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特別な存在⑤
しおりを挟む私の当初の目的は、近頃めっきり姿を現さなくなったお兄さんに会う事だった。
そして、水族館での暴走を謝ろうと思ってた。
店長からお兄さんが女の人と一緒に居たと聞いて居ても立ってもいられなかったってのもあるけど……
お兄さんに「傷口にハバネロ塗ったくったような事言ってごめんなさい」と一言言う筈だったのに、目的も果たさず、お兄さんのプライベートに土足で踏み入って踏み荒らしかけてる。
「青柳のお兄さん、最近店に顔出さなくなっちゃって……私ずっと心配して気にしてたのに…」
うっ……と、しゃっくりみたいな反応が言葉を発するのを邪魔してくる。
「わ、私のっ、知らない女の人と……っ、楽しげに一緒に居て…っ」
息が苦しい。
かといって、息継ぎのタイミングが掴めない。
それが情けなくて悔しくて、余計に息苦しさが増す。
「そんなの、何かやだ……何でか分かんっ、ないけど、うぐっ……すっごい、嫌だ」
ボロボロの涙とだらだらの鼻水、それからみっともない嗚咽と脈絡のない私のイチャモン。
お兄さん、かなり面倒臭いだろうなって自分でも思う。
だけど私だって、何が何だか分かんない。
胸がムカムカしたかと思ったら、急にズキズキ痛んで、張り裂けそう。
そりゃあもう、のたうち回りたい位の激痛。
と、お兄さんがコートの前ボタンを外して内ポケットの辺りに手を入れる。
そこから黒っぽいハンカチを取り出し、そっと私の頬に当てた。
「このハンカチ、涼亜ちゃんにあげるから持って帰って。捨てても良いから」
丁寧に涙を吸い取るお兄さん。
「どうして涼亜ちゃんに泣かれるのか、俺にはさっぱり分からないのだけれど……」
私の頬を滑るハンカチはとても肌触りが良くて、きっとお高いブランドの物なんだろう。
仄かにお兄さんの香水らしき爽やかで優しい匂いが染み付いている。
「新しい恋を始めるべきだって、俺を叱って背中を押してくれたのは涼亜ちゃんじゃない?」
涙が吸い取られて視界がクリアになった時、目の前のお兄さんの表情がはっきり見えた。
私の想像通り、困ったように眉を下げて……
でも優しく微笑んでるお兄さんを前に、また涙がじわっと滲んできた。
「一緒に居た彼女は、大切な人ではないよ」
涙を一頻り拭った後、お兄さんは今度は鼻水の除去に取り掛かる。
「職場の同僚から紹介して貰った人で、知り合って日は浅い。スポーツ観戦と酒が好きだという事以外、お互いの事をまだほとんど知らない関係なんだ」
その言葉に胸がホッとしたのも束の間。
お兄さんは「でもね…」と、女性が居るであろうお店の方を見上げながら言う。
「これから大切な人になって貰えたら良いなって思ってる」
目の前が真っ暗になり、以前水族館でお兄さんに言った自分の言葉が、その時の状況が、脳内を駆け巡る。
『お兄さん程の男がナヨナヨしてちゃいけません。新しい恋を始めるべきです』
そうだ、あの時の私は台詞の最後に余計な言葉を付け足そうとした。
それが何だか自分でも分かってなかったけど、今しっかり思い出した。
『新しい恋を始めるべきです、“私と”』
思い出した途端、自分の思い上がりっぷりが恥ずかしくなって、お兄さんの前から消えたくなった。
「う………うぁあああ」
声にならない声をあげながら駆け出した。
後ろの方で「涼亜ちゃん?!」と、戸惑ったようなお兄さんの声が聞こえたけど、振り返らずに突っ走る。
私とお兄さんは、ただバイト先のコンビニで繋がっているだけで、赤の他人同士。
なのにお兄さんは、会うといつも優しく接してくれて、何かと世話を焼いてくれた。
だからか、いつからか勘違いしていたんだ。
自分が……
自分だけがお兄さんの特別な存在なんだって。
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