私とラジオみたいな人

あおかりむん

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ふみこ・む【踏(み)込む】

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ふみこ・む【踏(み)込む】相手の抵抗などを無視して入り込む。



 大きな座布団が部屋に置かれてからしばらくして、また昼間に縁側に出る障子がすらりと開く音がしました。家を飛び出した日以来、一度も障子は開けていなかったので私は深く考えずにごろりと座布団の上で寝返りを打ってそちらを見ると、障子の隙間の低い位置から肇様の顔が半分覗いていました。私が驚いて硬直している間に、肇様は障子をさらに開けて胸辺りまで部屋に入ると横向きで片肘をつく格好になりました。何も言わずにじっとこちらを見つめる肇様を私も何も言えずに見返していたので奇妙な沈黙がしばらく部屋に満ちました。『みんなには落ち着くまでそっとしておいてやれと言われたのだが、ずっと腫物みたいに遠巻きにしていて状況が良くなるとは僕には思えなくて』と徐に肇様は言いました。最初は何を言われているのかわからなかったのですが、すこし考えて私のことだと思い当たりました。『時間が解決してくれる問題かどうかは周りの人間ではなく本人が決めることだろう。僕は人の感情のキビなどまるでわからない人間だから直接君に聞きに来た。もし君が手助けを必要としているなら僕に手伝わせてほしい』と肇様は続けて言いました。私は肇様が何を言いたいのかよくわかりませんでした。私には問題なんて何もありません。ここにいろと言われたからここにいるだけです。そう肇様に言いました。肇様は眉間に皺を寄せて身体を起こすとさらに障子を開け半身を部屋に入れて胡坐をかきました。『なにも問題が無いはずあるか。十日も部屋に籠りきりで食事もまともに取らない。誰とも話さない。夜中だって何度も目を覚ますらしいじゃないか。どう考えても問題だらけだ。それに君をこの家に連れ戻したのは僕だが、一歩も外へ出るななんて言っていないだろう。散歩だって買い物だって稽古事だって今まで通り好きにしていい。ただ誰にも行き先を言わずに黙って出て行くのはやめてくれと言っているんだ』と言いました。前まではさらさらと聞けた肇様の声もどうしてか今は耳の奥に刺さるようでした。肇様のおっしゃっていることは全て正しいと思います。全て正しいです。私がどうしようもなく間違っているだけなのです。だから私は謝りました。座布団に横たえていた身体を起こして、畳に正座して、深く頭を下げて『申し訳ございませんでした』と謝りました。肇様は『やめてくれ、謝らせたいわけじゃない。僕は君と話をしにきたんだ』と言いました。私は肇様が何を言っているのかわかりません。私は笑って頷くことと黙って頭を下げることしかできないのです。畳に額を付けたままもう一度『申し訳ございません』と謝りました。しかし謝罪の言葉を言い終わるよりも早く、衣擦れの音がしたかと思うと肩を強く掴まれて無理矢理頭を上げさせられました。肇様は怖い顔で私を見つめて言いました。『いつまでそうやって拗ねているつもりなんだ。当て付けるみたいに土下座なんかして僕になんて言って欲しいんだ。かわいそうに、ずっと部屋の隅でめそめそしていなさい、とでも言えばいいのか?』肇様の言い様に私はカッと頭の芯が熱くなるのを感じました。ただ激しい感情に任せて肇様の頬を思い切りはたきました。ドクドクと心臓の音が耳のすぐそばで聞こえるようでした。私は私が出来ることをしているだけです。人間として存在することを許してもらえるように、誰かが望む通りに精一杯頑張っているのです。それさえも否定されたら私はどうやって生きていけばいいのですか。そう肇様に叫んでいました。きっと肇様にはわかりません。両親や兄弟や友人に囲まれ望まれて生きて来た人に、私みたいなごみの気持ちなんてわかるわけがない。『わからないよ。僕は誰かに理不尽に殴られたことも、意思を蔑ろにされたことも、他人の人生を肩代わりさせられたこともない。けれどそれは君も同じだろう。君だって僕が今までどんなことを感じて生きて来たかなんてわかるわけがない。当たり前だ、違う人間なんだから』肇様は私の両腕を掴んで離してくれません。私は無我夢中で暴れました。『他人の頭の中なんて覗けないから僕らには言葉があるんだろうが。言葉を尽くしても理解には足りなくて、でも諦めずにまた言葉を尽くして、何回も何回も失敗してここまで来てるんだよ。最初から“わかるわけがない”で締め出さないでくれ。君をわかりたいと思う僕を見ないふりをするな』私は肇様の胸を握りしめた手で何度も叩きました。私の身体を引き寄せようとする腕を突っぱねようとしました。けれど、涙でぼやける視界と引き攣る呼吸のせいでまともな抵抗にならず、あっという間に抱き竦められてしまいました。いやいやと首を横に振っていれば肇様は耳元で『本当に嫌なら合言葉を言ってくれ。でないと離してやれない』と言いました。私は声を抑えることもせずに泣きました。私の冷たい身体に移ってゆく肇様の体温がどうしようもなく愛しいと思って、ただただ泣き続けました。




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