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第8章 花の香り
優しい時間
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名を呼ばれていた。
暗く、どこまでも深い闇の中を、当てもなく漂う意識を呼び起こすように、何度も何度も呼ばれていた。
この声を、知っているような気がする。耳にする度に胸の奥が優しい熱を持ち、上手く言い表せない気持ちが湧き上がってくる。
闇を照らすひとすじの光のように。
冬に咲く優しい花のように。
凍えきってしまった心を溶かすように、その声は己の中から淡い熱を持って聞こえていた。
声に呼応して、固まっていた唇が僅かに動く。青白い唇から零れた声は音を持たず、けれどそれは確かにひとつの名前を呼んだ。そしてその名に反応して、今度ははっきりと自分の名を呼ぶ小さな声が耳のすぐ側で聞こえた。
「……。……リ……――ユーリっ!」
間近で名を叫ばれ、弾かれたように目を開いた。瞳が視界を確保するより先に体が強引に揺さぶられ、せっかく開いた瞼が強制的に閉じられる。
「……っ」
体の揺れが収まった頃に再度名を呼ばれ、ユリシスが今度こそしっかりと目を開けて状況を把握しようと首をめぐらせた。
温かい部屋の中、ユリシスはベッドの中に横たわっていた。カーテンの開かれた窓の向こうは、少し弱々しい太陽が優しい光を降り注いでいた。窓際に置かれた小さな硝子の瓶に、淡い桃色の花が活けてある。その花を目にしたユリシスの視界に、真横から突然栗色の髪をした少女が割り込んできた。
「ユーリ、起きて起きて! 今日は一緒に村を散歩する約束だよ。早くしないと夜になっちゃう」
そう言ってシーツを剥がしにかかった少女が、勢い余ってそのままユリシスの体の上に思いきり倒れこんだ。あまりの衝撃に一瞬呼吸を完全に止めたユリシスが、恨めしそうに体の上に乗っかったままの少女を睨み付ける。
「……せっかく傷が治ってきてたのに」
「怪我したら治してあげるよ」
「お前が怪我させてるんだろ」
呆れ顔でそう言って、ユリシスがえいっと言わんばかりに体を起こした。当然の如く上に乗っかっていた少女の小さな体が、ベッドの上をごろごろと緩く転がっていく。短く唸ってからのそりと起き上がった少女は、その扱いに不貞腐れるでもなく、逆に意味不明な笑みを浮かべてユリシスを見つめた。
「……何だよ」
「また怪我したら、もっと一緒にいられるね」
屈託なく笑う少女の思っても見なかった言葉に、不本意ながらもユリシスの頬が淡く色づく。それを見られまいと、ぷいっと顔を横に逸らしたユリシスが、あえて無関心を装いながらベッドから飛び出した。
「そう言って、俺に怪我させるつもりじゃないだろうな」
一生懸命に低い声を出したつもりだったが、語尾は少し消えそうに弱く……けれどその思いに気付くには、少女はまだ幼かった。
少し遅めの朝食を終えると、それまでうずうずしていたレフィスが待っていましたと言わんばかりに椅子から飛び降りて、まだ食後のお茶を飲んでいたユリシスの腕を引っ張った。娘の強引な誘いを目にしたリシアは呆れて溜息を吐き、同じように呆れ顔に多少の困惑も交えたユリシスを見て苦笑しつつもやんわりと助け舟を出した。
「レフィス。外は寒いから、ちゃんと上着を着てきなさい。一緒にユリシスの分の上着と、あとマフラーと手袋と帽子も持って来て頂戴ね」
「はあい!」
気持ちのいいくらい元気な返事をして、レフィスがぱたぱたと奥の部屋へ走っていく。レフィスが二人分の防寒着を探して来る間、ゆっくりお茶を飲むくらいは出来るだろう。いたずらっぽくウインクして見せたリシアに、ユリシスはどう返していいのか分からず、一応小さく頭を下げてお茶を飲み干す事にした。
その数分後。女物の赤い上着と白い手袋とマフラー、そしてピンクの花模様が編みこまれたあご紐の長い毛糸の帽子を身に纏い、レフィスと仲良く村へと降りていく羽目になる事をユリシスはまだ知らない。
今日雪はまだ降っておらず、村には穏やかな太陽の光が降り注いでいる。昼前と言う事で村にはいつもより多く人が行き交い、仲良く並んで歩く小さな子供二人に声をかけてくる大人たちも少なくなかった。無論レフィスと村人たちは顔見知りで、一緒にいるユリシスが例の傷を負って村外れに倒れていた子供だと言う事も知っていた。けれど誰もが余計な詮索などせず、連れ立って歩く幼い二人を冗談でからかったり、ユリシスの体を気遣ったりと至って普通の会話ばかりで、正直それがユリシスにはありがたかった。女物の服を着ている事を指摘された時だけは、さすがに居心地は良くなかったが。
「今日はね、お母さんにお小遣い貰ったの! いつもより少し多く貰ったから、ピンクベリーの飴が五つも買えるんだよ!」
右手にお金を、左手にユリシスの手を握って、レフィスが顔なじみのカルネおばさんの店へと半ばユリシスを引きずる勢いで走っていった。
案の定カルネおばさんにも「小さな恋人」だとか「お似合いだ」とか散々からかわれたが、ユリシスは特に動じる事もなく大人びた様子で受け流し、色気より食い気のレフィスはそれよりもピンクベリーの飴を買う事に夢中でカルネおばさんの言葉もよく耳に入っていない。そんなレフィスに呆れ顔で溜息を吐くユリシスを見て、カルネおばさんが大きな笑い声を上げながら、飴の入った袋とは別に木の実を練り込んだ手作りのクッキーを数枚渡してくれた。
「うわあ! ありがとう!」
「昼ご飯前だから、食べ過ぎるんじゃないよ」
「うん、頑張る!」
その返答にまた大笑いしたカルネおばさんと、袋に入ったお菓子を大事そうに抱えるレフィスを一歩下がった所で見つめながら、ユリシスは自分の心を緩やかに満たしていく温かい漣のような揺れに身を任せ、静かに瞳を閉じた。
居心地の良い、穏やかな時間。辛い現実から目を背け、ぬるま湯に浸かっているような曖昧でゆったりとした感覚はまるで無意識に望んだ夢のようで……けれど手のひらから伝わる熱は紛れもなく、今ここに確かに存在している。
ここに、この無邪気に笑う少女の前にいる間だけは、王子でも逃亡者でもなく、ユリシスはただの「ユーリ」でいられる。悲しみも憎しみも少しの間忘れ去って、空っぽになってしまった心を優しい熱で満たしていく。
見上げた冬の空はどこまでも青く、胸いっぱいに吸い込んだ冷たい空気は体を内側から清めていくようだった。手を振って二人を見送るカルネおばさんと、隣を跳ねるようにして歩くレフィスを見つめた紫紺の瞳には、あの時のような殺伐とした冷たい光はもう微塵もなかった。
村を流れる小川を上流まで辿っていくと、森の奥にこんこんと湧き出る泉へと辿り着く。太陽の光を遮るほど森は深く、けれど泉のある場所だけは不思議な事に木々の天蓋が開け、そこから暖かな光が降り注いでいた。きらきらと光る水飛沫を受けて、泉のほとりに咲くエリティアの花がより一層その香りを強くさせている。深い森の中の為か気温がぐっと下がり、吐き出す息もかすかに色を白く変えた。
「ここね、お気に入りの場所なの。ちょっと寒いけど、ほら! エリティアが沢山咲いてるでしょ。もうちょっと早かったら、ここら辺までいーっぱい咲いてたんだよ」
そう言ってレフィスが指差した場所には、残雪に埋もれたエリティアが茶色に変色して枯れかけていた。残っているのは太陽の光が差す泉のほとりの部分で、もう少ししたら時期が過ぎてすべての花が枯れてしまうのだろう。それを思うと、ユリシスの胸はなぜか切なく締め付けられた。
「……ちょっと、目を閉じてろ」
我ながら、意味のない事をすると自嘲しながらも、ユリシスはそうするのを止められなかった。言われた通りにぎゅっと目を閉じたレフィスを確認すると、自分も静かに目を閉じて、聞こえないくらい小さな声で呪文を唱え始めた。ふわりと風が舞い、ユリシスの髪や服の裾を控えめに揺らしていく。淡く光を纏ったユリシスが呪文の最後を唱え終えると同時に、彼の体から離れた光が沢山の粒子となって辺り一面に降り注ぎ、それは萎れて枯れかかったエリティアを見る間に瑞々しく復活させた。
より一層強くなった花の香りに、思わず目を開けたレフィスが感嘆の声を上げてユリシスに駆け寄った。
「うわぁ! 凄い凄い! ユーリは魔法使いなの?」
問いながら、意識はエリティアへと向いていて、レフィスは何度も溜息なのか感動の声なのか分からない呻き声を上げながら、一斉に花開いたエリティアの側へとしゃがみ込んでいた。
「凄い! エリティア生き返ってるよ! ユーリ、かっこいい」
「……そんなに大した事じゃない」
思った以上に喜んで、なおかつその気持ちを余す所なく伝えてくるレフィスに、逆にユリシスが恥ずかしくなって顔を背けてしまった。
「大した事あるよ。私もこれくらい上手に魔法使えたらなぁ……。そしたらユーリの傷もあっと言う間に治せたのになぁ」
「蛙で部屋を埋め尽くす事はないかもな」
「あっ、あれはちょっと……最後の呪文を間違えただけだよ!」
少し前の失敗を思い出して、レフィスの顔が見る見るうちに赤く染まる。そんなレフィスを見つめていたユリシスが、不意に声を漏らして小さく笑った。
「――あの魔法で十分だ」
穏やかな風が吹き抜けていく。普段あまり表情を変えないユリシスのかすかな笑みに、レフィスの心が小さく音を立てた。始まりの音を恋と認識するにはレフィスはまだ幼く、けれどユリシスの存在が自分の心の中を大きく占めている事ははっきりと感じ取っていた。
虚像にも似た穏やかな村での時間は、ユリシスにとってかけがえのない記憶として刻み込まれていった。安らぎに満ちた小さな村には、ユリシスを癒す多くのものがあった。
地位や権力を必要としない大人たち。血の匂いのしない、澄んだ空気。秒単位で流れる時間は、ここではひどくゆっくりと穏やかに流れている。
ここにあるものは、すべてがユリシスに優しい。その一番は、今も春に似た陽だまりのような笑顔を浮かべて、ユリシスのすぐ側にいた。
「……ありがとう」
声に出すつもりなどなかった言葉が唇から零れ落ちる。それが届いたのかどうかは重要ではなかった。
ただ側に、心を軽くする、少女の笑顔があれば良かった。
もう少しだけ、その優しさに包まれていたいと思った。
暗く、どこまでも深い闇の中を、当てもなく漂う意識を呼び起こすように、何度も何度も呼ばれていた。
この声を、知っているような気がする。耳にする度に胸の奥が優しい熱を持ち、上手く言い表せない気持ちが湧き上がってくる。
闇を照らすひとすじの光のように。
冬に咲く優しい花のように。
凍えきってしまった心を溶かすように、その声は己の中から淡い熱を持って聞こえていた。
声に呼応して、固まっていた唇が僅かに動く。青白い唇から零れた声は音を持たず、けれどそれは確かにひとつの名前を呼んだ。そしてその名に反応して、今度ははっきりと自分の名を呼ぶ小さな声が耳のすぐ側で聞こえた。
「……。……リ……――ユーリっ!」
間近で名を叫ばれ、弾かれたように目を開いた。瞳が視界を確保するより先に体が強引に揺さぶられ、せっかく開いた瞼が強制的に閉じられる。
「……っ」
体の揺れが収まった頃に再度名を呼ばれ、ユリシスが今度こそしっかりと目を開けて状況を把握しようと首をめぐらせた。
温かい部屋の中、ユリシスはベッドの中に横たわっていた。カーテンの開かれた窓の向こうは、少し弱々しい太陽が優しい光を降り注いでいた。窓際に置かれた小さな硝子の瓶に、淡い桃色の花が活けてある。その花を目にしたユリシスの視界に、真横から突然栗色の髪をした少女が割り込んできた。
「ユーリ、起きて起きて! 今日は一緒に村を散歩する約束だよ。早くしないと夜になっちゃう」
そう言ってシーツを剥がしにかかった少女が、勢い余ってそのままユリシスの体の上に思いきり倒れこんだ。あまりの衝撃に一瞬呼吸を完全に止めたユリシスが、恨めしそうに体の上に乗っかったままの少女を睨み付ける。
「……せっかく傷が治ってきてたのに」
「怪我したら治してあげるよ」
「お前が怪我させてるんだろ」
呆れ顔でそう言って、ユリシスがえいっと言わんばかりに体を起こした。当然の如く上に乗っかっていた少女の小さな体が、ベッドの上をごろごろと緩く転がっていく。短く唸ってからのそりと起き上がった少女は、その扱いに不貞腐れるでもなく、逆に意味不明な笑みを浮かべてユリシスを見つめた。
「……何だよ」
「また怪我したら、もっと一緒にいられるね」
屈託なく笑う少女の思っても見なかった言葉に、不本意ながらもユリシスの頬が淡く色づく。それを見られまいと、ぷいっと顔を横に逸らしたユリシスが、あえて無関心を装いながらベッドから飛び出した。
「そう言って、俺に怪我させるつもりじゃないだろうな」
一生懸命に低い声を出したつもりだったが、語尾は少し消えそうに弱く……けれどその思いに気付くには、少女はまだ幼かった。
少し遅めの朝食を終えると、それまでうずうずしていたレフィスが待っていましたと言わんばかりに椅子から飛び降りて、まだ食後のお茶を飲んでいたユリシスの腕を引っ張った。娘の強引な誘いを目にしたリシアは呆れて溜息を吐き、同じように呆れ顔に多少の困惑も交えたユリシスを見て苦笑しつつもやんわりと助け舟を出した。
「レフィス。外は寒いから、ちゃんと上着を着てきなさい。一緒にユリシスの分の上着と、あとマフラーと手袋と帽子も持って来て頂戴ね」
「はあい!」
気持ちのいいくらい元気な返事をして、レフィスがぱたぱたと奥の部屋へ走っていく。レフィスが二人分の防寒着を探して来る間、ゆっくりお茶を飲むくらいは出来るだろう。いたずらっぽくウインクして見せたリシアに、ユリシスはどう返していいのか分からず、一応小さく頭を下げてお茶を飲み干す事にした。
その数分後。女物の赤い上着と白い手袋とマフラー、そしてピンクの花模様が編みこまれたあご紐の長い毛糸の帽子を身に纏い、レフィスと仲良く村へと降りていく羽目になる事をユリシスはまだ知らない。
今日雪はまだ降っておらず、村には穏やかな太陽の光が降り注いでいる。昼前と言う事で村にはいつもより多く人が行き交い、仲良く並んで歩く小さな子供二人に声をかけてくる大人たちも少なくなかった。無論レフィスと村人たちは顔見知りで、一緒にいるユリシスが例の傷を負って村外れに倒れていた子供だと言う事も知っていた。けれど誰もが余計な詮索などせず、連れ立って歩く幼い二人を冗談でからかったり、ユリシスの体を気遣ったりと至って普通の会話ばかりで、正直それがユリシスにはありがたかった。女物の服を着ている事を指摘された時だけは、さすがに居心地は良くなかったが。
「今日はね、お母さんにお小遣い貰ったの! いつもより少し多く貰ったから、ピンクベリーの飴が五つも買えるんだよ!」
右手にお金を、左手にユリシスの手を握って、レフィスが顔なじみのカルネおばさんの店へと半ばユリシスを引きずる勢いで走っていった。
案の定カルネおばさんにも「小さな恋人」だとか「お似合いだ」とか散々からかわれたが、ユリシスは特に動じる事もなく大人びた様子で受け流し、色気より食い気のレフィスはそれよりもピンクベリーの飴を買う事に夢中でカルネおばさんの言葉もよく耳に入っていない。そんなレフィスに呆れ顔で溜息を吐くユリシスを見て、カルネおばさんが大きな笑い声を上げながら、飴の入った袋とは別に木の実を練り込んだ手作りのクッキーを数枚渡してくれた。
「うわあ! ありがとう!」
「昼ご飯前だから、食べ過ぎるんじゃないよ」
「うん、頑張る!」
その返答にまた大笑いしたカルネおばさんと、袋に入ったお菓子を大事そうに抱えるレフィスを一歩下がった所で見つめながら、ユリシスは自分の心を緩やかに満たしていく温かい漣のような揺れに身を任せ、静かに瞳を閉じた。
居心地の良い、穏やかな時間。辛い現実から目を背け、ぬるま湯に浸かっているような曖昧でゆったりとした感覚はまるで無意識に望んだ夢のようで……けれど手のひらから伝わる熱は紛れもなく、今ここに確かに存在している。
ここに、この無邪気に笑う少女の前にいる間だけは、王子でも逃亡者でもなく、ユリシスはただの「ユーリ」でいられる。悲しみも憎しみも少しの間忘れ去って、空っぽになってしまった心を優しい熱で満たしていく。
見上げた冬の空はどこまでも青く、胸いっぱいに吸い込んだ冷たい空気は体を内側から清めていくようだった。手を振って二人を見送るカルネおばさんと、隣を跳ねるようにして歩くレフィスを見つめた紫紺の瞳には、あの時のような殺伐とした冷たい光はもう微塵もなかった。
村を流れる小川を上流まで辿っていくと、森の奥にこんこんと湧き出る泉へと辿り着く。太陽の光を遮るほど森は深く、けれど泉のある場所だけは不思議な事に木々の天蓋が開け、そこから暖かな光が降り注いでいた。きらきらと光る水飛沫を受けて、泉のほとりに咲くエリティアの花がより一層その香りを強くさせている。深い森の中の為か気温がぐっと下がり、吐き出す息もかすかに色を白く変えた。
「ここね、お気に入りの場所なの。ちょっと寒いけど、ほら! エリティアが沢山咲いてるでしょ。もうちょっと早かったら、ここら辺までいーっぱい咲いてたんだよ」
そう言ってレフィスが指差した場所には、残雪に埋もれたエリティアが茶色に変色して枯れかけていた。残っているのは太陽の光が差す泉のほとりの部分で、もう少ししたら時期が過ぎてすべての花が枯れてしまうのだろう。それを思うと、ユリシスの胸はなぜか切なく締め付けられた。
「……ちょっと、目を閉じてろ」
我ながら、意味のない事をすると自嘲しながらも、ユリシスはそうするのを止められなかった。言われた通りにぎゅっと目を閉じたレフィスを確認すると、自分も静かに目を閉じて、聞こえないくらい小さな声で呪文を唱え始めた。ふわりと風が舞い、ユリシスの髪や服の裾を控えめに揺らしていく。淡く光を纏ったユリシスが呪文の最後を唱え終えると同時に、彼の体から離れた光が沢山の粒子となって辺り一面に降り注ぎ、それは萎れて枯れかかったエリティアを見る間に瑞々しく復活させた。
より一層強くなった花の香りに、思わず目を開けたレフィスが感嘆の声を上げてユリシスに駆け寄った。
「うわぁ! 凄い凄い! ユーリは魔法使いなの?」
問いながら、意識はエリティアへと向いていて、レフィスは何度も溜息なのか感動の声なのか分からない呻き声を上げながら、一斉に花開いたエリティアの側へとしゃがみ込んでいた。
「凄い! エリティア生き返ってるよ! ユーリ、かっこいい」
「……そんなに大した事じゃない」
思った以上に喜んで、なおかつその気持ちを余す所なく伝えてくるレフィスに、逆にユリシスが恥ずかしくなって顔を背けてしまった。
「大した事あるよ。私もこれくらい上手に魔法使えたらなぁ……。そしたらユーリの傷もあっと言う間に治せたのになぁ」
「蛙で部屋を埋め尽くす事はないかもな」
「あっ、あれはちょっと……最後の呪文を間違えただけだよ!」
少し前の失敗を思い出して、レフィスの顔が見る見るうちに赤く染まる。そんなレフィスを見つめていたユリシスが、不意に声を漏らして小さく笑った。
「――あの魔法で十分だ」
穏やかな風が吹き抜けていく。普段あまり表情を変えないユリシスのかすかな笑みに、レフィスの心が小さく音を立てた。始まりの音を恋と認識するにはレフィスはまだ幼く、けれどユリシスの存在が自分の心の中を大きく占めている事ははっきりと感じ取っていた。
虚像にも似た穏やかな村での時間は、ユリシスにとってかけがえのない記憶として刻み込まれていった。安らぎに満ちた小さな村には、ユリシスを癒す多くのものがあった。
地位や権力を必要としない大人たち。血の匂いのしない、澄んだ空気。秒単位で流れる時間は、ここではひどくゆっくりと穏やかに流れている。
ここにあるものは、すべてがユリシスに優しい。その一番は、今も春に似た陽だまりのような笑顔を浮かべて、ユリシスのすぐ側にいた。
「……ありがとう」
声に出すつもりなどなかった言葉が唇から零れ落ちる。それが届いたのかどうかは重要ではなかった。
ただ側に、心を軽くする、少女の笑顔があれば良かった。
もう少しだけ、その優しさに包まれていたいと思った。
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