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第1部
永久彷徨
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焦がれた光は、闇に飲まれて消滅した。
嘲笑うかのように狂い鳴くカラスの群れ。
しおれて枯れ逝く白百合の花。
死者を導く弔歌の旋律。
求め伸ばした指先は、今も昔も血に染まる。
光は死んだ。
彼の目の前で、その灯火を静かに消した。
† † † †
「まぁ、貴方。こんな時間に何を?」
玄関の扉の前で立ち尽くしていた夫に、妻が驚いた声を上げて歩み寄った。開け放たれた扉の向こう、未だ濃い闇が街を包んでいる。
夫の手には黒薔薇の花束が握られていた。
「どうしたんです、これ?」
「……さぁ、私にも何だかよく分からないのだよ。どうしてここにいるのか、何をしに来たのかすらよく覚えていない。……ひどく、不吉な感じがしたことだけは覚えているんだが」
黒薔薇に埋もれた一枚の手紙を見ても、二人は不思議そうに顔を見合わせて首を傾げるだけだった。
「シアン=グレノアとレベッカ=クロフォードの結婚の報せ? ……何の冗談だ?」
「……ただの悪戯かしら。それにしても気味が悪いですわ」
「こんなものは捨ててしまおう。たちの悪い冗談だ」
形の良い眉を顰めて、男が黒い便箋をぐしゃりと握りしめる。その横では男の妻が、不安げに黒薔薇の花束を見つめていた。
「でも貴方……」
「レベッカなど、聞いた事もない名前だ。そもそも我が家にそんな娘はいないだろう? 気にするな」
未だ怯えたままの妻の肩を抱いて、男は手にした黒薔薇の花束を遠くの方へと放り投げた。
闇に落ちていく黒薔薇は彼らの削り取られた記憶のように、ゆっくりと溶けて消えていった。
† † † †
「忘れ物、ない?」
そう訊ねてきたイヴにくすりと笑みを零して、キールが背後の屋敷を見上げた。曇った灰色の空が、ずしりと心にも重圧をかけてくる。
「もとより何も持たない身でしょう?」
「それもそうね」
同意して、イヴもキールと同じように曇った空を見上げた。まるで心をそっくり表しているようだと、思った。
ちらりとキールを盗み見る。そんなイヴの視線に気付いているのかいないのか、キールは自嘲ぎみに口の端を歪めると、くるりと背を向けてひとり先を歩き出した。
「待ってよ。キール」
置いていかれまいと慌てて後を追ったイヴだったが、すぐに立ち止まり、再度背後の屋敷へと目を向けた。
「どうしました?」
少し先で立ち止まりこちらを振り返っていたキールへ視線を移して、イヴが小さく首を傾げる。表情こそ変わらないが、その瞳にはかすかな感情が揺らめいていた。
「また、戻ってくる?」
問われ、一瞬言葉に詰まる。
エレンシア。昔愛した人間が生き、そして同じ魂を持つ者が再び生を受けた場所。
愛した者の眠る墓を抱いた町。そしてまた、求めた光を捕まえる事が出来なかった、悲しみに満ちた哀願の町。
「さぁ、どうでしょうね。……戻りたいのですか?」
逆に問われ、イヴが頭を横に振った。その言葉と態度との矛盾に目を細めたキールの腕に、駆け寄ってきたイヴがぎゅっと抱きついた。
「キールがいるなら、どこだっていい。私はずっと、キールと一緒にいる」
頬を寄せて強く願うイヴ。そんな彼女を見下ろして、キールが無意識の内に切ない微笑を浮かべる。
同じ顔で、同じようにキールを選ぼうとしていた光は、今はもういない。
帽子を深く被り直して顔を隠し、キールは胸を軋ませる痛みを押えようと深く息を吸い込んだ。けれど痛みは消える事なく逆に激しく軋み、キールは指先まで凍えて震える感覚にぎゅっと目を閉じて必死にそれと戦った。
閉じた瞼の裏側に、最後に見たレベッカの姿が浮かんでは消えていった。
「キール?」
「……何でもありませんよ」
「……うん」
それ以上、イヴも聞かなかった。彼が心の奥で何に苦しみ泣いているのか、痛いほどに知っていたから。それを癒せるのが、自分ではない事もすべて。
「行きましょうか」
「どこへいくの?」
「イヴの行きたいところで構いませんよ。……もっとも、私たちが行ける場所は限られていますけれどね」
闇は闇の中でしか生きられない。
自分の言葉にふっと悲しい笑みを零して、キールはゆっくりと歩き出した。
その道の先に、これからも光は決して降り注がない事を、誰よりもよく知りながら。
† † † †
雪深い森の奥。真白の上に投げ出された、漆黒のドレス。
灰色の空を見上げるエメラルドの瞳は生気がなく、ガラス玉のように鈍い光を放っている。
瞬きをしない虚ろな瞳に、空を横切る一羽のカラスが歪んで映る。
闇を纏った、漆黒。
その奥に隠れた、深い紫の瞳。
重なり合う影と、騒がしい共鳴。
血に濡れた黒十字。
白百合の漣。
手袋の戒め。
赤紫の瞳。
その名前。
「…………ル……」
赤黒い色をこびり付かせた唇が、かすかに動いた。そこから漏れた声は、けれど音にすらならず、冷たい雪に埋もれ誰の耳に届く事なく崩れ落ちていった。
交差する、光と闇。
絡まりあう情念の果て、行きつく先は漆黒の混沌。
罪と知りつつ、唯一の光を切望するは嘆きの愚者。
『私たちは闇。神を見捨てた愚かな罪人』
切望する光を前に、彼らは己の罪に絶望する。
――――その身を引き裂く十字架に、己の愚かさを知るがいい。
嘲笑うかのように狂い鳴くカラスの群れ。
しおれて枯れ逝く白百合の花。
死者を導く弔歌の旋律。
求め伸ばした指先は、今も昔も血に染まる。
光は死んだ。
彼の目の前で、その灯火を静かに消した。
† † † †
「まぁ、貴方。こんな時間に何を?」
玄関の扉の前で立ち尽くしていた夫に、妻が驚いた声を上げて歩み寄った。開け放たれた扉の向こう、未だ濃い闇が街を包んでいる。
夫の手には黒薔薇の花束が握られていた。
「どうしたんです、これ?」
「……さぁ、私にも何だかよく分からないのだよ。どうしてここにいるのか、何をしに来たのかすらよく覚えていない。……ひどく、不吉な感じがしたことだけは覚えているんだが」
黒薔薇に埋もれた一枚の手紙を見ても、二人は不思議そうに顔を見合わせて首を傾げるだけだった。
「シアン=グレノアとレベッカ=クロフォードの結婚の報せ? ……何の冗談だ?」
「……ただの悪戯かしら。それにしても気味が悪いですわ」
「こんなものは捨ててしまおう。たちの悪い冗談だ」
形の良い眉を顰めて、男が黒い便箋をぐしゃりと握りしめる。その横では男の妻が、不安げに黒薔薇の花束を見つめていた。
「でも貴方……」
「レベッカなど、聞いた事もない名前だ。そもそも我が家にそんな娘はいないだろう? 気にするな」
未だ怯えたままの妻の肩を抱いて、男は手にした黒薔薇の花束を遠くの方へと放り投げた。
闇に落ちていく黒薔薇は彼らの削り取られた記憶のように、ゆっくりと溶けて消えていった。
† † † †
「忘れ物、ない?」
そう訊ねてきたイヴにくすりと笑みを零して、キールが背後の屋敷を見上げた。曇った灰色の空が、ずしりと心にも重圧をかけてくる。
「もとより何も持たない身でしょう?」
「それもそうね」
同意して、イヴもキールと同じように曇った空を見上げた。まるで心をそっくり表しているようだと、思った。
ちらりとキールを盗み見る。そんなイヴの視線に気付いているのかいないのか、キールは自嘲ぎみに口の端を歪めると、くるりと背を向けてひとり先を歩き出した。
「待ってよ。キール」
置いていかれまいと慌てて後を追ったイヴだったが、すぐに立ち止まり、再度背後の屋敷へと目を向けた。
「どうしました?」
少し先で立ち止まりこちらを振り返っていたキールへ視線を移して、イヴが小さく首を傾げる。表情こそ変わらないが、その瞳にはかすかな感情が揺らめいていた。
「また、戻ってくる?」
問われ、一瞬言葉に詰まる。
エレンシア。昔愛した人間が生き、そして同じ魂を持つ者が再び生を受けた場所。
愛した者の眠る墓を抱いた町。そしてまた、求めた光を捕まえる事が出来なかった、悲しみに満ちた哀願の町。
「さぁ、どうでしょうね。……戻りたいのですか?」
逆に問われ、イヴが頭を横に振った。その言葉と態度との矛盾に目を細めたキールの腕に、駆け寄ってきたイヴがぎゅっと抱きついた。
「キールがいるなら、どこだっていい。私はずっと、キールと一緒にいる」
頬を寄せて強く願うイヴ。そんな彼女を見下ろして、キールが無意識の内に切ない微笑を浮かべる。
同じ顔で、同じようにキールを選ぼうとしていた光は、今はもういない。
帽子を深く被り直して顔を隠し、キールは胸を軋ませる痛みを押えようと深く息を吸い込んだ。けれど痛みは消える事なく逆に激しく軋み、キールは指先まで凍えて震える感覚にぎゅっと目を閉じて必死にそれと戦った。
閉じた瞼の裏側に、最後に見たレベッカの姿が浮かんでは消えていった。
「キール?」
「……何でもありませんよ」
「……うん」
それ以上、イヴも聞かなかった。彼が心の奥で何に苦しみ泣いているのか、痛いほどに知っていたから。それを癒せるのが、自分ではない事もすべて。
「行きましょうか」
「どこへいくの?」
「イヴの行きたいところで構いませんよ。……もっとも、私たちが行ける場所は限られていますけれどね」
闇は闇の中でしか生きられない。
自分の言葉にふっと悲しい笑みを零して、キールはゆっくりと歩き出した。
その道の先に、これからも光は決して降り注がない事を、誰よりもよく知りながら。
† † † †
雪深い森の奥。真白の上に投げ出された、漆黒のドレス。
灰色の空を見上げるエメラルドの瞳は生気がなく、ガラス玉のように鈍い光を放っている。
瞬きをしない虚ろな瞳に、空を横切る一羽のカラスが歪んで映る。
闇を纏った、漆黒。
その奥に隠れた、深い紫の瞳。
重なり合う影と、騒がしい共鳴。
血に濡れた黒十字。
白百合の漣。
手袋の戒め。
赤紫の瞳。
その名前。
「…………ル……」
赤黒い色をこびり付かせた唇が、かすかに動いた。そこから漏れた声は、けれど音にすらならず、冷たい雪に埋もれ誰の耳に届く事なく崩れ落ちていった。
交差する、光と闇。
絡まりあう情念の果て、行きつく先は漆黒の混沌。
罪と知りつつ、唯一の光を切望するは嘆きの愚者。
『私たちは闇。神を見捨てた愚かな罪人』
切望する光を前に、彼らは己の罪に絶望する。
――――その身を引き裂く十字架に、己の愚かさを知るがいい。
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