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第三十八話 月も雲間に

38-2.「君、便利屋さんだろ?」

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 持てるだけ持って先に廊下に出た今日子に続いて書類に埋もれた分も掘り出していた美登利は、走り書きのメモを見つけて眉をひそめた。
「先生、これは大事なんじゃ? 会議の日時が書いてあります」
 そこで初めて貴島教授が振り向く。
「会議?」

 そのまま動こうともしないから、美登利は仕方なく近づいてメモを手渡す。
「ああ。ほんとだ」
 他人事のようにつぶやいてから帽子を被った美登利を見上げる。
「君、よく僕の字が読めたね」
「ええ? まあ……」
 それは最初はなんの模様かと思ったが。

 顔の上半分を覆った前髪の下から視線を感じる。
「君さ……」
 どさっと原稿の束を取り出して貴島教授は当然のように言った。
「僕の原稿清書してくれない?」
 A4サイズのまっさらな上質紙に、かろうじて文字の羅列とわかる有様で幾多の模様がのたうっている。

「先生」
 睨みつけそうになるのを堪えながら、美登利は声の抑揚を抑えてなるべく穏やかに話す。
「学生は先生のお手伝いをするためにいるんじゃありません。教えを請いに来てるんです」
「未発表の論文を真っ先に読めるんだよ? ものすごい教えじゃない?」

 それにさ、と散らかった机の上をごそごそ漁って名刺サイズの紙を取り出した。
「君、便利屋さんだろ?」
 どこで手に入れたのかロータスのフライヤーだ。
「しかもさ、僕このあいだ君のこと助けたよね?」
 覚えていたのだ。しかも顔を見られないようにしていたつもりだったのに気づかれた。

「学生として引き受けるのが嫌でも、こっちにはいくらでもルートがあるんだけど」
 特に楽しそうでも面白そうでもなく、貴島教授は平坦にごり押ししてくる。
 美登利は帽子の陰から、貴島教授は前髪の下から、見えない目と目で攻防する。
 やがて美登利は目を伏せて頷いた。こんなことで意地を張っても仕方がない。

 群書類聚と一緒に紙の束を持って出てきた美登利に、今日子が首を傾げた。




「どうしたの?」
 カウンターの一番奥にノートパソコンを持ち込み落書きだらけの紙に埋もれて不機嫌な顔をしている恋人に、池崎正人はおずおずと話しかける。
「…………」
 普通に無視される。
 仕方がないから、自分の特等席を取られてこちらも不機嫌な様子の宮前仁を振り返る。宮前はかろうじて肩を上げて見せただけだ。

 正人は黙って美登利から少しだけ距離を開けてカウンター席に座る。大好きな人の横顔を眺める。
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