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第五十三話 箱入り乙女

53-4.「私も」

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 話は膨らみ、カタルシスの浄化作用からいつの間にかアリストテレスの歴史と文学との違いへと話が変わっていた。なんの話なのだか薫子にはわからない。わからないなりにメモを取る。

 毎週のことだが講義が終わった後には疲労困憊だった。ぐったりしながら机の上のものを鞄にしまって席を立つ。
 見ると美登利と今日子は既に教室を出ていくところだった。次の講義も彼女たちと一緒になる。だが連れ立って歩くような仲ではない。

 薫子は少し遅れて廊下に出る。剥き出しの階段を下り始めると、ふたりが下の通りを歩いて行くのが見えた。

 特に見つめていたわけではないが視線に気づいたように美登利が顔を上向ける。帽子の陰から薫子を見つけたのか、小さく手を振ってくる。
 薫子が反応に迷っていると、そのまま通りを七号館の方へと向かって行った。いつもながら歩き方が美しい。彼女は身のこなしが綺麗でつい見惚れてしまう。

 ゆっくりと気をつけて階段を下りながら薫子は先程の講義の内容を思い出す。あんな派手な化粧をしてまわりの迷惑も顧みず大声でおしゃべりしている集団の人間が乙女やお嬢様であるわけがないと思う。

 ――お嬢様だねえ。

 薫子のことを中川美登利はよくそう言うが、そんなことはないと思う。薫子の家は旧家ではあるが今となっては普通の家と同じだ。
 ただ祖母は昔かたぎで礼儀作法にうるさく薫子は徹底的にしつけられた。小さなころは怖くて苦痛で仕方なかったが、今では感謝している。どこへ行ってもマナーで憶することはないからだ。
 だからこそ薫子は中川美登利や坂野今日子に感心する。洗練されている。何もかも。気後れして近づけないほどに。

 次の講義がある七号館の階段教室に入ると、一番端の前方の席に美登利と今日子が座っていた。美登利は今度は本を読まずに帽子を目深に被ったまま組んだ足をぶらぶらさせている。
 開始時間はもうすぐだったが、この時間の講師もいつも十分遅れてやって来る。

 グループになっている学生を避けて席を探していた薫子を、美登利が見つめている。無視できなくなって視線を合わせる。
 無言でにっこりと微笑まれて、薫子は引き寄せられるように彼女の前の席に向かった。薫子が座るのを待って美登利は口を開く。
「さっきの、面白かったね」

 鞄を膝に抱いたまま薫子は首だけひねって振り返る。
「乙女かって?」
「私が後ろの席の人を乙女と思うかって聞かれたら、はいって答えてたな」
 どぎまぎしてトートバッグの布地を意味もなくこすりながら薫子は小さな声で答える。
「私も」
 小首を傾げる美登利の隣で、今日子がはあっとため息を吐いた。
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