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44話
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午後の光が斜めに差し込む香学研究院の講堂。
窓辺には青き誓花が静かに咲き、教室の隅では焚かれた香炉から淡い香が漂っていた。
イザベラ=ロスベルクが黒板の前に立ち、生徒たちの視線が一斉に彼女へと注がれる。
この日の講義の主題は、「怒りの香」。
感香術の中でも扱いが難しく、記録にも調香にも高度な技術を要する分野だった。
「怒りは、扱いを誤れば毒になります」
イザベラの言葉に、生徒のひとりが思わず息を飲む。
「けれど、それを悪と決めつけるのは早計です。怒りは、何かが間違っていると“気づく力”でもあります」
黒板に記された文字──《怒り=理の芽》。
「わたくしは、かつて怒りました」
その一言に、教室の空気がぴたりと静まった。
「婚約を破棄され、断罪され、誰にも理解されなかったあの日。わたくしの中には、消え入りそうな自尊心と、確かに燃える怒りがありました」
「ですが──その怒りに任せて誰かを責めていたら、今のわたくしは存在していなかったでしょう」
講堂の奥、香炉に注がれた調香液から、微かに茜樹の香が立ち上がる。
それは怒りの象徴。しかし今は、とても静かで、穏やかにすら感じられる香りだった。
「怒りは、悪ではありません」
「それを理に変える術を、私たちは学ぶことができます」
「記録し、香に託し、伝えることで、誰かを壊すのではなく、未来を変える力になるのです」
イザベラは一呼吸おき、生徒たちをゆっくりと見渡す。
皆、真剣な表情だった。
「あなたたちが感じる怒りを、どうか怖れないでください。否定せず、押し殺さず、香として昇華する術を学んでくださいませ」
「怒りは、希望になります」
その言葉とともに、講堂に流れる香が少しずつ変わる。
茜樹に誓花を重ね、最後に加えたのは、白薔薇の柔らかな香。
それは赦しと継承を意味する香り。
講義が終わったあと、生徒の一人がそっと呟いた。
「先生の香りは……あたたかいですね。怒りの香なのに、こわくない」
イザベラは静かに微笑み、こう答えた。
「それはたぶん──もう、誰かを責める必要がない香だからですわ」
怒りは悪ではない。
それは、変わろうとする意志の最初の揺らぎ。
理に変わり、香となり、記録となって、希望へと昇華する。
イザベラが示したその道は、未来を生きる者たちへと静かに受け継がれていくのだった。
窓辺には青き誓花が静かに咲き、教室の隅では焚かれた香炉から淡い香が漂っていた。
イザベラ=ロスベルクが黒板の前に立ち、生徒たちの視線が一斉に彼女へと注がれる。
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感香術の中でも扱いが難しく、記録にも調香にも高度な技術を要する分野だった。
「怒りは、扱いを誤れば毒になります」
イザベラの言葉に、生徒のひとりが思わず息を飲む。
「けれど、それを悪と決めつけるのは早計です。怒りは、何かが間違っていると“気づく力”でもあります」
黒板に記された文字──《怒り=理の芽》。
「わたくしは、かつて怒りました」
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「ですが──その怒りに任せて誰かを責めていたら、今のわたくしは存在していなかったでしょう」
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「記録し、香に託し、伝えることで、誰かを壊すのではなく、未来を変える力になるのです」
イザベラは一呼吸おき、生徒たちをゆっくりと見渡す。
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「あなたたちが感じる怒りを、どうか怖れないでください。否定せず、押し殺さず、香として昇華する術を学んでくださいませ」
「怒りは、希望になります」
その言葉とともに、講堂に流れる香が少しずつ変わる。
茜樹に誓花を重ね、最後に加えたのは、白薔薇の柔らかな香。
それは赦しと継承を意味する香り。
講義が終わったあと、生徒の一人がそっと呟いた。
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イザベラは静かに微笑み、こう答えた。
「それはたぶん──もう、誰かを責める必要がない香だからですわ」
怒りは悪ではない。
それは、変わろうとする意志の最初の揺らぎ。
理に変わり、香となり、記録となって、希望へと昇華する。
イザベラが示したその道は、未来を生きる者たちへと静かに受け継がれていくのだった。
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