婚約破棄から始まる変動は、わたくしの怒りとともに

笹焼ぱんだ

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50話

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静かな午後だった。

王都の喧騒は遠く、香学研究院の調香室には、ただ風と、焚きかけの香の音だけが流れていた。

イザベラ=ロスベルクは、窓際の机で香を調合していた。

特別な依頼ではない。

記録のためでも、公的な証明のためでもない。

──ただ、自分のために。

銀の匙に落としたのは、誓花の乾いた花弁と、あたたかな白檀。そして最後にごく微量の茜樹。

怒りの象徴として知られたその樹脂は、今や彼女にとって“始まり”を思い出させる香となっていた。

「怒りは、わたくしの始まりでした」

誰に語るでもない独白。

誰かを責めるための怒りではなかった。

愛されず、祝福されず、理不尽に名を奪われ、それでも立ち止まらなかった自分。

すべては、あの怒りが原点だった。

けれども今、彼女の手は怒りで震えてはいない。

落ち着いて、丁寧に、穏やかに香を重ねていく。

その所作は、誰かの期待にも、社会の変革にも縛られない。

「わたくしは、もう誰かの象徴ではありませんわね」

そう笑って、イザベラは香炉に火を灯した。

焚き上がる香りは、どこまでも柔らかく、温かく。

怒りを孕んでいながらも、それを理に変え、やがては静けさへと昇華した“変化”そのものだった。

研究院の外では、生徒たちの声が響いていた。

香律を学ぶ若者たち。

香を纏って裁きに臨む人々。

香で語り合い、香で記憶を遺す人たち。

かつて怒りを持った少女が、今では香によって“問いのある日常”を生んでいた。

──誰かのためではなく、自分のために香を焚くということ。

それは、変革の先にある最も静かで、最も強い自由だった。

火の中で揺れる香の影を見つめながら、イザベラはふと目を閉じる。

「ええ。悪くない人生ですわね」

そう呟いた声に、答える者はなかった。

けれど香は、いつものように応えるように、部屋をやさしく満たしていく。

変革は終わった。

断罪は過去のものとなった。

そして今日も、イザベラは香を調える。

それが、彼女の日常。

──怒りを経て、理を纏い、問いを香らせる者の、生きる姿そのものだった。
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