私とラジオみたいな人

あおかりむん

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じぶんかって【自分勝手】

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じぶんかって【自分勝手】他人の迷惑などは考えず、自分にだけ都合がいいように行動する様子だ。



 私は旅行という行事の実際を知りませんが、伝え聞く限りでは観光名所を見たり、その土地の名物を食べたり、旅館なる場所でくつろいだりして楽しく過ごすものだと理解していました。おそらく私の認識は世間様とそこまでずれてはいないはずです。なので、今こうして踏み固められただけの登り坂でひんやりとした森の中へと分け入ってゆく過酷な行程を旅行とは呼ばないと思うのです。『あっ! 今何かがあちらへ飛んで行ったな! ヒョウモンかなあ。捕まえてくるからちょっと待っててくれ!』と肇様は軽い足取りで森の中へ消えてゆきました。私は荒い息のまま遊歩道の脇に腰を下ろしました。篠花家の別荘に到着してから三日目、肇様は『蝶を見にいこう』とおっしゃって、松田さんが用意してくれていたらしいシャツとズボンに靴を履かされ、別荘から連れ出されました。昨日は私の希望を受け入れて一日中ラジオを聞かせてくれたので、私も渋々ではありますが肇様の提案に同意したのです。始めは歩きやすい平坦な道だったのですが、徐々に険しくなり森も深くなって来ました。私は平地と変わらない足取りの肇様についてゆくのが精一杯でした。まだ息も整わないうちに肇様が戻って来て『ウラギンヒョウモンだった! ほら羽の裏側に銀色っぽい斑点があるだろう。よしよし、こいつは持って帰ろう』と言って蝶を三角の半透明の紙に収めてベルトにさげた入れ物にしまい込みました。肇様は額に汗こそ浮かんでいますが、いつも以上に生き生きとして饒舌でした。ラジオに負けず劣らずさらさらとたくさん話をしてくれるものの、問題は私に話を聞く余裕が無いということです。肩で息をして地面に座り込んだまま立ち上がれないでいると、肇様は隣に腰を下ろし水筒のお茶を差し出してくれました。遠慮をする元気もないのでありがたく飲ませてもらい、ようやくひと心地ついた気がしました。肇様はハンカチで私の顔を乱雑に拭いてきたのでその手を押しのけると何故か楽しそうに笑って『君は家と車の間くらいしか歩かないものなあ』と言いました。一瞬皮肉を言われたかとどきりとしたのですが、盗み見た肇様の横顔はにこにこと上機嫌でとてもそんな意図は感じられませんでした。『ほらあそこの濃い桃色の花、ショウジョウバカマだよ。家の周りでは見たことないな。とまっているのはなんだろう、トラフシジミかな。ここに来るまでに十匹以上見たな。今の時期あちこち飛んでいるんだよ。あ、レンゲショウマだ。あそこあそこ』と肇様は目についた花や蝶を私に説明し始めました。『ほら、ちょっと背の高い、白い花がいくつかついているやつ。そうそう。あれはちょっと珍しいよ』と私に身体を寄せて目の高さを合わせて前方を指さしました。地面を向いて咲く白い花を見つけて頷くと、肇様は『レンゲショウマってなんだか君っぽくないか? 綺麗な花なのに下を向いているところとか。ひんやりした木陰でこっそり咲いている感じとか』と言って笑いました。これは流石に揶揄われたとわかったので、私はそれ以上言われる前に立ち上がりました。立ち上がった私の背中を数回叩いた肇様はまた意気揚々と歩き始めました。別荘を出てからどのくらい時間が経っているのかわかりませんが、もう一日中歩き回ったくらいの心地でした。数分の休憩ではろくに疲労も回復しません。両足首の腱のあたりに靴に当たって歩くたびに痛みますし、右足はつま先もズキズキとしました。終始上機嫌で蝶を見つけるたびにそちらへ走り出す肇様と距離が出来そうになるたびに駆け足をするのも辛く、だんだん気分が悪くなってきました。耳鳴りがして肇様が興奮気味に話す内容もいまいち聞き取れなくなってきました。もう今すぐ立ち止まってしゃがみ込んでしまおうかとぼんやりした頭で考えていると前を歩く肇様にぶつかってしまいました。弾き飛ばされそうになった私の身体を肇様が抱き留めてくれましたが、咄嗟に面倒をかける訳にはいかないと思い自分の足で立とうとしました。すぐそばにある肇様の胸を押しましたが、くらくらとする頭ではびくともしないので全部肇様のせいだからもういいやと早々に諦め、身体から力を抜いて目を瞑りました。
 次に目を開けた時、まず始めに見慣れない天井が目に入りました。次に顔に当たっていた風が止んで肇様の声がしました。寝起きではっきりとしない頭で声のした方に視線をずらすと眉根を寄せた肇様がこちらを覗き込んでいました。肇様は『倒れるまで気が付かずに本当にすまなかった。僕が張り切ると碌なことにならない』と消沈した様子で言いました。それから私が貧血で倒れたこと、倒れたのは十分ほどで別荘に裏手に出る場所だったこと、肇様が私を背負って別荘まで戻ってきたことを端々に反省と謝罪を交えて話してくれました。私も肇様が悪いと思っていたので黙って聞いていましたが、肇様に腹が立つよりも純粋に不思議に思いました。今まで私の周りにいた人たち──母と斎明寺家の皆様はとても親切な人たちでした。あまり役に立たない私の面倒を見てくれた優しい人たちに不快な思いをさせてしまうのはいつも私の方でした。私が悪いのですから私が謝らなければなりません。そのことに疑問を持つ余地はありませんでした。一方で肇様は私にとって初めてのちょっと嫌な人です。自分勝手な言動で私を振り回したり泣かせたりするひどい人だと思います。けれど、親切な人たちのそばいる時よりも肇様といる時の方が緊張しないのです。今だって目の前にいるのが肇様ではない方だったら、こんなふうに呑気に寝転んでなどおらずに倒れてしまったことを平身低頭謝罪していたと思うのです。
 私は仰向けになっていた身体を横に向けて肇様の顔を見ました。容姿の美醜はあまりよくわかりませんが、整った顔立ちなのだろうということはわかります。街を一緒に歩いていると、女の人だけでなく男の人でさえも肇様に視線を向けるからです。肇様はそんな顔を情けなくゆがめて私なんかに謝ってくれる不思議な人でした。私を決して紗世と呼ばない人、自分勝手なのにすぐに自分が悪いと認める人、そしてラジオみたいな心地よい声の人。──紗世様が大の虫嫌いだったらいいのに。そうしたら私が要らなくなった後も少しくらいなら私のことを覚えていてくれるかもしれないから。愚かにもそんなふうに考えてしまうのです。




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