上 下
44 / 324
第八話 覚悟と不信

8-6.想定外

しおりを挟む
 ロータス効果だ。彼は汚せと言ったけれど、きっと汚れたりなんかしない。泥の中でも蓮の葉が綺麗なままなように、彼も汚れたりなんかしない。その自浄作用で彼女まで癒してしまう。

 けれどやっぱりそれは一時のこと。彼女が覚悟を決めるなら、それはやっぱり彼を手放すための覚悟。先のないことを思い知り、やめたくなったときに笑ってさよならをするための覚悟。

(ごめんね)
 いくら心を捧げられてもこれだけは譲れない。いつか彼とはお別れすることの確信。彼は誠とは違う。いつか必ず離れていく。
(でも、ありがとう)
 幸せだ、とても。

「ありがとう」
「先輩、忘れてないよね?」
「え?」
「今度会ったらキスするって言った」
「そうだったね」
 苦笑いして目を伏せる。
 触れるだけのやさしいキスを何度も何度もした。




 一ノ瀬誠は珍しく水面を渡る風に吹かれていた。河原の土手の芝生。
 誠はここには滅多に来ない。それなのに昨日も今日も来てしまった。そして滅多に会わない人物に声をかけられてしまった。
「珍しい。なにしてんの?」
 村上達彦が寄ってくる。誠の暗い表情を見てにやりと笑った。
「ははは、なんだその顔。あの子が池崎とやらかした?」
 返事をする気も起らない。

「馬っ鹿だなあ。自分が煽っといて何落ち込んでんの? 僕への牽制に池崎を置いてったんだろ、それで自分がしてやられちゃってるの? とんでもない馬鹿。策士策に溺れるってやつ?」
 反応を返さない誠に白けた顔をしつつ達彦は先を続けた。
「だとしてもしてやったりだろ? 君はいつもあの子の罪悪感すら利用してるんだから」
 この男は本当にひねくれている。だから誠の意図がよくわかるのだろう。どんな手段を使ってでも彼女を放すまいとする足掻きが。

「冷静さを失くすほど濃厚なとこ見せられちゃった?」
 その通りとも言えずに誠はため息をつく。
 見なければ良かった、あんな場面。あんな彼女は初めて見た。長く一緒にいた澤村祐也にだって、あんな隙は決して見せなかったのに、あんなふうに体中で男に縋り付く真似をするなんて。

 想定外。彼女があんなふうになるなら、相手は巽しか考えられなかった。
 あるいは、と隣を横目に見る。事情を知るこの男ならまだ可能性はあった。だからあれほど警戒したと言うのに。
しおりを挟む

処理中です...