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第1部
情火罪業
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そっと触れた指先。柔らかな感触を奪う白い手袋に、それでもかすかに届いた命の熱。
その熱を、愛しいと思った。
真っ直ぐに見つめてくるエメラルドの瞳も、禁忌の名を呼ぶ可憐な声も、ふとした仕草も、風に流れる甘い香りもすべて、かつて腕に抱いては激しく求め、そして壊してしまったもの。
狂おしいほどに愛し求めた光と、同じ輝きを放つ新しい命。
永久に続く贖罪の中に身を置きながら、男はまた光を求め、手を伸ばす。消えてしまった光を、今度こそ失わないように。かつて壊した光に許しを乞うように。
その指先が、また罪に汚れる事を知りながら。
† † † †
赤く細い三日月の夜だった。
闇に散る鮮血を吸って煌く月は、さながら肉を裂く鋭い凶器にも似ている。その妖しくも美しい三日月に選ばれたのは、清楚な白百合を思わせる儚い人間だった。
「キール」
何度目かの呼びかけでやっと目を覚ましたキールが、まどろみの中、そばにある温もりを両腕に抱き締めた。
少し強く抱き締めるだけで簡単に壊れそうなほど華奢な体。その体を、激しく何度も愛した。キールの名を呼ぶ唇を唇で塞ぎ、逃げようと空を掴む手に指を絡め、体全部で女のすべてを己の側に縛り付ける。
狂気にも似た、深く危険な愛情。それを女はいつでも静かに受け入れてくれた。
人間でありながら、天上の輝きにも似た命を持つ女。闇であるキールには眩しすぎるほど輝いて、けれど、キールはどうしてもその光を手に入れたいと思った。
何を犠牲にしても、この光だけは手放したくない。それは闇に捕われたままのキールを救う、唯一の光であったから。
「私、後悔なんてしてないわ。誰にだって、はっきりと言える。貴方を愛しているって」
そう言って、女はキールの背中に回した腕にぎゅっと力を込めた。応えるようにキールも強く、女の体を抱き締める。柔らかな金髪に頬を寄せ、幾度となく嗅いだ甘い匂いを胸一杯に吸い込んだ。その香りに、女のものとは明らかに違う異臭が混ざっていた。
キールにとって馴染み深い、女とは別の甘い香り。
「キール、もう一度抱いて頂戴。強く抱いて、もう一度私を壊してみてよ」
エメラルド色の瞳が揺らめいたかと思うと、そこから真紅の涙が零れ落ちた。白い頬を汚して落ちる涙は、やがて女の体をも血色に染め、抱き締めるキールの腕にまで侵食する。
「貴方の左眼で私を見つめて、そして壊して。それを願っているんでしょう」
血の涙を流しながら、女がゆっくりと手を伸ばす。その指先がキールの左眼にかけられた片眼鏡に触れた瞬間、キールの目の前で女の体が砂のように崩れて消えた。
「リィナっ!」
絶叫にも近い声を上げて、キールがソファーから勢いよく飛び起きた。暗い室内にキールの乱れた呼吸音だけが響いている。指先は震えていた。唇も痙攣して、上手く結べない。
「……っ。何て夢だ」
吐き捨てるように呟いて、キールが汗で額に張り付いた前髪を乱暴に掻き上げた。戻した手をぎゅっと握りしめて、ソファーの上に座り直す。心臓はまだ激しく胸の奥を叩いている。
なぜあんな夢を見たのか、キールはその理由が分かっていた。
リナティシアの魂を持つレベッカとの奇跡の再会。エメラルドの瞳の奥に、未だ失われずにあった彼女の思いを垣間見て、それまで押えていた激情が目を覚まし始めたのだ。
白百合の海で手袋越しに触れた彼女の熱。それだけでは満足しない。白い手袋の枷を外し、直に命の熱に触れてみたい。触れて、重ねて、強く抱き締めたい。その結果が何を招くのか痛いほど分かっていても、自分の奥にある欲望を無視することも出来なかったのだ。
二つの思いの間で揺れながら、己を失いそうになったキールを戒めるように、それは悪夢と言う形で現れた。
「許されない罪。……分かっていたはずだ」
緩く首を振って、キールは深く息を吸い込んだ。ぎゅっと瞼を閉じても、その裏側の闇に浮かぶのは血に濡れたリナティシアの姿。それがレベッカに変わろうとする寸前で、キールは再び目を開く。
身を切り裂く現状に抜け道を探そうとするキールだったが、それを見つけることはやっぱり出来なかった。
† † † †
「……キール?」
暗い応接室から自室へ戻る途中の廊下で、キールは今一番会いたくない人物と向かい合っていた。薄手の白いナイトドレスを、手に持った燭台が闇にぼんやりと浮かび上がらせている。喉の奥が一気に干上がったのを感じた。
「どうしたんですか? こんな真夜中に出歩くなんて」
「……どうしても貴方と話がしたくて」
「私と?」
肯定の意を表して頷いたレベッカが、真っ直ぐにキールを見つめ返した。その瞳に、心の奥がざわりと騒ぐ。
「いろいろ考えを整理していたんです。黒薔薇卿の事も貴方の事も、そして……意識の奥で私が別の名前で呼ばれる事についても」
「いけない」
「え?」
「それ以上口にしてはいけない。レベッカ。私が私であるうちに、貴女は部屋へ戻った方がいい」
「どういう事ですか?」
「貴女を襲わないと分かりませんか?」
そこまで言われて、レベッカがはっと口を閉じた。蝋燭の明かりに照らされるレベッカの表情は、怯えているようでもあり、頬を染めて恥らっているようでもある。それを確認するには、蝋燭の炎だけでは事足りない。
一瞬の沈黙。互いの距離を示す足元を見つめていたレベッカが、ゆっくりとその瞳を目の前のキールへと向けた。
「私は誰ですか?」
「……」
「もしかしたら、私は……」
「貴女はレベッカ=クロフォードです。それ以外の何者でもない」
はっきりと言われ、レベッカの胸に言いようのない切なさが込み上げてくる。記憶の奥で目覚めかけた思いを否定されたような気がして、唇をぎゅっときつく噛み締めた。
「私、怖くありません。私の過去も貴方の過去も、受け入れる覚悟があります。……貴方は何かにずっと苦しんでいるように見える。……私では、役に立ちませんか?」
「……」
「キール」
名を呼んで、レベッカが目を閉じる。深く息を吸い込んで、胸の奥に目覚めた思いを静かに告げた。それはリナティシアの言葉であり、同時にレベッカ自身の思いでもあった。
「貴方に触れてはいけないの?」
静かにそう呟いたレベッカの言葉に、キールの心の奥が悲鳴を上げて軋んだ。
その言葉を、かつて同じ魂から聞いた。同じようにキールのすべてを理解したいと望んだ魂が、今度はレベッカと言う血の通う生きた人間の願いとなって告げられる。
どれだけ人を弄べば気がすむのか。いたずらに廻り続ける運命の中で、今キールが言える言葉はひとつしかなかった。
「貴女に、私の何が分かると言うのですか」
感情を抑えた声音に、レベッカの肩がびくりと震えたのが見えた。大きく見開かれたエメラルドの瞳。そこからぽろぽろと大粒の涙が、白い頬を伝って零れ落ちていく。
「……っ、ごめんなさい」
嗚咽の混じった声で辛うじてそれだけを呟くと、レベッカは逃げるように廊下の暗闇へと消えていった。一瞬後を追いそうになった自分を一歩だけで引き止めて、キールが右拳を壁に強く叩きつける。強く噛んだ唇から、血の味が滲み出ていた。
同じ過ちは、もう繰り返したくないのだ。どんなに激しく彼女を求めようと、その先に行き着く未来が血塗られたものであるのなら、キールは身を裂いてでもレベッカを諦めなくてはならない。夢のように感情に身を任せ、手招きする悲劇へと流されてはいけないのだ。
けれども。
瞼に焼きついたレベッカの泣き顔は、どうやっても消えてはくれなかった。
『貴方に触れてはいけないの?』
互いが望む思いは重なり合うのに、それを運命は決して許しはしなかった。
その熱を、愛しいと思った。
真っ直ぐに見つめてくるエメラルドの瞳も、禁忌の名を呼ぶ可憐な声も、ふとした仕草も、風に流れる甘い香りもすべて、かつて腕に抱いては激しく求め、そして壊してしまったもの。
狂おしいほどに愛し求めた光と、同じ輝きを放つ新しい命。
永久に続く贖罪の中に身を置きながら、男はまた光を求め、手を伸ばす。消えてしまった光を、今度こそ失わないように。かつて壊した光に許しを乞うように。
その指先が、また罪に汚れる事を知りながら。
† † † †
赤く細い三日月の夜だった。
闇に散る鮮血を吸って煌く月は、さながら肉を裂く鋭い凶器にも似ている。その妖しくも美しい三日月に選ばれたのは、清楚な白百合を思わせる儚い人間だった。
「キール」
何度目かの呼びかけでやっと目を覚ましたキールが、まどろみの中、そばにある温もりを両腕に抱き締めた。
少し強く抱き締めるだけで簡単に壊れそうなほど華奢な体。その体を、激しく何度も愛した。キールの名を呼ぶ唇を唇で塞ぎ、逃げようと空を掴む手に指を絡め、体全部で女のすべてを己の側に縛り付ける。
狂気にも似た、深く危険な愛情。それを女はいつでも静かに受け入れてくれた。
人間でありながら、天上の輝きにも似た命を持つ女。闇であるキールには眩しすぎるほど輝いて、けれど、キールはどうしてもその光を手に入れたいと思った。
何を犠牲にしても、この光だけは手放したくない。それは闇に捕われたままのキールを救う、唯一の光であったから。
「私、後悔なんてしてないわ。誰にだって、はっきりと言える。貴方を愛しているって」
そう言って、女はキールの背中に回した腕にぎゅっと力を込めた。応えるようにキールも強く、女の体を抱き締める。柔らかな金髪に頬を寄せ、幾度となく嗅いだ甘い匂いを胸一杯に吸い込んだ。その香りに、女のものとは明らかに違う異臭が混ざっていた。
キールにとって馴染み深い、女とは別の甘い香り。
「キール、もう一度抱いて頂戴。強く抱いて、もう一度私を壊してみてよ」
エメラルド色の瞳が揺らめいたかと思うと、そこから真紅の涙が零れ落ちた。白い頬を汚して落ちる涙は、やがて女の体をも血色に染め、抱き締めるキールの腕にまで侵食する。
「貴方の左眼で私を見つめて、そして壊して。それを願っているんでしょう」
血の涙を流しながら、女がゆっくりと手を伸ばす。その指先がキールの左眼にかけられた片眼鏡に触れた瞬間、キールの目の前で女の体が砂のように崩れて消えた。
「リィナっ!」
絶叫にも近い声を上げて、キールがソファーから勢いよく飛び起きた。暗い室内にキールの乱れた呼吸音だけが響いている。指先は震えていた。唇も痙攣して、上手く結べない。
「……っ。何て夢だ」
吐き捨てるように呟いて、キールが汗で額に張り付いた前髪を乱暴に掻き上げた。戻した手をぎゅっと握りしめて、ソファーの上に座り直す。心臓はまだ激しく胸の奥を叩いている。
なぜあんな夢を見たのか、キールはその理由が分かっていた。
リナティシアの魂を持つレベッカとの奇跡の再会。エメラルドの瞳の奥に、未だ失われずにあった彼女の思いを垣間見て、それまで押えていた激情が目を覚まし始めたのだ。
白百合の海で手袋越しに触れた彼女の熱。それだけでは満足しない。白い手袋の枷を外し、直に命の熱に触れてみたい。触れて、重ねて、強く抱き締めたい。その結果が何を招くのか痛いほど分かっていても、自分の奥にある欲望を無視することも出来なかったのだ。
二つの思いの間で揺れながら、己を失いそうになったキールを戒めるように、それは悪夢と言う形で現れた。
「許されない罪。……分かっていたはずだ」
緩く首を振って、キールは深く息を吸い込んだ。ぎゅっと瞼を閉じても、その裏側の闇に浮かぶのは血に濡れたリナティシアの姿。それがレベッカに変わろうとする寸前で、キールは再び目を開く。
身を切り裂く現状に抜け道を探そうとするキールだったが、それを見つけることはやっぱり出来なかった。
† † † †
「……キール?」
暗い応接室から自室へ戻る途中の廊下で、キールは今一番会いたくない人物と向かい合っていた。薄手の白いナイトドレスを、手に持った燭台が闇にぼんやりと浮かび上がらせている。喉の奥が一気に干上がったのを感じた。
「どうしたんですか? こんな真夜中に出歩くなんて」
「……どうしても貴方と話がしたくて」
「私と?」
肯定の意を表して頷いたレベッカが、真っ直ぐにキールを見つめ返した。その瞳に、心の奥がざわりと騒ぐ。
「いろいろ考えを整理していたんです。黒薔薇卿の事も貴方の事も、そして……意識の奥で私が別の名前で呼ばれる事についても」
「いけない」
「え?」
「それ以上口にしてはいけない。レベッカ。私が私であるうちに、貴女は部屋へ戻った方がいい」
「どういう事ですか?」
「貴女を襲わないと分かりませんか?」
そこまで言われて、レベッカがはっと口を閉じた。蝋燭の明かりに照らされるレベッカの表情は、怯えているようでもあり、頬を染めて恥らっているようでもある。それを確認するには、蝋燭の炎だけでは事足りない。
一瞬の沈黙。互いの距離を示す足元を見つめていたレベッカが、ゆっくりとその瞳を目の前のキールへと向けた。
「私は誰ですか?」
「……」
「もしかしたら、私は……」
「貴女はレベッカ=クロフォードです。それ以外の何者でもない」
はっきりと言われ、レベッカの胸に言いようのない切なさが込み上げてくる。記憶の奥で目覚めかけた思いを否定されたような気がして、唇をぎゅっときつく噛み締めた。
「私、怖くありません。私の過去も貴方の過去も、受け入れる覚悟があります。……貴方は何かにずっと苦しんでいるように見える。……私では、役に立ちませんか?」
「……」
「キール」
名を呼んで、レベッカが目を閉じる。深く息を吸い込んで、胸の奥に目覚めた思いを静かに告げた。それはリナティシアの言葉であり、同時にレベッカ自身の思いでもあった。
「貴方に触れてはいけないの?」
静かにそう呟いたレベッカの言葉に、キールの心の奥が悲鳴を上げて軋んだ。
その言葉を、かつて同じ魂から聞いた。同じようにキールのすべてを理解したいと望んだ魂が、今度はレベッカと言う血の通う生きた人間の願いとなって告げられる。
どれだけ人を弄べば気がすむのか。いたずらに廻り続ける運命の中で、今キールが言える言葉はひとつしかなかった。
「貴女に、私の何が分かると言うのですか」
感情を抑えた声音に、レベッカの肩がびくりと震えたのが見えた。大きく見開かれたエメラルドの瞳。そこからぽろぽろと大粒の涙が、白い頬を伝って零れ落ちていく。
「……っ、ごめんなさい」
嗚咽の混じった声で辛うじてそれだけを呟くと、レベッカは逃げるように廊下の暗闇へと消えていった。一瞬後を追いそうになった自分を一歩だけで引き止めて、キールが右拳を壁に強く叩きつける。強く噛んだ唇から、血の味が滲み出ていた。
同じ過ちは、もう繰り返したくないのだ。どんなに激しく彼女を求めようと、その先に行き着く未来が血塗られたものであるのなら、キールは身を裂いてでもレベッカを諦めなくてはならない。夢のように感情に身を任せ、手招きする悲劇へと流されてはいけないのだ。
けれども。
瞼に焼きついたレベッカの泣き顔は、どうやっても消えてはくれなかった。
『貴方に触れてはいけないの?』
互いが望む思いは重なり合うのに、それを運命は決して許しはしなかった。
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