分で守る)
国王が守ると言って沈黙するなら。
私は、沈黙に殺されない選択をする。
そしてその選択は、今日から確かに――
国王との距離を、決定的に変えることになる。
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