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第20章|遠回りの贈り物
王妃の私室に、湯気が立っていた。
湯気は柔らかいのに、部屋の静けさは硬い。音が少ないほど、胸の中の音だけが大きくなる。
食事は今日も一人だった。
盆に並ぶ皿は整っている。温度も、香りも、王妃にふさわしく整えられている。
――整っているのに、心は満たされない。
(国王と食事をしない)
自分で選んだ。
選んだはずなのに、口に入れたものが喉を通るたび、胸の奥が少しずつ痺れていく。
“同じ席に座らない”という選択は、孤独を増やす。
けれど孤独より怖いものがある。期待だ。
扉が控えめに叩かれた。
「王妃陛下。侍女長アグネスでございます」
「入りなさい」
アグネスが入ってくる。いつも通り厳しい顔。
ただ今日は、その厳しさの奥に緊張が混じっていた。
盆を抱えている。湯気の立つ椀、厚手の毛布、小さな瓶――そして、白い布で包まれた何か。
リーシャの胸が一度だけ跳ねた。
期待ではない。警戒だ。
贈り物は、この城では凶器になる。
「……それは?」
アグネスは声を落とす。
「薬湯でございます。喉と体を温めるもの。
毛布と、こちらは薬用の軟膏です。……香油ではありません」
わざわざ“香油ではない”と付け足す。
その必要があるほど、白薔薇の香がこの城を汚している。
リーシャは微笑を作り、淡々と問う。
「差し出しは」
アグネスは一拍置いた。
言葉を選ぶ間が、危険を含んでいる。
「……名はありません」
名がない。
名がない贈り物は、責任がない。
責任がないものは、噂の餌になる。
リーシャの喉がきゅっと縮む。
「……誰の配慮」
アグネスは視線を伏せたまま言った。
「王弟殿下のご意向です。
ただし直接お渡しできないため――護衛経由で」
護衛。
ロランの顔が浮かぶ。真っ直ぐな目。
アドリアンの言葉も浮かぶ。
“守るのではなく同行する”――それでも守りたいという矛盾。
リーシャは湯気を見つめた。
湯気は温かい。
温かいほど、胸が痛い。
「……飲め、ってことね」
自分の声が小さく聞こえる。
王妃の声ではなく、ただの女の声だ。
その声を出してしまったことが、恥ずかしい。
アグネスはすぐに硬い声へ戻した。
「飲んでください。体調を崩せば、王宮はそれを“弱さ”として扱います」
弱さ。
その単語が、刃みたいに刺さる。
弱い妃は捨てられる。冷たい妃はつまらない妃になる。
結局、どこにも救いはない。
リーシャは椀を受け取り、一口含んだ。
熱が喉を通り、胸の奥がわずかにほどける。
ほどけた瞬間、涙が近づく。
だからすぐ、微笑を作る。
「……ありがとう」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
アグネスにか。ロランにか。アドリアンにか。
あるいは、温度そのものにか。
アグネスは少しだけ目を伏せた。
「王妃陛下。……“名のない配慮”は、燃えます」
「分かっているわ」
リーシャは椀を机に置いた。
温かい湯気が、空へ溶けて消える。
消えるほど、胸が冷える。
(国王の温度は届かない)
届くのは、命令と沈黙。
届くのは、幼馴染へ向く声の温度だけ。
それでも今日、温度は来た。
弟の温度が。護衛の温度が。
遠回りの温度が。
そのことが、国王の嫉妬を燃やすと分かっている。
分かっているのに、拒めない。拒めば凍えるのは自分だ。
同じ頃、執務室。
国王レオニスは書類の束に印章を押していた。
押すたびに国が動く。国が動くたびに、人が黙る。
王は黙らせる立場にある。だから自分も黙る。
「陛下」
宰相グレゴールの穏やかな声が落ちた。
「王妃陛下の件で、ご報告が」
レオニスの指が止まる。
“王妃”の四文字だけで、胸の奥が疼く。
疼きを見せないために、声を短くする。
「……何だ」
宰相は微笑を崩さない。
「王弟殿下が、王妃へ薬湯と毛布を手配なさったようです」
一瞬、レオニスの視界が狭くなる。
薬湯。毛布。
温度のあるもの。
(弟が……?)
怒りが湧く。
いや、怒りの形をした“奪われる恐怖”が湧く。
自分は王妃に近づけない。近づけば弱点になる。
だから距離を取る。夜も行かない。言葉を削る。
守るための沈黙。
――なのに弟は、遠回りで温度を届ける。
その温度が、妃の心を救うかもしれない。
救われた妃が、弟の方を向くかもしれない。
そんな恐怖が、胸を焼く。
レオニスは声を低くした。
「……余計なことを」
宰相が頷く。
「ええ。殿下はお優しい。
ただ、その優しさは“絵”になります。
陛下の妃に、陛下の知らない温度が届く――それは噂の好物です」
噂。
またその言葉。
噂は王妃を殺し、王を縛る。
レオニスは拳を握り潰しそうになって、指を組み直した。
王が苛立ちを見せれば、それも噂になる。
「……アドリアンに、命令したはずだ」
宰相は穏やかに答えた。
「近づいてはおりません。
……ただ、温度だけは届いてしまう」
届いてしまう。
その言い方が残酷だった。
(俺の知らない温度)
レオニスは目を閉じた。
言葉にすれば、嫉妬になる。
嫉妬を口にすれば、王が人間になる。
人間になれば、宰相に負ける。
――でも胸は焼ける。
「……監視を強めろ」
口から出た命令は、守りの形をしている。
けれど本当は、自分の嫉妬を隠すための鎧だった。
宰相は深く礼をする。
その礼の奥に、“思い通り”の匂いがあるのを、レオニスは見ないふりをした。
夜。
リーシャは毛布を膝にかけ、薬湯の椀を見つめていた。
温度はある。
でもその温度は、王のものではない。
それが痛い。
それでも、ありがたい。
リーシャは目を閉じ、胸の内で静かに言った。
(私は、自分で守る)
守るための温度なら、受け取る。
たとえそれが、王の嫉妬を燃やすとしても。
燃えて困るのは王宮だ。凍えて死ぬのは自分だ。
扉の外で足音が止まった。
サシャの影。報告の影。
“王妃は名のない贈り物で温まった”
“王弟の配慮が届いた”
悪意の文章が、今夜も静かに作られていく
湯気は柔らかいのに、部屋の静けさは硬い。音が少ないほど、胸の中の音だけが大きくなる。
食事は今日も一人だった。
盆に並ぶ皿は整っている。温度も、香りも、王妃にふさわしく整えられている。
――整っているのに、心は満たされない。
(国王と食事をしない)
自分で選んだ。
選んだはずなのに、口に入れたものが喉を通るたび、胸の奥が少しずつ痺れていく。
“同じ席に座らない”という選択は、孤独を増やす。
けれど孤独より怖いものがある。期待だ。
扉が控えめに叩かれた。
「王妃陛下。侍女長アグネスでございます」
「入りなさい」
アグネスが入ってくる。いつも通り厳しい顔。
ただ今日は、その厳しさの奥に緊張が混じっていた。
盆を抱えている。湯気の立つ椀、厚手の毛布、小さな瓶――そして、白い布で包まれた何か。
リーシャの胸が一度だけ跳ねた。
期待ではない。警戒だ。
贈り物は、この城では凶器になる。
「……それは?」
アグネスは声を落とす。
「薬湯でございます。喉と体を温めるもの。
毛布と、こちらは薬用の軟膏です。……香油ではありません」
わざわざ“香油ではない”と付け足す。
その必要があるほど、白薔薇の香がこの城を汚している。
リーシャは微笑を作り、淡々と問う。
「差し出しは」
アグネスは一拍置いた。
言葉を選ぶ間が、危険を含んでいる。
「……名はありません」
名がない。
名がない贈り物は、責任がない。
責任がないものは、噂の餌になる。
リーシャの喉がきゅっと縮む。
「……誰の配慮」
アグネスは視線を伏せたまま言った。
「王弟殿下のご意向です。
ただし直接お渡しできないため――護衛経由で」
護衛。
ロランの顔が浮かぶ。真っ直ぐな目。
アドリアンの言葉も浮かぶ。
“守るのではなく同行する”――それでも守りたいという矛盾。
リーシャは湯気を見つめた。
湯気は温かい。
温かいほど、胸が痛い。
「……飲め、ってことね」
自分の声が小さく聞こえる。
王妃の声ではなく、ただの女の声だ。
その声を出してしまったことが、恥ずかしい。
アグネスはすぐに硬い声へ戻した。
「飲んでください。体調を崩せば、王宮はそれを“弱さ”として扱います」
弱さ。
その単語が、刃みたいに刺さる。
弱い妃は捨てられる。冷たい妃はつまらない妃になる。
結局、どこにも救いはない。
リーシャは椀を受け取り、一口含んだ。
熱が喉を通り、胸の奥がわずかにほどける。
ほどけた瞬間、涙が近づく。
だからすぐ、微笑を作る。
「……ありがとう」
誰に言ったのか、自分でも分からない。
アグネスにか。ロランにか。アドリアンにか。
あるいは、温度そのものにか。
アグネスは少しだけ目を伏せた。
「王妃陛下。……“名のない配慮”は、燃えます」
「分かっているわ」
リーシャは椀を机に置いた。
温かい湯気が、空へ溶けて消える。
消えるほど、胸が冷える。
(国王の温度は届かない)
届くのは、命令と沈黙。
届くのは、幼馴染へ向く声の温度だけ。
それでも今日、温度は来た。
弟の温度が。護衛の温度が。
遠回りの温度が。
そのことが、国王の嫉妬を燃やすと分かっている。
分かっているのに、拒めない。拒めば凍えるのは自分だ。
同じ頃、執務室。
国王レオニスは書類の束に印章を押していた。
押すたびに国が動く。国が動くたびに、人が黙る。
王は黙らせる立場にある。だから自分も黙る。
「陛下」
宰相グレゴールの穏やかな声が落ちた。
「王妃陛下の件で、ご報告が」
レオニスの指が止まる。
“王妃”の四文字だけで、胸の奥が疼く。
疼きを見せないために、声を短くする。
「……何だ」
宰相は微笑を崩さない。
「王弟殿下が、王妃へ薬湯と毛布を手配なさったようです」
一瞬、レオニスの視界が狭くなる。
薬湯。毛布。
温度のあるもの。
(弟が……?)
怒りが湧く。
いや、怒りの形をした“奪われる恐怖”が湧く。
自分は王妃に近づけない。近づけば弱点になる。
だから距離を取る。夜も行かない。言葉を削る。
守るための沈黙。
――なのに弟は、遠回りで温度を届ける。
その温度が、妃の心を救うかもしれない。
救われた妃が、弟の方を向くかもしれない。
そんな恐怖が、胸を焼く。
レオニスは声を低くした。
「……余計なことを」
宰相が頷く。
「ええ。殿下はお優しい。
ただ、その優しさは“絵”になります。
陛下の妃に、陛下の知らない温度が届く――それは噂の好物です」
噂。
またその言葉。
噂は王妃を殺し、王を縛る。
レオニスは拳を握り潰しそうになって、指を組み直した。
王が苛立ちを見せれば、それも噂になる。
「……アドリアンに、命令したはずだ」
宰相は穏やかに答えた。
「近づいてはおりません。
……ただ、温度だけは届いてしまう」
届いてしまう。
その言い方が残酷だった。
(俺の知らない温度)
レオニスは目を閉じた。
言葉にすれば、嫉妬になる。
嫉妬を口にすれば、王が人間になる。
人間になれば、宰相に負ける。
――でも胸は焼ける。
「……監視を強めろ」
口から出た命令は、守りの形をしている。
けれど本当は、自分の嫉妬を隠すための鎧だった。
宰相は深く礼をする。
その礼の奥に、“思い通り”の匂いがあるのを、レオニスは見ないふりをした。
夜。
リーシャは毛布を膝にかけ、薬湯の椀を見つめていた。
温度はある。
でもその温度は、王のものではない。
それが痛い。
それでも、ありがたい。
リーシャは目を閉じ、胸の内で静かに言った。
(私は、自分で守る)
守るための温度なら、受け取る。
たとえそれが、王の嫉妬を燃やすとしても。
燃えて困るのは王宮だ。凍えて死ぬのは自分だ。
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