私とラジオみたいな人

あおかりむん

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みがわり【身代(わ)り・身替(わ)り】

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みがわり【身代(わ)り・身替(わ)り】本来当人がすべきことを、他の人がその人に代わってすること。また、その代わりの人。



『これからの時期ですと、紫陽花、百合、てっせん。もう少し季節が進めば朝顔、ひまわり、ほうずき。あまり時期を気にせずに着たいということであれば、無地で淡い色のロもございます。もちろん帯も夏柄のものを取り揃えておりますよ。よくご覧になりたいものはございますか?』『奥さまは凛とした雰囲気をお持ちですから、コイアイのような濃いお色もお似合いになると思いますよ。こちらは柄も控えめですから普段着にも訪問着にもできます。こちらはサですから夏の盛りには涼しくて着やすいですよ』『とりあえず三、四枚買っていったらいい。気に入るものが無ければ仕立てても構わないぞ』『それか小物から選ぶのはいかがですか? 小物に合わせてお着物を選ぶ方もたくさんいらっしゃいますからね』あちこちから絶え間なく声が聞こえ、目の前に次々に着物が並べられてゆきました。肇様は着物を買い与えようとしているご様子ですが、私はあくまで紗世様の身代わりですから紗世様の好みに合わせて選ぶのが妥当だと思いました。しかしながら、私は紗世様の好みどころかお顔さえ存じ上げないので、とんでもなく勝率の低い賭けに駆り出された気分でした。しかし、何も選ばないという選択肢も皆様のにこにこした顔の前には存在しません。私は背中に嫌な汗をかきつつ、肇様の『三、四枚』という言葉を頭の中で繰り返し膝元すぐに置かれた着物を指さしました。お店の男の人と女の人が嬉しそうな声を上げる中、そのすぐ右、そのまた右の着物を続けて指さしました。『その三枚がお気に召しましたか?』という女の人の問いに頷くと、すかさず肇様が『じゃあ次は帯だな』と言いました。私は先ほどと全く同じ要領で一番近くにあった帯とその右に並ぶ二本を指さしました。すると、お店の男の人と女の人が顔を見合わせた後、肇様を見ました。私もつられて肇様のお顔を見上げると、肇様はしばし何も言わずにいましたが私のすぐそばににじり寄ると、私が指さした着物と帯を眺めつつ『君は青色が好きだと思っていた。いつも着ている着物もウスミズ色とハナダ色だし、好きな蝶はルリシジミだ。でも選んだのは薄緑色とムクゲ色、エビチャ色のアザミ柄。どこが良いと思ったんだい?』と尋ねました。近くにあったからという理由だけで選んだので良いとも悪いとも思っておりません。紗世様の好みを知らない私が頭を捻って選ぶよりはお店の方が並べてくださったとおりに選んだ方がいくらかましだと思ったのです。どう答えても余計なことになってしまうと思い何も言えずにいると、肇様は『答えられないなら選び直しだな』と目の前の三枚の着物を脇に放ってしまいました。乾いた音を立てて畳の上を滑った着物をしばらく見たあと、もう一度肇様の顔を見上げるとにんまりと笑っていました。そして『こうなる気がしたから午前中から出かけたのだ。君がいいと思える着物を選べるまで昼食のスキヤキはお預けだ』と笑いを含ませながら言いました。
 『君がいいと思える着物を選べるまで』と肇様は言いますが、紗世様がこの場にいなければ正解がわからないのですから永遠にスキヤキなるものを食べに行くことはできません。私は必死になって旦那様や誠一郎様、香織様の紗世様に関する言動を思い出しましたが、いかんせん体調の加減と『お前のようなものが紗世の代わりに成りようがあるまい』といった怒鳴り声しか聞いたことがありませんでした。私が紗世様の身代わりとして相応しくないのが事実であれば、私には到底似合わぬ着物を選べばよい気がしました。なので、お店の方が出してくださった着物を端から合わせて変だなと思ったものを選んでみました。しかし、そのたびに肇様に『似合っていない』と言われて脇に放られてしまいます。似合ってない方がきっと正解に近いのに、そう思いながら数を減らしていく着物を前に私は立ち尽くしました。これまで生きてきた中で一番難しい問いにここで直面してしまったのです。私は姿見の前に座り込み着物を眺めながら、帰ってラジオが聞きたいとぼんやり考えてからラジオはもう無いことを思い出しました。着物選びをやめてしまった私を見て、お店の女の人が『少し休憩なさいますか? お茶をお持ちいたしますわ』と言って出て行きました。男の人は少し前に他の仕事があるとかですでに席を外していたので部屋には私と肇様の二人きりになりました。いつも喋り通しの肇様は黙ったままだし、初めての着物選びに随分くたびれてしまったし、おなかも空いたので私は立てた膝に額をつけて目を瞑りました。『コンインゾウテイ』なんてもうやりたくないと思いました。




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