初恋の公爵様

柴田はつみ

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第四章「枯れたコサージュ」

夜会から三日後。
ルシアンから呼び出しの文が届いたのは、セラが庭でスノードロップの手入れをしていた午後のことだった。

マリアが小走りで駆けてきて、銀の盆の上に折り畳まれた封書を載せて差し出した。
「ヴァレンクール家からです」
セラは土のついた手袋を外し、封書を手に取った。
几帳面な筆跡で、短くこう書かれていた。
「明日の午後、屋敷へ来い。話がある。ルシアン」
「……話、ですって」
マリアが隣でそっと封書を覗き込んだ。
「行かれますか?」
セラはしばらく封書を見つめてから、静かに答えた。

「……行きます」
夜会での言葉が、まだ胸の奥にあった。
「妬けるんだ」
あの声の意味を、まだ自分の中で整理できていなかった。

翌日の午後。
ヴァレンクール公爵邸は、エルウィン家とは比べ物にならない規模だった。左右に連なる白い石柱、手入れの行き届いた庭園、重厚な正面扉。すべてが次期公爵の家にふさわしい、威厳に満ちた佇まいをしていた。
玄関で出迎えたのは、従者のクロードだった。

「セラフィーナお嬢様、お待ちしておりました」
「ルシアン様は?」
「旦那様は書斎にて。ご案内いたします」
クロードに続いて廊下を歩きながら、セラは心臓が落ち着かないのを感じていた。
何を話す気なのだろう。
婚約のことか。夜会でのことか。
それとも‥‥

「こちらでございます」
クロードが扉の前で止まった。
「旦那様、セラフィーナお嬢様をお連れしました」
「入れ」
低い声が扉越しに聞こえた。
クロードが静かに扉を開け、会釈して廊下に下がった。

書斎は広く、整然としていた。
壁一面の本棚、重厚な執務机、窓から差し込む柔らかな午後の光。
ルシアンは窓際に立ち、外を眺めていた。セラが入ると振り返り、短く「座れ」と言った。

「……失礼します」
セラは扉近くの椅子に腰を下ろした。
ルシアンは執務机の前に立ったまま、しばらく何も言わなかった。いつも完璧に整った所作の彼が、珍しく、言葉を探しているように見えた。
何かを、言おうとしている。
そう思った時だった。

「少し待て」
ルシアンが執務机の引き出しを開けた。書類を取り出しているのかと思ったセラは、次の瞬間、息を飲んだ。
机の上に置かれたのは、小さな古びた木箱だった。
ルシアンはそれをセラに向けて静かに押し出した。

「開けてみろ」
「……これは?」
「見ればわかる」
セラはおそるおそる木箱に手を伸ばした。
蓋を持ち上げた。
その中に、あった。
「‥‥‥」

声が出なかった。
枯れた花びら。色褪せた白いリボン。かつて庭で摘んだ小さな花たちが、形を保ったまま、そこに静かに眠っていた。
十年前の春に作った、あのコサージュだった。
「……捨てて、いなかったの」
声が震えた。

「捨てた、と思っていました。ずっと」
ルシアンは何も言わなかった。
セラは震える指先でそっとコサージュに触れた。乾いた花びらが、指先にかすかな感触を残した。

十年前の記憶が、一気に溢れてきた。
庭でマリアと一緒に花を摘んだこと。どんなリボンにするか悩んだこと。勇気を出して差し出したこと。ルシアンが無言で受け取って、胸元につけてくれたこと。

「……捨てられるわけがない」
ルシアンの声が、静かに落ちた。
「大切に、してくれていたんですか」
「ああ」
「……なぜ」
セラは顔を上げた。ルシアンと目が合った。
十年間、氷のように冷たかった金の瞳が、今は揺れていた。

「なぜ、これを大切にしてくれていたのに、私に冷たくしたんですか」
問いかけながら、セラは自分でも声が震えていることに気づいた。
ルシアンは視線を逸らさなかった。
彼はゆっくりと口を開いた。

「……あの夜のことを、覚えているか」
「どの夜ですか」
「十年前の舞踏会だ」
セラの胸が、ざわりと動いた。
「覚えています」
「お前がこれを渡してくれた後、俺は母に呼ばれた。少し席を外した」
「……はい」
「戻った時、お前はフィリップと踊っていた」
セラは息を飲んだ。

「笑っていた。俺の前では一度もしないような、無邪気な笑い方で」
ルシアンの声は静かだった。しかしその静けさの奥に、長い年月をかけて押し込めてきた何かが滲んでいた。

「フィリップが耳元で何かを囁いた。お前は顔を赤らめて俯いた」
「それは‥‥」
「俺には聞こえなかった。だから」
ルシアンは一度、目を閉じた。

「……だから、自分には関係のない話だと思った。お前には、俺より打ち解けられる相手がいるのだと」
セラは声を失った。
「コサージュを渡してくれた気持ちも、俺の思い違いだったのだと。そう結論づけた」
「違います」

セラは思わず立ち上がった。
「違います、ルシアン様。フィリップ様が囁いたのは、婚約者がいるのにこんな場所で踊っては駄目だという話で顔を赤らめたのは、恥ずかしかったから、ただそれだけで」

「……知っている」
「え?」
「今は、知っている」
ルシアンが静かに言った。
「後になって、エドガーから聞いた。フィリップとそういう話をしていたと」
「では、なぜ」
「意地を張った」

ルシアンは珍しく、自嘲するような表情をした。
「傷ついたと認めたくなかった。お前に確かめることも、謝ることもできなかった。気づけば時間だけが過ぎた」

「……十年も、ですか」
「ああ」
セラは力が抜けて、椅子にゆっくりと腰を下ろした。
頭の中がぐるぐると回っていた。
十年間。十年間、ずっと、たったそれだけの誤解で。

「……ずるいです」
気づいたら、口から出ていた。
「十年も無駄にして、今さらそんなことを言うなんて」
「……わかっている」
「わかっているじゃ、済まない話です」
「そうだな」
ルシアンが、ゆっくりとセラの前に歩いてきた。

そしてセラの隣に、静かに膝をついた。
「セラフィーナ」
見上げると、金の瞳が間近にあった。
「俺には、お前に謝る言葉も、言い訳する権利もない。ただ」
大きな手が、そっとセラの手の上に重なった。

「一つだけ、聞いてくれ」
セラは息を止めた。
「十年間、誰にも本気になれなかった。なろうとしても、なれなかった」
「……それは」

「お前以外に、なれなかったというだけだ」
セラの目が、じわりと滲んだ。
泣いては駄目だ。泣いては‥
「十年、待ったんだ」
低く、静かな声だった。
「今さら諦める気は、ない」
セラは俯いた。

膝の上で握り締めた手の中に、枯れたコサージュがある。十年間、大切にしまわれていたあの花が。
ずっと、ここにあったんだ。
涙が、一粒だけ落ちた。

「……意地悪な人」
「そうだな」
「もっと早く、言えばよかったんです」
「ああ」
「十年も、無駄にして」
「そうだな」

同じ言葉しか返ってこない。それなのに、胸の奥がじわじわと温かくなっていくのが止められなかった。
セラはゆっくりと顔を上げた。
涙を滲ませたまま、真っ直ぐにルシアンを見た。

「……答えは、すぐには出せません」
「わかっている」
「フィリップ様のことも、ちゃんと向き合わなければならないし」
「ああ」
「でも」

セラは小さく、しかしはっきりと言った。
「このコサージュ、もう少しだけ……預かっていてください」
ルシアンが、かすかに目を見開いた。
それからゆっくりと、セラが生まれて初めて見る表情で、微笑んだ。
「……ああ」
窓から差し込む午後の光が、ふたりの間に静かに落ちていた。

その日の帰り道。
馬車の中でセラはずっと、膝の上で手を組んだまま窓の外を見ていた。
マリアは何も聞かなかった。

ただ、お嬢様の頬が心なしか赤いことと、その目がいつもより柔らかいことに、こっそり気がついていた。
もう少しで、ですね。
マリアは窓の外を向いて、静かに微笑んだ。

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