サンキゼロの涙

たね ありけ

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第五章 目覚め

第六十一話 白の広場

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 深い雪を掻き分けながらの旅路は遅々として進まなかった。それでも三人は立ち止まることなく、十日も過ぎる頃には青銅湖へと辿り着いた。その険しさは、行商人に言わせれば正気の沙汰ではないというほどのものだったが、目的への意志の強さが、それを苦と感じさせなかった。

「ここが青銅湖。前に風の精霊シルフに会ったって話をしたところ」
「この様子じゃあ、あいつらも冬眠してっかな?」
「・・雪だけね。真っ白」

 湖の一面が氷に覆われ、その上を雪が化粧している。一片の乱れも無いその純白の広場は、人が乱してしまうことに畏れを抱くような感覚になる程に美しかった。

「・・・砂漠みたいに何もないけれど、とても気持ちのいいところ」

 蒼く晴れた空の下、窪んだ白の広場を前にして深呼吸する女魔術師のその瞳には、白と青のコントラストが鮮やかに映り込んでいた。

「・・わたしの風の精霊も喜んでる」
「そっか。気に入ってくれて良かった」

 別に自分のことでもないのだが、彼の育ったこの何もない最果ての地域を褒められると、ジェロムも少し良い気分になる。

「同族が分かるのかな?」
「そうかもね。もしかしたら、同族が棲めるだけのこの場所が気に入ったのかもしれない」

 エマの魔術師としての才能は、人一倍に魔力マナに敏感だったというだけではなかった。その波長が精霊と意思を通わせるのに適していたということもある。それゆえ、彼女は風と火と大地、三種類の精霊を供にして旅をしているという。尤も、その精霊たちとこれまで出会った人の波長が合うことはなく、彼女が連れている精霊を視認できた者は居なかったそうだ。

風の精霊シルフって、お喋りなんだよな」
「どうしてるかな、フローヴァ達」
「『お腹空いたよう』って言いながら、家の中で縮こまってるんじゃねぇか?」
「だね。きっと皆で春の食べ物の話でもしてるよ」

 ジェロムは話をしながら、心の何処かで飛び出して走り出したいような衝動に駆られていた。その衝動は無駄に空振りすることを知っているのに、頭から離れることはない。何とか押しとどめて、その有り余る衝動を目的への意志の強さへと変換するのに苦労していた。

「そうだ。ちょっとだけ離れる。すぐに戻るから待っててくれ」
「分かった」

 クロエが少し奥の森へ分け入っていく。あの辺りは、前にフローヴァ達のサトウカエデがあるところだ。きっと、その木の様子を見に行くのだろう。
 冬は食べ物が取れない。森の獣達は遠い春を夢見て冬眠する。きっと精霊たちも同じ。春までの遠い時間を耐え忍ぶのは、どれほど長く感じるのだろう。そんなことを考えて一人取り残されたように感じてしまったジェロムは、自然とエマに視線を向けた。

「・・・」

 エマは一人、白の広場を目の前に黙って佇んでいる。彼女の話によれば、供としている精霊たちとは言葉を交わさないそうだ。通じ合いたいイメージが、互いの脳裏に伝わるという。こうやって佇む時は、彼らと無言の会話をしているらしい。旅路の中で、こうやって目に留まる風景を見つける度に、彼女は佇んでじっと見つめていた。傍目には、まるで忘れまいとその目に焼き付けているかのようだった。

「ここも綺麗?」
「・・・ええ。わたしの育った街と比べるとね。あそこは砂ばかりだから」
「ここも雪ばかりだよ」
「木があって山があって。水もある。生命の恵みに溢れたこの国は、どこに行っても綺麗なのよ」

 エマの育った街は砂漠の中にある。ミッテブルームの中央に位置する巨大な砂漠の街なのだそうだ。だから森や海を珍しいと感じるし、雪に至ってはキロ国に来て初めて見たという。

「・・・砂漠には綺麗なところはないの?」
「オアシス、かな。生き物を拒む砂漠で、唯一、受け入れてくれる場所。生命が輝いているもの」

 エマはほうっ、と溜息をついた。それはただ、寒いというだけのものではなかったのをジェロムも感じていた。

「雪も同じね。生きる者を拒む自然の摂理。砂漠も、この雪も。どうして人間はこういった厳しい場所にまで住むのかしら」

 青銅湖を眺めていた筈の、その憂うような横顔は、いつの間にかもっと先にある景色を見ていた。ジェロムには、その景色は眩しすぎるように感じた。

「さて、景色を堪能するのは全部終わってからにしましょう。わたし達は進む時よ」
「うん、行かなきゃね。行こう」

 寒さの中、よく歩いてきたパトラを撫でながら、エマがその背に跨る。ジェロムも荷物を背負い直し、クロエが進んだ森の中へと足を向けた。再び、人目に触れることの無くなった青銅湖は、水面にその白い化粧を湛えながら、春までの長い時間を待っていく。




 水の都キョウから北の都ノヘに支援隊が派遣されたのは、魔獣襲撃事件から約一月後のことである。ミカドによりブデン一族が北の都ノヘのカバネであるヤマノウチを補佐する役として派遣された他、大工、木樵、金物工といった職人ギルドに属する者たちが大勢いた。街の再建を重視した結果なのだが、職人ギルドの面々にとっては安全を確保できたのか、という疑問が湧くのは当然で、移動を始めてからも引き返そう、という一派が生まれてしまったほどだ。結局、家臣団がいるというのに、彼らは冒険者ギルドの協力を得ることで、その不安を解消するという結果に収まった。

「こんな臆病な奴らのお守りなんかしたくねぇ」
「だよな。まだ魔獣がうろついてるって言うし、そいつらの始末のほうが、よっぽど報酬も良いだろうに」
「そう言うなって、国を挙げての復興なんだから。俺たちも北の都ノヘでできることをしようぜ」
「それって大工仕事の手伝いとか、こういった物流のための護衛じゃねえのか?」

 職人ギルドの要請で派遣された冒険者たちは、口々にその任務の不満をしていた。それは非常事態だという体で、標準的な護衛依頼料を下回る、経費分程度の料金しかなかったのだから当然でもある。

「でもよ、冒険者ギルド憲章にもあるじゃねぇか。『すべての者に等しく手を差し伸べる』って」
「おい『お人好し』のテオドールさんよ。そんな気概で命懸けで手紙を届けたんじゃねぇんだろな」
「そんな気概じゃなけりゃ、どんな気概なんだ?」
「はっ! 本当にお人好しだな。金が無けりゃ、見ず知らずの奴らのために命なんざ張るかっての」

 テオドールと呼ばれた壮年の男は、北の都ノヘから危機を報せるために包囲を突破して駆けた冒険者だった。既にカバネからの遣いが到着していたのだが、その情報は市中に出回る前であったため、結果的に彼が伝えた報せが冒険者や職人たちの支援を急がせることに成功した。

 そうして出立間近になって、無事に防衛に成功したという第二報が届けられたため、家臣団に冒険者が加わる必要もないと、義勇を募っていた者たちが無碍にされてしまった。報酬が少ないだけが、彼らの不満なのではないのだ。

「主ら、そう不満を漏らすな。ギルドとは別に、我らからも報酬を出す。夜中の護衛は頼りにしておるぞ」
「これは、ブデンの御家老。分かってますよ、俺たちも仕事は仕事でやりますぜ」
「うむ、頼んだぞ」

 冒険者たちは普段の生活で互いにあまり関わらない者たちの集団である為、まとまりが無い。特に今回のような寄せ集めの場合は、てんでバラバラに動くことも多いのだ。その点、ブデン一族の長であるカツヨリの統率のお陰で、何とか秩序を保ちながら進むことができていた。

 道中、北の都ノヘを襲ったと思しき魔獣の集団を排除しながら、雪道を泥道に変え、この集団が北の都ノヘに到着するのは、それから更に半月ほど先の話であった。
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