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バレエ・ダンサー、スパイ、犯罪者そして亡命者の物語

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 上手くいかない人生をリセットするのは良いことだ。無事に再起動できるとしての話だが。同様に、どうしようもなくなった世界を一度ぶっ潰し、一から再建するのも悪くない。世界をやり直しても肝心要の創造主が同じなら、また同じ失敗を繰り返すに違いない! なんて外野の意見に耳を貸すな。インターネットの無記名投稿なんてものは放っておけ。信用して良いのは自分の感性だけ、それを忘れたらおしまいだと思え。
 世界の主である私の発言は、概ね上記のような内容に要約される。聴衆オーディエンス反応レスポンスは鈍かった。表明するべき態度に困っているというか、隣の者の顔を窺っている。
 私はわざとらしく深い溜息を吐いてから再び発言した。
「生まれ変わっても、また他人の顔色を窺って生きるのか? そうじゃないだろ! 何のために異世界に転生したんだよ」
 私に罵倒されても皆の表情は特に変わらない。奴らは死んだような顔をしている――まあ、一度は死んだ者たちだから、当たり前っちゃ当たり前だが。
 その中にあって生きのいい者は目立つ。長い金髪の武骨な男が、私に冷酷な視線を送っている。私と目が合うと、男は片手を上げた。
「異世界転生者向けの講習会と聞いてきたが、俺の場合それに当てはまるのか、質問したいのだが」
 質問は講習会の後で……と言いかけた司会進行役を片手で制して、私は言った。
「話を聞かせてくれ。まず、君の名前は?」
 男は立ち上がった。かなりの長身だった。服の上からでも逞しい体格だと分かる。前世は兵士、プロレスラー、あるいはボディービルダーと私は踏んだ。
 男は名乗った。
「カール・ゴルドゥノフ、職業はバレエ・ダンサー、スパイ、犯罪者だった。それに亡命者でもある」
 バレエ・ダンサーとは意外だった――私は頷いて、話を続きを促した。男は自分の半生を語り始めた。
 男はソビエト連邦時代のシベリアに生まれた。幼い頃からバレエを学んでいた彼はレニングラード国立バレエ団の特待生となり、やがてソビエト連邦で最高のバレエ・ダンサーと呼ばれるまでに出世し、西側諸国にも名が知られるようになった。だが、それは表の顔に過ぎない。裏ではシベリア・マフィアとつながりを持ち、さらに西側のスパイとしても活動していた。
 そんな危険な生活が、遂に終わりを告げるときが来た。ソ連の秘密警察KGB(Komitjet gosudarstvjennoj bjezopasnosti pri Sovjetje Ministrov SSSR、国家保安委員会)が、彼の正体に気付いたのだ。彼は妻を連れて逃亡した。目指すは西側の国境だ。彼の妻もバレリーナだった。二人は抜群の運動神経の持ち主だったので、走る列車から飛び降りたり逆に飛び乗ったりして逃亡を重ねた。高度一万メートルを飛ぶ旅客機のタイヤにしがみついて半分ぐらい冷凍状態のまま移動したこともある。苦労の甲斐あって、二人は西側への亡命に成功した。新しい人生の始まりだ! と夫婦二人で乾杯した直後、彼は意識を失った。酒に毒が入っていたのだ。妻は乾杯しただけで一滴も飲まなかったので無事だった。祝杯のグラスを干した夫は死に、やがて蘇った。この異世界に、異世界転生者として。
「俺は聞きたいのは、異世界転生者は元の世界へ戻れないのかってことだ。俺は元の世界に未練がある。俺はここでスローライフや成り上がりのユニークな異世界ライフを送るつもりはないし、爽快バトルをやる気はないし、人生をやり直したくもない。この世界で癒されたくもないし、婚約破棄された令嬢の復讐なんかに興味もない。俺は元いた世界へ戻って、俺を殺したソ連に復讐したい。ただそれだけなんだ」
 私はソビエト連邦は既に崩壊していることを告げた。カール・ゴルドゥノフは自分の死後つまり現世に転生してから元の世界で起こったについて何も知らなかったようだ。それでも、表情が変わったのが一瞬だけで、すぐにポーカーフェイスに戻ったのは見事だった。彼の記憶が事実だとすれば、前世で有能なスパイだったのは間違いなかろう。
 だが前世の記憶が蘇り混乱しているのも、また事実。そうでなければ、私の講習会に来ることはなかったはずだ。元の世界へ戻りたい、そのための方法を教えてほしいと聞かなかったことから察するに、以前のスリリングであり過ぎる生活へ逆戻りするのも不安なのだろう。迷いがあるのだ、と私は判断した。その上で問いかける。
「元の世界に戻ってどうする? ここで暮らしていくのが一番だ。異世界転生者は、選ばれた者なんだ。ここでもう一度バレエ・ダンサーをやってみたらどうかなあ? そういう異世界転生ものは、まだやってみる余地があると思うんだ」
 カール・ゴルドゥノフは考えさせてくれと言い、それから質問に答えてくれたことの礼を言って座った。
 転生前は犯罪者だが、礼儀正しい男だった。
 私は聴衆を見渡した。そして彼らに伝える。
「講習の途中でも、質問があれば受け付ける。どんどん手を上げてくれ」
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