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八月二十九日② ◆ ~また明日~

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 辺りが暗くなってきたため、今日の練習はお終いになった。
 もう少しで乗れそうなのに~と、少女は悔しがった。元気だなおい。
 だけど、そうだな。久々に身体を動かして……ぼくも何だか気分がいい。


 少女が公園の水場で手を洗っている間に、おばさんとも少し会話した。
 おばさん曰く、余命三日間の過ごし方を家族でいろいろと相談したらしい。

 昔から”元気になったら行きたい”と言っていたテーマパークに行くとか、
 いろいろ提案したが、一生懸命考えた少女は”いつも通りが良い”と言ったらしい。
 その希望を汲んであげたとの事だ。

 そのかわり、これまで暮らしてきた地元で、
 これまでやれなかった事を”全部やりたい”らしい。
 そのひとつが”自転車の練習”だったわけだ。


 余命三日間、その僅かな時間で自転車に乗れるようになると
 本気で思っているらしい。たくましいなあ。

 長い療養生活で筋肉も痩せ細り、ぼくなんか散歩だけでも重労働だ。


「娘は椿くんとも会いたがっていたから、一石二鳥だったわあ♪」


 少女もたくましいが、おばさんも本当たくましいな。
 迫る死期を恐れず、なお懸命に生きている。
 それは本当にすごい事だ……。

 公園を出てしばらく歩き、分かれ道に至る。
 少女と母親が家路につくのを、ぼくは見送った。
 少女は元気に手を振りながら、笑った。


「椿くん、また明日ね!」


 ◆


 少女と母親と別れた後、ぼくは何となく近所の河原を訪れた。
 夕暮れの赤陽が、河原の土手を真っ赤に照らす。

 部活帰りだろうか、ジャージ姿の男子中学生数名とすれ違う。

 本当だったら、今頃はぼくもあの輪の中に――
 と、思ったかもしれない。


 不思議だね。まあ気にならないと言えばウソかもしれないが、
 そんなに気にもならない。これもホントだ。

 朝陽とは異なる、燃え尽きる様に真っ赤な夕日――
 反対側の東の空には、静寂の夜闇がしとしとやってきている。

 いずれ終わりが訪れる、ひと時の夕暮れ。
 まるでそれが自分の命を暗示している様で、
 ぼくは夕日を見るのが、ずっと怖くて、嫌いだった。


 ――椿くん、また明日ね!――


 少女の言葉が、脳裏で心地良く聞こえてくる。
 それは、まるで魔法の言葉だった。
 とても普通の言葉。だけど、ぼくがこれまで
 ずっと使ってこなかった言葉だった。


「そうだね、また明日だ……」


 一番星を指差しながら、ぼくは心から笑った。


 ◆◇◆

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