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第三十四話 約束

34-1.「何発やられた?」

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 わざわざ姿を現した彼に一ノ瀬誠は苦く笑う。
「何? わざわざ挨拶に来たの?」
 最近気に入っている図書館近くの喫茶店。本を借りに来たときにはここで一息つくことにしている。
 誰に聞いたのか池崎正人がやって来た。

「座れば?」
 本をどかして勧めると、正人は固い表情で腰を下ろしてコーヒーを注文した。店員が離れるなり頭を下げる。
「すみません」
「どうして謝る? 黙って見ててやるって言っただろ」
「自力でやり切ったわけでもないのが余計申し訳なくて」
「澤村くんに感謝するんだな」
「はい」

「何発やられた?」
「えーと、両頬だから二発っすかね。あ、そのまえに蹴り飛ばされました」
「まったくあいつは」
 はは、と笑って正人は上目遣いに誠を見る。
「一ノ瀬さんは殴られたりしたことないですよね」
「いいや。去年の一件のあと俺も悪さして、蹴り飛ばされて往復ビンタ食らったし、ついこのあいだも張り倒された」
「マジすか……おれのせいですね」
「まあ、そうだよね」

 恐縮する正人の前にコーヒーが届く。
「これ、先輩のコーヒーと香りが似てる」
「あいつがここのを参考にしたらしい」
「あ、なるほど」
 憑き物が落ちたように明るく笑う彼を見て誠は内心嘆息する。
 彼女を想うだけで笑顔になる、そんなときが自分にもあったはずで、でもそのころの気持ちを正確に思い返すことはできない。化石のようなその気持ちを。

「あんな女のどこが好きなんだろうね」
 思わず口に出すと正人も首を傾げる。
「蹴るわ殴るわ、ほったらかしにされるわ、嘘ばかりつくわ……」
 挙げ出したらキリがない。
「でも、おれ思ったことがあるんすけど」
 正人は目を上向けて天井を見上げてからおずおずと語りだす。

「あの人の嘘って、自分を守るための嘘じゃなくて、相手のための嘘じゃないかって。もちろん全部が全部じゃないだろうけど、一ノ瀬さんのためについた嘘だってきっとあると思うんすよ」
 そんなふうに考えたことなどなかった。
「すみません。偉そうに」
 あいつは君に何か話した? そう尋ねそうになってこらえる。そんなことは二人の間だけのことだ。知るべきじゃない。
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