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10・紫苑

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 むせかえるほどに濃い藤の香が、かび臭く湿った室内にいつの間にか充満していた。
 涙に濡れた視界に映る、押し潰された藤の花。そのすぐ側に、白い着物の裾が音もなく翻る。そこから先はあっという間だった。

 薄紅うすべにを組み敷く男の頭を鷲掴みにし、鬼が尋常ならざる力で男の体を薄紅うすべにの上から引き剥がした。強引に上半身を反らされ、弓なりになった背中が鈍く軋む。頭部に爪が食い込み、苦痛に歪んだ男の額からつうっと赤い血が尾を引いた。

 大きく仰け反った喉元が苦しげに上下し、半開きの口から唾液が零れ落ちる。呼吸すらままならず喘ぐ男を氷の眼差しで見下ろした鬼は、凄まじいほどの殺気を纏いつつも一言も声を発しない。
 無表情のまま見下ろされる恐怖。激しい怒気に揺れるあけの双眸に、男は禁忌の領域に手を出してしまったのだと悟る。けれども悟ったところで、何が出来るわけでもなかった。

 鬼の手の下で響いた鈍い音をかき消すように、雨脚が一瞬強くなる。
 萎れた枯れ枝のようにぐったりとした男の体を部屋の隅へ放り投げ、薄紅うすべにへ視線を落としたときにはもう赤い瞳に怒り狂った感情はかけらも残っていなかった。

「……薄紅うすべに

 声に反応して、薄紅うすべにの体がびくんと震えた。乱れた髪は頬にへばり付き、ほっそりとした鎖骨が見えるほど着物ははだけてしまっている。その襟元を震える手で掻き合わせた薄紅うすべにへ自身の羽織を掛けてやり、鬼が何ものからも守るように薄紅うすべにの華奢な体を両腕の中に閉じ込めた。
 髪を撫で、背中を撫で、落ち着くまで何度も何度も名前を呼ぶ。
 熱を持たないはずなのに、薄紅うすべにを抱きしめる鬼の体はなぜかほんのりと温かい気がした。


***


 目を開けると、薄紅うすべには屋敷の離れへ戻ってきていた。
 柔らかく香る藤の匂いに顔を向ければ、傍らに寄り添う鬼が薄紅うすべにの肩を優しく抱いている。

「……貴方が、ここへ?」

「藤の香を辿って戻った。……少し眠れ」

 雨音は未だ激しく屋根を叩き付けていた。乱れた着物もそのままで、肌を這ったおぞましい手の感触も生々しく残っている。手籠めにされることだけは免れたが、組み敷かれたあの時の恐怖は未だ薄紅うすべにの心を支配し、竦んだ体が痙攣するように震えていた。

「もう少し……そばに、いて下さい」

 男に触れられた体を、記憶を、鬼の手で上書きして欲しかった。儚い力で胸に縋る手を優しく包み込み、鬼が少しだけ強引に薄紅うすべにの体を抱きしめた。

「助けて下さって、ありがとうございます」

「……間に合って良かった。私の――」

 薄紅うすべに、と消え入りそうな声で名を呼ばれ、顔を上げる。間近に重なる赤い瞳が、愛しげに細められた。
 どちらからともなく見つめ合う距離を寄せ、薄紅うすべにが瞼を閉じそうになった瞬間。まるで計ったかのように、部屋に近付く慌ただしい足音が響いてきた。

薄紅うすべに! 薄紅うすべに、戻っているのか!」

 返事も待たず襖が開けられ、蘇芳すおうが部屋へ一歩踏み入ったところで硬直する。
 乱れた着物の薄紅うすべにと、こちらに背を向けた白髪はくはつの見知らぬ男。薄暗い部屋で抱き合う二人の姿に誤解を生じるのは当たり前で、わなわなと肩を震わせた蘇芳すおうが顔を真っ赤にさせて激昂した。

「何をしているっ! お前は誰だ!!」

「お父様! 違います! 彼は私を助けてくれて……」

「こちらへ来なさいっ、薄紅うすべに!」

 有無を言わさず腕を掴んで引き離される。蘇芳すおうの後ろに控えていた常磐ときわがすかさず薄紅うすべにの体を抱きしめて、心配そうに薄紅うすべにの名を呼んだ。

「今すぐここを出て行け。二度と薄紅うすべにに近付くな!」

 項垂れたままだった鬼がゆるりと立ち上がり、白い髪を妖しく揺らしながら蘇芳すおうへと振り返る。無表情の顔に、わずかに歪んだ笑みが浮かんでいた。

「その言葉を聞くのは二度目だ」

 頭に生える二本の角。恐ろしいまでに冷たく光るあけの双眸。人ならざる者の姿、その顔を目にした蘇芳すおうの体がおかしいくらいに震えていた。薄紅うすべにを抱きしめる常磐ときわも、小さく悲鳴を上げて鬼の顔を凝視している。

「お前は……っ」

 声を詰まらせ、鬼の姿を映した瞳が恐怖に大きく見開かれた。

「……紫苑しおん、なのか……?」

 蘇芳すおうの問いに答えるように、庭の藤が一斉に激しくさざめいた。


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