氷の王妃は跪かない ―褥(しとね)を拒んだ私への、それは復讐ですか?―

柴田はつみ

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第九章:蛇の毒牙、あるいは奪われる王冠

 北塔に籠もり、淡々と書類を捌くエルフレイデの日常は、今や冷え切った機械のようだった。
 だが、アステラ王女リヴィアにとって、それは“勝利”へのカウントダウンにすぎない。

 ある午後――。
 エルフレイデが珍しく庭園の回廊を通りかかったとき、そこには、あたかも待ち構えていたかのように、ギルベルトとリヴィアの姿があった。

「ギル様、ご覧になって。この薔薇、昔、私たちが一緒に植えたものの苗木だそうですわ。
 ……この国でも、私たちの愛はこうして根を張っているのですね」

 リヴィアはそっとギルベルトの首へ腕を回し、耳元で愛を囁く。
 ギルベルトは一瞬、逃げるように視線を逸らしたが――遠くにエルフレイデの姿を認めた途端、鉄の仮面を被り直した。

 彼はリヴィアの腰を抱き寄せ、その額へ唇を落とす“芝居”を演じてみせたのだ。

(……ああ。視界が、痛い)

 エルフレイデは立ち止まり、その惨劇のような睦み合いを、無感動に眺めた。
 かつてなら胸を裂くようだった痛みも、今はただ、鉛の塊が静かに沈殿していく感覚だけが残っている。

「あら、王妃様。ご覧になって? ギル様ったら、私を片時も離してくださらないの。
 この国の王妃の座は、氷のように冷たい石でできていると聞きましたけれど……
 私なら、もっと温かな場所に変えて差し上げられるのに」

 リヴィアはギルベルトの胸に顔を埋めたまま、エルフレイデにだけわかる角度で、邪悪に勝ち誇った微笑を浮かべた。

「……リヴィア様。その座がそんなに欲しいのでしたら――どうぞ、いつでもお座りなさいませ」

 エルフレイデの声は、驚くほど平板だった。

「陛下。……いつまでも仲睦まじく、本当にお似合いですこと。
 お二人のあいだには、私のような不快な“置物”は不要でしたわね。……失礼いたします」

 優雅に会釈し、彼女は背を向ける。
 その歩調は、王妃としての誇りすら脱ぎ捨てたかのように、軽やかで――そして、絶望的だった。

 その後。

 王妃が去った回廊で、ギルベルトはリヴィアの手を乱暴に振り払う。

「……やりすぎだ、リヴィア。これ以上は許さん」
「あら、怖いこと。でもギル様、今の彼女の目をご覧になりまして?
 彼女はもう、貴方を愛してもいないし、憎んでもいない。ただ“無”ですわ。
 ……これなら私が正式に王妃になっても、誰ひとり反対いたしませんわね」

 リヴィアは扇を広げ、低く笑った。

「貴方が守りたかったあの女は、もう中身が空っぽ。
 ――さあ、あきらめて私を選んで。そうすれば、貴方の国にアステラの軍事力を貸してあげてもよろしくてよ?」

 ギルベルトは拳を、血が滲むほど強く握りしめる。

 彼女を守るために、彼女の心を殺した。
 彼女を生かすために、彼女の居場所を――他国の蛇に明け渡した。

 その夜。

 エルフレイデは北塔で、一通の書簡をしたためていた。
 それは王への最後通牒――離縁状。

 王妃の座を奪おうとするリヴィアの目論見は、皮肉にも、エルフレイデ自身の手で完成されようとしていた。

「……もう、十分だわ」

 窓の向こうで瞬く王宮の灯火は、
 もはや彼女にとって、ただ遠い火影にすぎなかった。

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