楽園ーPの物語ー

ブーケ

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許し

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「サキシア、サキシア。起きて、遅れるわよ、サーヤ」
 白い朝の光の中、肩を優しく揺らされる。
 サキシアは懐かしい声に目が覚めた。
 幼い頃聞き慣れた、母の声だ。
 肩には未だ感触が残っている。
 昨夜は祭りの練習に駆り出された。
 村の女性有志が、歌い踊るのだ。
 子守唄代わりに聴かされた歌だったが、踊るのは勿論、堂々と歌うのも初めてだった。
 それは思いの外心地よい疲れを呼び、サキシアを久しぶりに深く眠らせたのだ。
 息を大きく吸うと、サキシアの瞳から涙が溢れた。
 ただただ涙が、こめかみを伝って髪を濡らす。
 それは胸の中で光の粒が跳ね回るような、中からぼおっと暖まるような、気持ちの良い涙だった。
 ずっと泣いてはいけないと思っていた。
 両親を困らせてしまうからだ。
 そして泣かないと決めていた。
 負けてしまうと思ったからだ。
 顔のアザに、世間に、自分の運命に。 
 母の亡骸を撫でた時でさえ、ずっと堪えていた。
 けれどもう、泣いても良いということだろうと感じた。
 サキシアはそのまま、涙が流れるままに、任せた。
 
 サキシアは朝の支度を急いで済ませ、いつもと同じ時間に作業を始めた。
 湯を沸かしながら、干した黄花を天秤で量る。
 重さをノートに書き込むのも忘れなかった。
 良い色が出たら製法を書き写し、見本と共に、ギャンに渡すのだ。
 ギャンがそれを基に、染め物屋に注文する。
 仕立て屋に置いたその布の評判は上々で、店で反物自体も売るようになっていた。
 沸いた湯に黄花を入れると、表に蹄の音がした。
「あらギャン。又来たの?今日は早いわね」
 出迎えたサキシアは笑顔で、言葉とは裏腹だ。
 秋に向かう風が、気持ちよくその首筋を冷やす。
 帽子を取ったギャンも、明るい笑顔だ。
「依頼主としては、当然じゃないか」
「報告にはきちんと伺っています。それに薪は、一昨日届けて頂いたばかりだわ」
 その後のデートもお茶の時間も、今では決まり事になってしまっている。
「今日は良いものがあるんだ」
 ギャンが自慢気に顎を上げる。
「この間みたいに、突然笛を吹くのは止めてね。お茶でむせって酷い目に会ったわ」
「珍しい果物を貰ったんだ。一緒に食べよう」
 ギャンは袋の口を開け、テーブルに丸い実を三つ並べた。
 淡い黄色で、微かに緑がかっている。
 大きさは大人の拳程だ。 
「手で剥いて食べるのね。じゃあ手を出して」
 サキシアは柄杓で水を汲み、ギャンの両手に掛けた。
 自分の手も洗い、乾いた布をギャンに渡す。
「綺麗な色ね。爽やかな匂い」
「そうでしょ?新しいうちにって、急いで持って来たんだ」 
 向かい合って腰掛け、一つづつ実を手に取った。 
「頂きます」
 厚い皮に爪を刺すと、少し苦い香気が立つ。
 中の薄皮は柔らかく、一房含むと程よい甘さと僅かな酸味、角の無い香りが、サキシアの口一杯に広がった。
「美味しい」
「そうだね」
 サキシアは機嫌好く、房を次々と口に運ぶ。
 その笑顔と果物を一緒に味わう、ギャンは更に上機嫌だ。
「ねえサキシア。俺と結婚したら
、毎日こんな楽しい時を過ごせるよ」
 サキシアは一つ目の果実の、最後の房を飲み込んだ。
「そうね。そうさせてもらうわ」
「えっ?」
 ギャンが固まった。
 状況に頭が追い付かないのだ。
「えーと」
 残った果実を意味もなく転がしながら、目はサキシアに釘付けだ。
 そして視線をさ迷わせた後、やっと言葉を探し出した。
「本当に?いっつもけんもほろろじゃないか」
「私は滅多に嘘をつかないわ」
「それは・・・知ってるけど・・・うん、知ってる。俺は確かに知っているんだ」
 ギャンが顔を真っ赤にして、勢いよく立ち上がった。
「滅多につかない嘘がこれだとか、取り消しだとかはなしだよ?絶対に俺の奥さんにするからね!あ、そうだ。隣のご夫婦を呼んでくるよ。証人になってもらう」
 目を丸くして捲し立てるギャンに、サキシアは呆れた。
「そんなに信じられないの?誓約書でも書きましょうか」
「だって、サキシア」
 眉を八の字にするギャンを見て、サキシアはとうとう笑い出した。 「貴方といると、子供の頃を思い出すわ」
 そう言って、ギャンの左頬に触れる。
 ギャンの体がピクリと震えた。
「だけどもう、私はあの時の子供じゃない。愛されてるって、貴方が信じさせてくれたから」
 ギャンは益々眉尻を下げ、顔をくしゃくしゃにして、サキシアを抱き締めた。
「有難うサキシア。本当に有難う」
「こちらこそ」
 サキシアも優しく腕を回す。
 その体温と感激を、十分に味わってから、ギャンは静かに抱擁を解いた。
 今度はサキシアの二の腕を掴む。
「実はまだ、俺が一番欲しい色は出来てないんだ」
「理想があったの?どんな色?」
「青なんだ。深くて、艶があるんだけど、清らかな青」
「確かに、青系統は少ないわね。もうちょっと具体的に教えてもらえないかしら」
 尋ねたサキシアにギャンの目が答えた。
―ああ、そうか―
 サキシアは理解した。
 ギャンもあの頃の子供ではない。
 顔のアザに、別の意味を与えてくれようとしていたのだ。
 自分を呪縛から解放する為に。
 そしてその時期が来るまで、何ヵ月も待っていた。
 この人といれば、気を張り、顎を上げなくても、生きていける日がきっと来る。
 気分次第で俯き、髪型も好きに出来るだろう。
―この選択は正解だったー
 サキシアは確信した。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
  
 
 
 
 
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