初恋の公爵様

柴田はつみ

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第三章「嫉妬する公爵」

王都で春の夜会が催されるのは、毎年この季節の恒例だった。
セラフィーナは淡いクリーム色のドレスをまとい、マリアに髪を整えてもらいながら、鏡の中の自分を眺めていた。
「お嬢様、今夜は特別綺麗ですよ」
「社交辞令はいいわ、マリア」

「本当のことを言っているんです。……もしかして、誰かに見せたい方がいらっしゃいます?」
セラは鏡越しにマリアを軽く睨んだ。
「いないわ」
「フィリップ様とか」
「いない、と言っています」

マリアはにこにこしながら、最後のピンを留めた。
誰かに見せたい、か。
フィリップの言葉が頭をよぎった。
「俺を選べ」
三日経った今も、答えが出ていなかった。フィリップのことは大切な幼馴染だと思っている。一緒にいると楽で、自然に笑えて、傷つかない。
それは確かだった。
でも‥‥
セラは鏡から目を逸らした。

夜会の会場は、シャンデリアの光で満ちていた。
貴族たちが思い思いの装いで集い、あちこちで談笑の声が弾けている。セラは父母と共に挨拶を済ませると、そっと人込みの端に退いた。こういう華やかな場は、昔から少し苦手だった。
「セラフィーナ嬢」

背後から声がかかった。振り返ると、フィリップが人懐っこい笑顔で立っていた。
「来てたんですね」
「エドガーに誘われて。……綺麗だよ、今夜」
「ありがとうございます」
「せっかくだから、一曲踊らない?」
セラは少し迷った。しかしフィリップの屈託のない笑顔に、断る理由が見つからなかった。

「……一曲だけ」
「やった」
フィリップに手を引かれ、ダンスフロアへ向かった。
音楽が始まる。フィリップはリードが上手く、セラはぎこちなかった足取りがほぐれていくのを感じた。

「緊張してる?」
「少し」
「俺と踊るのに?」
「人前が苦手なんです」
「そっか」フィリップは柔らかく笑った。
「じゃあ俺だけ見てて。他は気にしなくていい」
その言葉はあまりにも自然で、セラはつい頬をほころばせてしまった。
楽だな、と思う。この人といると。

その時だった。
フロアの端に、知っている黒髪の男が立っているのが目に入った。
ルシアン・ヴァレンクール。
夜会服に身を包んだ彼は、どこか話しかけがたい雰囲気を纏い、シャンパングラスを手に貴族たちと言葉を交わしていた。完璧な微笑み、完璧な立ち居振る舞い。社交界の「氷の公爵」そのものの姿。

しかし。
一瞬だけ、その金の瞳がこちらを捉えた。
セラは反射的に視線を逸らした。
「……ルシアン様も、いらしてたんですね」
「ああ」フィリップの声が、わずかに低くなった。
「気になる?」
「いいえ」
「本当に?」
「……踊りに集中させてください」
フィリップは少し笑って、それ以上は言わなかった。

一曲が終わり、セラはフロアを離れようとした。
その時、腕をぐいと引かれた。
強い力だった。フィリップではない。
振り返ると、ルシアンが無言でセラの腕を掴んでいた。
「……ルシアン様?」

「少し来い」
「え、でも」
答えを待たず、ルシアンはセラをフロアの隅、人気のない扉の陰へ引いていった。セラは半ば引きずられるように足を動かすしかなかった。
扉の影。シャンデリアの光が届かない、薄暗い場所。

ルシアンはセラの正面に立ち、静かに口を開いた。
「フィリップ・モンテーニュと、何を話していた」
低い、しかし張り詰めた声だった。

セラは少し呆然として、それから頬に熱が上がるのを感じた。
「……それを聞く権利が、あなたにあるんですか」
「ある」
即答だった。

「私は婚約破棄を申し出ました。あなたは認めていないかもしれませんが、私の気持ちは変わっていません。フィリップ様と何を話そうと、あなたに関係は」
「関係ある」

ルシアンがセラの言葉を静かに遮った。
「お前は俺の婚約者だ。今この瞬間も」
「だから婚約を破棄したいと」
「セラフィーナ」
名前を呼ぶ声に、何かが滲んでいた。

怒りではない。苛立ちでもない。もっと、別の何か。
セラは言葉を止めた。
ルシアンが一歩、近づいた。
シャンデリアの光が届かないその場所で、金の瞳だけがかすかに揺れていた。
「……あいつに笑う顔を、見せるな」
「え……」
「俺以外に、あの顔を見せるな」
低く、絞り出すような声だった。
セラは息を飲んだ。

今、この人は何を言っている?
頭の中が、白くなった。十年間、氷のように冷たかった男が、今、こんな声を出している。
「……何が」
セラは声を絞り出した。
「何が、そんなに嫌なんですか。十年間、私に冷たくし続けたあなたが、今さら何を」
「嫌、じゃない」
「では」
「嫉妬だ」

嫉妬

その言葉の意味を、セラの頭がゆっくりと処理しようとした。
ルシアンはセラから視線を逸らし、低く続けた。
「……おかしなことを言っている自覚はある。だが」
「だが?」
「お前がフィリップと笑っているのを見ると、胸の中が焼けるようになる。十年前からそうだ。ずっと、そうだった」
セラの目が、わずかに揺れた。

「……十年前から?」
ルシアンは答えなかった。
セラは胸を押さえた。早鐘を打つ心臓が、恥ずかしくてたまらなかった。
「……それは」
声が震えた。
「それは、ずるいです」

「わかっている」
「十年間、何も言わずにいて。冷たくして。それで今さら」
「わかっている」
ルシアンは静かに繰り返した。
そして初めて、かすかに苦しそうな表情をした。
「……俺には、お前に言う資格がない。それもわかっている」
セラは返す言葉が見つからなかった。

ただ胸の奥で、十年間蓋をしていたものが、じわりと滲み出すような気がした。

ふたりの間に、静かな時間が流れた。
遠くでまた音楽が始まる。笑い声が聞こえる。
それなのに、この扉の陰だけが別の世界のようだった。
やがてセラは、かすかに息を吐いた。

「……フィリップ様とは、ただ踊っていただけです」
ルシアンが、僅かに顔を上げた。
「変な意味は、ありません」
セラはそれだけ言って、ドレスの裾を持ち、ルシアンの横をすり抜けた。

廊下を歩きながら、セラは俯いたまま唇を噛んだ。
「嫉妬だ」
あの声が、頭の中で何度も響いた。
どれだけ追い払おうとしても、消えてくれなかった。

その夜遅く。
ルシアンの執務室では、従者クロードが主人に静かに声をかけていた。
「旦那様、今夜は少々……らしくございませんでしたね」
「余計なことを言うな」
「いいえ、申し上げます」

クロードは珍しく、はっきりとした声で言った。
「十年間、ずっと我慢なさってきたのでしょう。しかしセラフィーナお嬢様は、今、本当に離れようとしています。……もう少しだけ、ご自分の気持ちに素直になられては?」
ルシアンは答えなかった。

ただ机の引き出しを静かに開けた。
そこには小さな古びた木箱があった。
蓋を開けると、枯れた花びらが静かに息をしていた。
十年前の春の香りが、記憶の奥から漂ってくるような気がした。

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