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第二十九話 花と落涙

29-9.もう責めない

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「大丈夫。言わない、言わないから」 
 泣き崩れる体を抱いて言い聞かせる。
「お願い……」
「言わないよ、絶対に言わない」
 なんとか宥めてベッドに運び寝かしつけた。体を丸くして眠る彼女をシーツの上から抱きしめる。

 自分は馬鹿だ。あんなにあんなに追い詰めて、あんなに泣かせたのに、また同じことをしてボロボロにした。何も変わらない、愚かな男。

 彼女の怒りも憎しみも本当だろう。疲弊しきって怒りだけを糧に自身を支えている。その一方で気づいてしまったのだ。

 ――これが堕落?

 彼女にとって男に抱かれることなど何ということもない。その背徳の行為に比べれば。

 ――お兄ちゃんとはこんなことしない。

「ごめんよ」
 浅はかにまわりが何を画策しようと彼女自身ずっと堪えていた。ずっとずっと耐えていた。
「ごめんよ……」
 もう責めない。もう何も責めたりしない。たとえ君が堕ちる日が来たとしても、地獄へだってついていく。絶対に離れない。
 望むのはそれだけだから、どうか許してほしい。いくらでもなんだって、償うから。




 翌日も良く晴れた目に染みる青空で、達彦はまた墓所に足を運んだ。
「あんたの息子は馬鹿だよね」
 そんなこともあなたにはわかっていたのかもしれない。利口ぶって親を見下していたことも。だって、歯がゆかったんだ。

 どうして何も欲しがらないの? 与えて与えて、何が得られるというのか、達彦には到底理解できなかった。
 おそらく母にはわかっていたのだ。聡明な女性ではなかった、むしろ愚かな女だった。それでも愛を知っていた。与えるだけで見返りがないものこそ愛なんだ。

 ――あなたは本当はいい子。

 信じることが愛なんだ。

 朝、目覚めたとき美登利が訊いてきた。
「私、何か言ってた……?」
「何も」
 とぼける達彦を瞬きをして見つめてから、美登利は弱々しく目を伏せた。
「誰にも言わないで」
 言わないよ。棺桶に入っても。

 もう奪おうだなんて思わない。矮小でくだらないプライドは捨てて彼女に跪く。ただの男に成り下がる。得られなくていい、ただそばにいたいんだ。

 その日、卑屈で狡猾、矮小でプライドばかり高いうぬぼれ屋のくだらない、自尊心のかけらもない、惨めで器量のない人間であったところの男は、初めて愛を自覚して、花に埋もれた母親の墓の前で涙を落とした。
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