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13・常磐の思い

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 部屋の中には奇妙な香りが充満していた。
 檜のような匂いに混ざって、すり潰した草を思わせる青臭さが少しだけ鼻を突く。ゆっくりと布団から体を起こすと、部屋の隅で何やらこうのようなものが焚かれているのが見えた。

「私、どうして……?」

 曖昧な意識を引き戻そうとすると、鈍い頭痛が薄紅うすべにの邪魔をする。ずきりと痛む度に明滅する記憶が、薄紅うすべにの中でぐるぐると渦を巻いて絡まり合う。

 山藤の下で藤のかんざしを挿してくれたのは誰だったのか。
 庭の藤棚の下で薄紅うすべにを見つめていたのは誰だったのか。
 暴漢から薄紅うすべにを助けてくれたのは、肌を重ねて愛し合ったのは誰だったのか。

薄紅うすべに

 優しい声で名を呼ぶ青年の顔が見えない。

薄紅うすべに

 感情の見えない声で名を呼ぶ鬼の名前を知らない。

『やはりお前には藤が良く似合う』

 けれどそのどちらもが、薄紅うすべにを愛おしく見つめていた。

「――紫苑しおん、様」

 蘇芳すおうが呼んだ鬼の名を繰り返すと、それはなぜだかひどく呼び慣れた名前のように薄紅うすべにの心に染みこんだ。


***


「お嬢様」

 襖の向こうで常磐ときわの声がした。十分な間を取って開けられた襖の向こう、現れた常磐ときわは隠しきれない苦悩の表情を浮かべて部屋に入ってきた。

「お嬢様。……思い出されたのですか?」

 問われて、さきほど夢に見た記憶の断片が頭をよぎる。
 分家の息子、紫苑しおんと密かに思いを通い合わせていたこと。
 蘇芳すおうに反対されていた恋路を、陰から助けてくれていたのが常磐ときわだったこと。
 未婚でありながら貞操を守らず、紫苑しおんと愛し合ったこと。
 そして紫苑しおんと駆け落ちしたことも全部、昨日の出来事のように鮮やかによみがえる。
 小さく、けれど確かに頷くと、常磐ときわが眉尻を下げて静かに目を伏せた。

「……そうですか」

常磐ときわ。教えて頂戴。お父様はあの鬼を紫苑しおんと呼んだわ。私が病に倒れている間に何があったの? いま、紫苑しおん様はどこにいるの?」

 薄紅うすべにの言葉に常磐ときわがわずかに目を見開いて、その視線を躊躇いがちに畳へ落とした。
 紫苑しおんとの関係を思い出してはいても、肝心なところの記憶はまだ蓋がされている。けれど不安げに常磐ときわを見つめる薄紅うすべにの表情は、鬼の名前から連想してしまった悪い予感を必死に振り払おうとしているようでもあった。

「お嬢様……。今この屋敷には、鬼除けのこうが焚かれています」

 部屋の隅に置かれた香炉から漂う奇妙な香りが、薄紅うすべにの心に言い知れぬ不安の影を落とした。

「明日の朝には庭の藤を切り倒すようにと、いま旦那様が人集めをされていらっしゃいます」

「……っ!」

 慌てて立ち上がりかけた薄紅うすべにを、常磐ときわが腕を掴んで引き止める。項垂れ懇願するように名を呼んだ常磐ときわの声は、胸を打つほど悲痛な色に染まっていた。

「お嬢様。私は……お嬢様に幸せになって欲しいのです。そして青磁せいじさんならお嬢様を、今度こそ幸せにして下さると信じています。だからどうか……どうか、紫苑しおん様の事はお忘れになって幸せになって下さい」

 いつか聞いた幻だと思っていた常磐ときわの言葉が、現実のものとなって薄紅うすべにに届く。あれは常磐ときわの心の声だったのかと思うと同時に、薄紅うすべにの心にどうしようもない切なさが込み上げてくる。
 薄紅うすべにの幸せを心から望む常磐ときわ。その愛情を有り難いと思う反面、常磐ときわの思いに答えられないことが申し訳なくて言葉が出ない。

 けれど、薄紅うすべには思い出してしまった。
 薄紅うすべにを愛し、薄紅うすべにも全てを捧げるほどに愛した男がいたことを。

「ごめんなさい、常磐ときわ

 薄紅うすべにの心を知り、常磐ときわが掴んでいた腕を放してくずおれた。

「私は紫苑しおん様のもとへ参ります」

 はっきりと告げた薄紅うすべにの心が、もう変わることはないのだと常磐ときわは悟る。ならばもう常磐ときわに出来る事はひとつしかない。

浅縹あさはなだの家に、もう紫苑しおん様はおられません」

 動揺に揺れた薄紅うすべにの瞳に、躊躇いながらも真っ直ぐに顔を上げた常磐ときわが映った。

「離れにある薄紅うすべに様のお部屋。一番下の箪笥の引き出しを開けて下さい」


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