5 / 34
■第一部 R大学時代の友人「ワトスン君」の回想録より復刻
04.
しおりを挟む■05.紫煙色の研究 -A Study in Blue Smoke-
◇◆ ◇◆◇ ◆◇
シャーロック・ホームズは、私と相部屋になるという話に乗り気になったように思えた。
「ベーカー街に目をつけている部屋があるんだ」彼は言った。
「ふたりで住むにはピッタリだ。君、強い煙草の匂いは気になるかな?」
――” I always smoke ‘ship’s’ myself. ”――
「私もいつもは――“シップス”――を吸っているよ」私は答えた。
<シャーロック・ホームズ第一長編
『緋色の研究-A Study in Scarlet-』第一章より>
◇◆ ◇◆◇ ◆◇
ゆっくりと紫煙を秋風に流しながら、ほむら先生は言った。
「まずは君の推理を聞かせてもらおうかな?」
やれやれと苦笑いしながら俺は話し始める。
「俺が小さい頃に読んだ本には――“シップス煙草”――と翻訳されていましたね。
直前のホームズ達の台詞から――当時流行していた“匂いが強い煙草の銘柄名”――とかだろうと想像していました」
ワトソン博士は本作中にて――‘ship’s’――とわざわざ表記している。
執筆者が『引用符-クォーテーション・マーク-』を用いて強調するような”特別な単語”は、意訳が困難である事も多いだろう。だが、それでも”カタカナ英語”で直訳するのは「翻訳」の意義としてどうかと思うなぁ……。
ほむら先生も同じ意見なのか、紫煙をプカッと強めに吐き出した。
「それは感心できないね。傑出した蔵書は愛され続けるが、されど時代は遷ろうものだ。傑出した蔵書は国境を越えるが、されど国境を消せるわけではない。それぞれの時代、それぞれの国において”読者”の時代的・文化的知識の差異を理解した上で、執筆者の真意を伝える…――それが『翻訳』というものだよ」
俺は頷きながら話を続けた。
「その後、別の出版社では――“海軍煙草”――と和訳されているのを見つけました。
最初に読んだ時は、英国”陸軍”に所属していた元軍医のワトソン博士が、どうして“海軍煙草”を吸っているのか…――とても違和感を覚えましたね。ただ、ワトソン博士は負傷した際に”軍隊輸送船オロンテス号”に乗って帰国しています。その時に海軍支給の煙草を入手していても不思議じゃないかな……と、後から考えました」
「五〇点!―”Good!”―」ほむら先生が言った。「七五点か!―”Excellent!”―」
「一見すると、ホームズの『煙草の匂いは気にするかい?』という質問に対して、ワトソンの『海軍煙草を吸っている』という回答は不自然にも思えます。しかし…――”同居人となるルームメイトを探していたホームズへ、知り合いから紹介してもらうワトソン博士”――という『物語の背景-シチュエーション-』を考えれば、納得できると俺は考察しました。
同居生活を検討する上で、ルームメイトとなる”同居人”の社会的身分の確認は重要です。退役直後で当時”無職だったワトソン博士”は、少しでも同居相手となるホームズの信頼を得るために――『私も喫煙者だから気にしないよ』と質問に答えつつ『私は元軍人だ』と暗に示したかったのではないでしょうか」
「満点かな!―”Perfectly sound!”―」
俺の”考察”を聞いて、ほむら先生は満足そうに微笑む。
ちなみに、いま先生が言い並べた『五〇点!―”Good!”―』『七五点!―”Excellent!”―』『満点!―”Perfectly sound!”―』という台詞は…――おそらく三作目の長編『バスカヴィル家の犬-The Hound of the Baskervilles-』の冒頭における、ホームズ達の会話の真似事であろう。
名探偵ホームズがワトソン博士に対して、依頼人の忘れ物である”杖”から持ち主を推理してごらんと述べる。そしてワトソン博士の”推理”に対して、名探偵ホームズが評価する…――そんな一幕だ。
当初、各出版社はホームズの台詞『Good!』『Excellent!』を――『いいね』『お見事だよ』と和訳していた。
もちろんこれは”英語の意味”としては間違っていない――だが。
後にこれらが欧米学校の成績評価『Good(まあまあ)』『Excellent(いいね)』に通じるものだったと分かると…――近年の邦訳本では、先ほどのように『点数』で和訳表現する事が多くなった。
他国の文学作品を翻訳するのは、かくも難しい……そんな好事例である。
ちなみに上記の会話は、『ホームズとワトソン』の人間関係が『先生と生徒』に近かったのではないか――と考察するシャーロキアン達の論拠にもなっている。以上、余談である。
いやいや、さてそれは置いといて……。
ここでの問題は…――なぜ先生が『バスカヴィル家の犬』の表現を用いたのか、だ。
ほむら先生と俺は、文字通り『先生と生徒』なわけだから”人間関係の示唆”ではない。それならば…――
「ほむら先生には、翻訳的に”別の答え”があるんですかね?」
ほむら先生は眼を輝かせると、興奮を抑えるように”パイプ煙草”をころころと手のひらで遊ばせた。
「ふむ。君は日本人が――“海軍煙草”――と聞いた時に、何を想像すると思うかな?」
「そうですね……やはり第二次世界大戦中に旧日本軍が支給していた――“軍用煙草”――でしょうか。平時は嗜好品として兵営内の酒保でも販売されましたが、戦時は士気に関わるとして、兵器・食糧と同等の扱いで軍管轄の支給品になったと聞きます。また、天皇陛下が陸海軍に賜った“恩賜の煙草”に至っては、嗜好品と言うより栄誉の品といった感じで…――あれ?」
「うむうむ。それらを踏まえて『緋色の研究』冒頭の会話を想像してみたまえ」
◇◆ ◇◆◇ ◆◇
ホームズ『君、強い煙草の匂いは気になるかな?』
ワトソン『私は栄誉ある海軍煙草を愛用しているけど気にしないよ(どや)』
◇◆ ◇◆◇ ◆◇
「……ワトソン博士が、超イヤな男になっちゃいますね」
「それだと世界中の”愛好家-シャーロキアン-”が悲しむよ!」
ほむら先生は優しく高笑うと…――音楽を奏でるように”謎解き”を始めた。
「ワトソン博士が述べた『シップス―‘ship’s’―』の意味には諸説あってね…――。
君が最初に述べた――“匂いが強い煙草の銘柄名”――という説もたしかにあるんだ。一部のシャーロキアンの研究家は、当時実在したオランダ製の強い混合煙草、その銘柄名『シッパーズ・タバク・スペシャル』に類似していると推理したらしい。だが、これは”ただの偶然だ”とする向きもあるね。
他には、君の推理した――“海軍煙草”や“船乗り煙草”――という説だな。当時の船乗り達が愛用した――“ロープ煙草”――というのは“クセの強い安物の煙草”の代名詞で、英国海軍も船員に支給していたらしい。読者が“クセの強い安物の煙草”だと想像できるように、ワトソン博士がその場で作った”造語”だという説だね。
さて、以上の考察に共通するのは――”匂いが強い煙草”――を表現するものだとう考え方だ。これはまず間違っていないと私は思うかな。さらに言えば、当時のワトソン博士が無職で困窮していた状況も鑑みると…――翻訳面で言うならば、軍人が吸う『海軍煙草』と表現するよりも、労働者層の荒くれ者が吸う『船乗り煙草』と邦訳した方が、日本の読者には――“クセの強い安物の煙草”――を想像しやすいかもしれないね。私なら“安物の船乗り煙草”と翻訳するかな?」
「なるほど、ワトソン博士はホームズの質問に対して――”私もクセの強い安物の『船乗り煙草―”Ship’s”―』を吸ってるぐらいだから気にしなくて良いよ”――という意味で答えたのか。それなら会話の流れとしても自然ですね」
俺が素直に感心すると、ほむら先生は照れ隠すように頬を掻いた。
「いやいや、”ルームシェア”という居住文化に着目した『海軍煙草による身分証明』という君の”推理”は非常に素晴らしかった。今日の語らいはとても有意義だったよ!」
ほむら先生がホクホクと御満悦そうに笑う。
まあ、それなら良かったですよ。
それじゃあ、そろそろ遅刻しちゃうから、ゼミの集合場所に行きましょ…――
「ところで、君は――”あれ”――が、なにか気にならないかい?」
俺が、煙草の吸殻を灰皿に放るのとほぼ同時に…――
ほむら先生は、礼拝堂の裏手側をスッと指差した。
俺の視界に見えたのは…――”礼拝堂会館”だった。
礼拝堂に隣接して、ひっそり隠れるように築かれた建物であり、”聖職者-チャプレン-”と呼ばれる職員の事務所であり、先ほど述べた”チャペ団”の活動拠点だ。窓の灯りと、わずかに聞こえてくる賑やかな声が、”聖夜祭”企画の準備の活況を感じさせる。
しかし、特に気になるような点は無いけどなぁ……。
ほむら先生の顔をチラッと見ると…――
パイプ煙草を握る手を「もう少し下を見てごらん」と言わんばかりにチョイチョイと動かした。
……なるほど見つけたぞ。
”礼拝堂会館”の軒下に、何やら”履き物”のようなモノが落ちている。
もう一度、ほむら先生の顔をチラッと見ると…――
凛とした瞳を少し見開いて「何をしているのだね!」と可愛らしく眉根を寄せる。
ああ、あれを持って来てくれたまえ――という意味だったのか?
やれやれと思いながら、俺は”礼拝堂会館”の軒下へと向かうと…――その”落とし物”を拾い上げた。
ふむ。どうやら『靴』というよりは、小学生の頃に履いていた『上履き』といった感じだな。
布製の履き物で、爪先が少し尖がっている。何だか”道化師-ピエロ-”が履いていそうな代物だ。爪先の中には、何やら”布袋”が入っていて…――と、ここで俺はようやく先生の”意図”に気づいた。
その”落とし物”を手に持ったまま俺が戻って来ると…――
想像通りと言うべきか、ほむら先生がニヤニヤと好奇心旺盛に微笑んでいた。
「ひょっとしてほむら先生は、これが――“シャーロキアンの落とし物”――だと思ってますか?」
◇◆ ◇◆◇ ◆◇
0
あなたにおすすめの小説
「がっかりです」——その一言で終わる夫婦が、王宮にはある
柴田はつみ
恋愛
妃の席を踏みにじったのは令嬢——けれど妃の心を折ったのは、夫のたった一言だった
王太子妃リディアの唯一の安らぎは、王太子アーヴィンと交わす午後の茶会。だが新しく王宮に出入りする伯爵令嬢ミレーユは、妃の席に先に座り、殿下を私的に呼び、距離感のない振る舞いを重ねる。
リディアは王宮の礼節としてその場で正す——正しいはずだった。けれど夫は「リディア、そこまで言わなくても……」と、妃を止めた。
「わかりました。あなたには、がっかりです」
微笑んで去ったその日から、夫婦の茶会は終わる。沈黙の王宮で、言葉を失った王太子は、初めて“追う”ことを選ぶが——遅すぎた。
三十年後に届いた白い手紙
RyuChoukan
ファンタジー
三十年前、帝国は一人の少年を裏切り者として処刑した。
彼は最後まで、何も語らなかった。
その罪の真相を知る者は、ただ一人の女性だけだった。
戴冠舞踏会の夜。
公爵令嬢は、一通の白い手紙を手に、皇帝の前に立つ。
それは復讐でも、告発でもない。
三十年間、辺境の郵便局で待ち続けられていた、
「渡されなかった約束」のための手紙だった。
沈黙のまま命を捨てた男と、
三十年、ただ待ち続けた女。
そして、すべてを知った上で扉を開く、次の世代。
これは、
遅れて届いた手紙が、
人生と運命を静かに書き換えていく物語。
【大賞・完結】地味スキル《お片付け》は最強です!社畜OL、異世界でうっかり国を改革しちゃったら、騎士団長と皇帝陛下に溺愛されてるんですが!?
旅する書斎(☆ほしい)
ファンタジー
【第18回ファンタジー小説大賞で大賞をいただきました】→【規約変更で書籍化&コミカライズ「確約」は取り消しになりました。】
佐藤美佳子(サトウ・ミカコ)、享年28歳。死因は、過労。連日の徹夜と休日出勤の果てに、ブラック企業のオフィスで静かに息を引き取った彼女が次に目覚めたのは、剣と魔法のファンタジー世界だった。
新たな生を受けたのは、田舎のしがない貧乏貴族の娘、ミカ・アシュフィールド、16歳。神様がくれた転生特典は、なんと《完璧なる整理整頓》という、とんでもなく地味なスキルだった。
「せめて回復魔法とかが良かった……」
戦闘にも生産にも役立たないスキルに落胆し、今度こそは静かに、穏やかに生きたいと願うミカ。しかし、そんな彼女のささやかな望みは、王家からの突然の徴収命令によって打ち砕かれる。
「特殊技能持ちは、王宮へ出仕せよ」
家族を守るため、どうせ役立たずと追い返されるだろうと高をくくって王都へ向かったミカに与えられた任務は、あまりにも無謀なものだった。
「この『開かずの倉庫』を、整理せよ」
そこは、数百年分の備品や資材が山と積まれ、あまりの混沌ぶりに探検隊が遭難したとまで噂される、王家最大の禁足地。
絶望的な光景を前に、ミカが覚悟を決めてスキルを発動した瞬間――世界は、彼女の「お片付け」が持つ真の力に震撼することになる。
これは、地味スキルでうっかり国のすべてを最適化してしまった元社畜令嬢が、カタブツな騎士団長や有能すぎる皇帝陛下にその価値を見出され、なぜか過保護に甘やかされてしまう、お仕事改革ファンタジー。
後宮なりきり夫婦録
石田空
キャラ文芸
「月鈴、ちょっと嫁に来るか?」
「はあ……?」
雲仙国では、皇帝が三代続いて謎の昏睡状態に陥る事態が続いていた。
あまりにも不可解なために、新しい皇帝を立てる訳にもいかない国は、急遽皇帝の「影武者」として跡継ぎ騒動を防ぐために寺院に入れられていた皇子の空燕を呼び戻すことに決める。
空燕の国の声に応える条件は、同じく寺院で方士修行をしていた方士の月鈴を妃として後宮に入れること。
かくしてふたりは片や皇帝の影武者として、片や皇帝の偽りの愛妃として、後宮と言う名の魔窟に潜入捜査をすることとなった。
影武者夫婦は、後宮内で起こる事件の謎を解けるのか。そしてふたりの想いの行方はいったい。
サイトより転載になります。
里帰りをしていたら離婚届が送られてきたので今から様子を見に行ってきます
結城芙由奈@コミカライズ連載中
恋愛
<離婚届?納得いかないので今から内密に帰ります>
政略結婚で2年もの間「白い結婚」を続ける最中、妹の出産祝いで里帰りしていると突然届いた離婚届。あまりに理不尽で到底受け入れられないので内緒で帰ってみた結果・・・?
※「カクヨム」「小説家になろう」にも投稿しています
サレ妻の娘なので、母の敵にざまぁします
二階堂まりい
大衆娯楽
大衆娯楽部門最高記録1位!
※この物語はフィクションです
流行のサレ妻ものを眺めていて、私ならどうする? と思ったので、短編でしたためてみました。
当方未婚なので、妻目線ではなく娘目線で失礼します。
幽閉王女と指輪の精霊~嫁いだら幽閉された!餓死する前に脱出したい!~
二階堂吉乃
恋愛
同盟国へ嫁いだヴァイオレット姫。夫である王太子は初夜に現れなかった。たった1人幽閉される姫。やがて貧しい食事すら届かなくなる。長い幽閉の末、死にかけた彼女を救ったのは、家宝の指輪だった。
1年後。同盟国を訪れたヴァイオレットの従兄が彼女を発見する。忘れられた牢獄には姫のミイラがあった。激怒した従兄は同盟を破棄してしまう。
一方、下町に代書業で身を立てる美少女がいた。ヴィーと名を偽ったヴァイオレットは指輪の精霊と助けあいながら暮らしていた。そこへ元夫?である王太子が視察に来る。彼は下町を案内してくれたヴィーに恋をしてしまう…。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる