17 / 18
第二章 悲壮の探索(アルヴァside)
アルヴァの苦難
しおりを挟む
地下牢は悪臭の溜まり場だ。暗くて湿っぽい場所を好む虫にとっては恰好の的で、虫の死骸や糞がそこかしこに散らばっている。週に一度は清掃が入るはずだが、染みついた臭いまでは落とすことができないようだ。
常人では鼻を摘まんでやっと歩けるようなところを、護衛騎士を引き連れたアルヴァは涼しげな顔をして進み、やがて瘦せ細った女性が収監されている牢屋の前で足を止めた。
「ネネッタ・メルキース。面を上げろ」
監視役から、配給される食事にあまりくちをつけていないと聞いていた。背中を丸めて、視線だけをこちらに向ける女性の姿に、なるほどな、と納得する。
ぱさついた髪、こけた頬、覇気のない目。生きることを諦めた人間の姿だ。
「……わたしはいつ死ねるのかしら」
まだ若いはずのネネッタの声は、まるで老婆のように掠れている。しかしアルヴァは、そんな痛ましい彼女に同情できるほど慈悲深くはない。
「刑の執行は三日後に執り行う。最後の日くらいは好きなものを食べさせてやろう。何がいいか考えておけ」
「何もいらないわ」
ネネッタは迷うことなく即答し、膝を立てて額をうずめた。
「一つ聞く。何故、わざわざ人目の多い場所で犯行に及んだ?」
確実にマリッサの命を奪うのなら、いつもの日常の中に潜めておいたほうがよかったはずだ。ことあるごとにファーシルを悪者に仕立て上げようとするアレンツァ公爵家の中で犯行に及んでいれば、ネネッタの思惑どおりファーシルに罪を被せることができただろう。なのに、わざわざ大規模なパーティーで主人公に毒を盛るなんてリスクが高いことしたのは何故か。もしも成功していたとしても、マリッサにグラスを渡したネネッタが疑われていたはずだ。
ネネッタは自嘲するように鼻で笑い、アルヴァの問いに答えた。
「正直、マリッサの殺し方も、場所も、なんだってよかったの。どうせマリッサを殺したあとはわたしも命を断つつもりだったから」
でもね、とネネッタが目線を持ち上げる。その眸はとても昏かった。
「あの悪魔の子が癪に障ったのよ。好きな人に振り向いてもらえなくて、こっちを見てほしくてもがいても空回って、寂しさを募らせて、どんどん自分の殻に閉じこもって――わたしと同じだと思ってたの。公爵様たちが憎いでしょ、マリッサを恨んでいるでしょうって」
「あの子は誰かを恨むなんてできないよ」
「……そうね。でも、それが信じられなかった。わたしよりも酷い扱いを受けてるあの子が憎しみや恨みを持たないなんておかしい、って。でも、マリッサのお披露目パーティーで、逆に諭されたのよ。マリッサを殺すべきじゃないって。頭に血が上って、抑えられなかった。どうしてわたしばかりが汚れていくんだ、お前は悪魔の子のはずなのに、って。ようは証明したかったの。お前はマリッサがいなくなれば喜ぶだろ。それがお前の本性だ。そうやって、嗤ってやるつもりだった」
「結果はどうだった」
「あなたが見てたとおりよ。あの子、一切の迷いなく、マリッサを助けようとした。それがあの子の本性だった」
そう言って、ネネッタはまた顔を伏せた。
「あの子がマリッサに嫌がらせをはじめたとき、仄暗い喜びを感じてた。やっぱりお前もわたしと一緒で汚れてるんだって。でも、マリッサの靴を切り裂くあの子の顔は、恨みなんかじゃなかった。ただ、泣いてた。助けてほしいって顔をして、泣いてたの」
ファーシルの涙には魔法がかけられているのかもしれない。魔法など物語の世界だけの代物だと分かっているが、そうとしか思えない。
ファーシルと婚約破棄して一週間。別れ際に見た彼の泣いている顔が頭から離れないのだ。
実の娘に毒を盛ろうとした恐ろしいネネッタでさえ、ファーシルの泣き顔が記憶に染みついているようだったし、やはりファーシルの涙には魔法がかけられているとしか思えない。
そんなこと考えながら、地下牢から皇宮の執務室に戻り書類を捌いていると、近衛騎士のデュバルがごほんとわざとらしく咳払いした。
「皇太子殿下、ここのところ隈が目立つようですが、ちゃんと休めていますか?」
「僕が不眠ぎみなのは今に始まった話じゃないだろう」
「それにしたって、最近は酷いですよ」
皇太子と呼ばれてはいるが、正式にはまだ立太子していない今、次期皇帝の座を狙っている者も少なくない。アルヴァの寝首を搔こうとする者や、誘拐を目論む輩もいるのだ。つねに気を張っているせいで、いつも眠りは浅かった。
そうだ。魔法がかけられているのはファーシルの涙だけではない。
どういうわけか、ファーシルの傍にいると、不眠ぎみなのが嘘のようにぐっすりと眠ってしまうのだ。それだけに留まらず、ファーシルからの手紙を読むと胸の辺りが熱くなるし、ファーシルが淹れたお茶はプロのものよりおいしく感じるし、ファーシルの笑った顔を見たときなんか心臓が猛烈に痛くなり病気を疑った。
いつも冷静で感情を乱さない自分が、ファーシルの前でだけはおかしくなる。
何か細工でもしているのではないかと、アルヴァを迎える支度をするファーシルの様子を外からこっそり観察したり、アルヴァの目の前で手紙を書かせたりしてみたけれど、変わったことは何もなかった。
そのとき、執務室のドアがノックされる音で、ハッと我に返った。
入れ、とドアの外に声をかけると、顔を覗かせたのは執事のリュナーだった。
「アルヴァ殿下、聖女様からお手紙が届いておりますよ」
「……またか」
嘆息を漏らし、リュナーから手紙を受け取る。用件はそれだけだったようで、リュナーは一礼するとその場を後にした。
聖女のマリッサからは毎日のように手紙が届いている。いずれもアルヴァの婚約者の座を狙っていることが見え透いた内容で、正直うんざりしている。
「聖女様と婚約されるのですか?」
デュバルの問いに、自然と眉間に皺が寄る。
「それが最善だろうね。気は乗らないが」
アルヴァが画策する『計画』のためには、聖女を取り入れたほうが都合がいい。だから聖女であるマリッサに愛想よく接していたが、個人的には彼女にいい印象を抱いていない。婚約者同志の逢瀬に割って入ってくるし、お披露目パーティーでは否が応でもファーシルを悪者にしようと躍起になっていたし。
アレンツァ公爵家に甘やかされすぎている弊害だろうが。自分は愛されて当然、自分の思いどおりになって当然、という態度が気にかかるのだ。
手紙の封を切り、さっと文面に目を通す。
勉強を教えてくださる約束を覚えていますか。日程はいつにしますか。
そんなことが書かれていた。
確かに、ファーシルとの逢瀬の帰り際、迎えにきた皇室の馬車に乗り込もうとしていたところを引き止められて「勉強を教えてほしい」と頼まれた。しかし自分は「機会があれば是非」と濁したはずだ。約束なんてした覚えがない。
「聖女様からは何と?」
ゴシップ好きのデュバルは目をらんらんと輝かせている。図々しい奴だ。
「勉強を教えてほしいってさ」
「お、いいじゃないですか。婚約するなら仲を深めませんと」
「まだ婚約するとは決めてない。聖女殿はアレンツァ公爵家に留まっているようだし、彼女と婚約すれば、頻繁に彼と鉢合わせることになりかねないしね」
アルヴァの言い分に、デュバルは「おや」という顔をする。
「ファーシル殿のことを気にかけてらっしゃるのですか」
「気にかけるというか……」
ファーシルの泣いている顔が頭から離れないだけだ。
「まあ、アルヴァ殿下が気にされることではないですよ。ファーシル殿がアレンツァ公爵家の一員であることには変わりありませんから、そのうち新しい婚約者もできるでしょうし」
「……新しい婚約者?」
驚くことではない。名家の子息なのだから、アルヴァと破談になったところで、また新たな婚約関係を結ぶのは当たり前だ。気にするようなことではない。分かっているのに、何故か気分が急降下していく。心臓に岩石をくくりつけたかのように胸が重たい。無性に腹が立ってきた。なんだこれは。
「アルヴァ殿下、難しい顔をしてどうしたんですか」
不機嫌のままにデュバルをじろりと睨むと、大の大人が「ひえっ」と竦み上がった。
「アレンツァ公爵家の中で彼の立場は弱いんだ。新しい婚約者なんてろくな奴じゃ……」
「心配なら、アルヴァ殿下がファーシル殿の婚約者を見繕ってはいかがでしょう」
名案、とばかりにデュバルが胸を張る。
確かに、目上の者に弱いアレンツァ公爵家なら、ファーシルの婚約相手をアルヴァが決めたところで文句は言わないだろう。皇帝陛下だって自分の腹を肥やすことしか考えていないし、わざわざ首を突っ込んでくることはないはずだ。
デュバルの案のとおり、ファーシルの涙を止めるには、アルヴァが信頼できる人選をするのが最善かもしれない。しかし、何故だか煮え切らない。
ファーシルが他の人にお茶を淹れたり、手紙を書いたり、笑いかけたりするところを想像してみる。作りものの世界だというのに、想像の中のファーシルを攫いたくてたまらない。
そんな衝動に駆られる自分が理解できなくて、アルヴァは「あーもー」と頭を抱えた。
いつもの理性的な自分でいられない。笑顔の仮面の被り方が分からなくなっている。
「彼の新しい婚約者の話は置いといて、とりあえず、聖女殿を敵に回すわけにもいかないし、そろそろ手紙の返事でも書くかな」
「お、めずらしいですね」
「もう手紙を送ってくるなって」
「敵に回すわけにはいかないのでは……?」
面倒くさいな。アルヴァは溜息を吐きながら、ぽっと指先に火を熾して、手にしていたマリッサからの手紙を燃やした。
「で、殿下、そんなに容易く神聖力を使っちゃいけませんよ」
「君以外の前では使わないさ」
ふっと息を吹きかけると、小さな火は細い煙を残して消えた。
アルヴァには秘密がある。その一つが、神聖力が使えることだ。このことを知っているのは、幼いころからアルヴァに仕える護衛騎士、目の前にいるデュバルだけだ。
アルヴァが神聖力に目覚めたのは、六つになったばかりのころのこと。
アルヴァの誕生日パーティーで、泣きそうな顔をして会場を後にしたファーシルを追いかけたとき、ファーシルはアルヴァの眸をじっと見て、感嘆するように「きれい」と呟いた。
――アルヴァ殿下の眸、お星さまみたいできれいですね。
先ほどまで涙に潤んでいた紅い眸は、まるで周りの光を集めたようにきらきらと輝いていた。きれいなのは、ファーシルも一緒だった。
アルヴァの眸を星に例えるファーシルの声は、何日経ってもアルヴァの耳に残っていた。
いつものように眠れない夜を過ごしているとき、なんとなく夜風にあたりなくなってベランダに出ると、見上げた空にはたくさんの星が瞬いていた。
どうして星は見えているのに、どれだけがんばっても手が届かないのだろう。もしも星に触れることができるのなら、ファーシルに星を取ってきてあげるのに。
そんなことを思って、一等大きな星に向かって手を伸ばし、星を掴んだ。もちろん、本当に星を手中に入れたわけではない。ただ星を掴む真似をしただけだ。――だけのはずだった。しかし、次の瞬間、アルヴァのこぶしの隙間から光が溢れ出したのだ。
おそるおそる手を開いてみると、そこには光があった。それは、まるで小さな星のようで。それは神聖力としか考えられなかった。
しかし、どうして突然アルヴァにそんな力が芽生えたのかは分からない。
神聖力の素質は五つまでに決まるとされているが、アルヴァは神聖力の査定では引っかからなかった。つまり、アルヴァの神聖力は途中から授かったということだ。そんな事例は聞いたことがなく、さまざまな文献を読み漁ったが前例はなかった。
奇妙だと思ったが、都合がよかった。
この力は、アルヴァの『計画』に利用できる。
だから、そのときまでは秘密にしていよう、そう決めたのだ。
常人では鼻を摘まんでやっと歩けるようなところを、護衛騎士を引き連れたアルヴァは涼しげな顔をして進み、やがて瘦せ細った女性が収監されている牢屋の前で足を止めた。
「ネネッタ・メルキース。面を上げろ」
監視役から、配給される食事にあまりくちをつけていないと聞いていた。背中を丸めて、視線だけをこちらに向ける女性の姿に、なるほどな、と納得する。
ぱさついた髪、こけた頬、覇気のない目。生きることを諦めた人間の姿だ。
「……わたしはいつ死ねるのかしら」
まだ若いはずのネネッタの声は、まるで老婆のように掠れている。しかしアルヴァは、そんな痛ましい彼女に同情できるほど慈悲深くはない。
「刑の執行は三日後に執り行う。最後の日くらいは好きなものを食べさせてやろう。何がいいか考えておけ」
「何もいらないわ」
ネネッタは迷うことなく即答し、膝を立てて額をうずめた。
「一つ聞く。何故、わざわざ人目の多い場所で犯行に及んだ?」
確実にマリッサの命を奪うのなら、いつもの日常の中に潜めておいたほうがよかったはずだ。ことあるごとにファーシルを悪者に仕立て上げようとするアレンツァ公爵家の中で犯行に及んでいれば、ネネッタの思惑どおりファーシルに罪を被せることができただろう。なのに、わざわざ大規模なパーティーで主人公に毒を盛るなんてリスクが高いことしたのは何故か。もしも成功していたとしても、マリッサにグラスを渡したネネッタが疑われていたはずだ。
ネネッタは自嘲するように鼻で笑い、アルヴァの問いに答えた。
「正直、マリッサの殺し方も、場所も、なんだってよかったの。どうせマリッサを殺したあとはわたしも命を断つつもりだったから」
でもね、とネネッタが目線を持ち上げる。その眸はとても昏かった。
「あの悪魔の子が癪に障ったのよ。好きな人に振り向いてもらえなくて、こっちを見てほしくてもがいても空回って、寂しさを募らせて、どんどん自分の殻に閉じこもって――わたしと同じだと思ってたの。公爵様たちが憎いでしょ、マリッサを恨んでいるでしょうって」
「あの子は誰かを恨むなんてできないよ」
「……そうね。でも、それが信じられなかった。わたしよりも酷い扱いを受けてるあの子が憎しみや恨みを持たないなんておかしい、って。でも、マリッサのお披露目パーティーで、逆に諭されたのよ。マリッサを殺すべきじゃないって。頭に血が上って、抑えられなかった。どうしてわたしばかりが汚れていくんだ、お前は悪魔の子のはずなのに、って。ようは証明したかったの。お前はマリッサがいなくなれば喜ぶだろ。それがお前の本性だ。そうやって、嗤ってやるつもりだった」
「結果はどうだった」
「あなたが見てたとおりよ。あの子、一切の迷いなく、マリッサを助けようとした。それがあの子の本性だった」
そう言って、ネネッタはまた顔を伏せた。
「あの子がマリッサに嫌がらせをはじめたとき、仄暗い喜びを感じてた。やっぱりお前もわたしと一緒で汚れてるんだって。でも、マリッサの靴を切り裂くあの子の顔は、恨みなんかじゃなかった。ただ、泣いてた。助けてほしいって顔をして、泣いてたの」
ファーシルの涙には魔法がかけられているのかもしれない。魔法など物語の世界だけの代物だと分かっているが、そうとしか思えない。
ファーシルと婚約破棄して一週間。別れ際に見た彼の泣いている顔が頭から離れないのだ。
実の娘に毒を盛ろうとした恐ろしいネネッタでさえ、ファーシルの泣き顔が記憶に染みついているようだったし、やはりファーシルの涙には魔法がかけられているとしか思えない。
そんなこと考えながら、地下牢から皇宮の執務室に戻り書類を捌いていると、近衛騎士のデュバルがごほんとわざとらしく咳払いした。
「皇太子殿下、ここのところ隈が目立つようですが、ちゃんと休めていますか?」
「僕が不眠ぎみなのは今に始まった話じゃないだろう」
「それにしたって、最近は酷いですよ」
皇太子と呼ばれてはいるが、正式にはまだ立太子していない今、次期皇帝の座を狙っている者も少なくない。アルヴァの寝首を搔こうとする者や、誘拐を目論む輩もいるのだ。つねに気を張っているせいで、いつも眠りは浅かった。
そうだ。魔法がかけられているのはファーシルの涙だけではない。
どういうわけか、ファーシルの傍にいると、不眠ぎみなのが嘘のようにぐっすりと眠ってしまうのだ。それだけに留まらず、ファーシルからの手紙を読むと胸の辺りが熱くなるし、ファーシルが淹れたお茶はプロのものよりおいしく感じるし、ファーシルの笑った顔を見たときなんか心臓が猛烈に痛くなり病気を疑った。
いつも冷静で感情を乱さない自分が、ファーシルの前でだけはおかしくなる。
何か細工でもしているのではないかと、アルヴァを迎える支度をするファーシルの様子を外からこっそり観察したり、アルヴァの目の前で手紙を書かせたりしてみたけれど、変わったことは何もなかった。
そのとき、執務室のドアがノックされる音で、ハッと我に返った。
入れ、とドアの外に声をかけると、顔を覗かせたのは執事のリュナーだった。
「アルヴァ殿下、聖女様からお手紙が届いておりますよ」
「……またか」
嘆息を漏らし、リュナーから手紙を受け取る。用件はそれだけだったようで、リュナーは一礼するとその場を後にした。
聖女のマリッサからは毎日のように手紙が届いている。いずれもアルヴァの婚約者の座を狙っていることが見え透いた内容で、正直うんざりしている。
「聖女様と婚約されるのですか?」
デュバルの問いに、自然と眉間に皺が寄る。
「それが最善だろうね。気は乗らないが」
アルヴァが画策する『計画』のためには、聖女を取り入れたほうが都合がいい。だから聖女であるマリッサに愛想よく接していたが、個人的には彼女にいい印象を抱いていない。婚約者同志の逢瀬に割って入ってくるし、お披露目パーティーでは否が応でもファーシルを悪者にしようと躍起になっていたし。
アレンツァ公爵家に甘やかされすぎている弊害だろうが。自分は愛されて当然、自分の思いどおりになって当然、という態度が気にかかるのだ。
手紙の封を切り、さっと文面に目を通す。
勉強を教えてくださる約束を覚えていますか。日程はいつにしますか。
そんなことが書かれていた。
確かに、ファーシルとの逢瀬の帰り際、迎えにきた皇室の馬車に乗り込もうとしていたところを引き止められて「勉強を教えてほしい」と頼まれた。しかし自分は「機会があれば是非」と濁したはずだ。約束なんてした覚えがない。
「聖女様からは何と?」
ゴシップ好きのデュバルは目をらんらんと輝かせている。図々しい奴だ。
「勉強を教えてほしいってさ」
「お、いいじゃないですか。婚約するなら仲を深めませんと」
「まだ婚約するとは決めてない。聖女殿はアレンツァ公爵家に留まっているようだし、彼女と婚約すれば、頻繁に彼と鉢合わせることになりかねないしね」
アルヴァの言い分に、デュバルは「おや」という顔をする。
「ファーシル殿のことを気にかけてらっしゃるのですか」
「気にかけるというか……」
ファーシルの泣いている顔が頭から離れないだけだ。
「まあ、アルヴァ殿下が気にされることではないですよ。ファーシル殿がアレンツァ公爵家の一員であることには変わりありませんから、そのうち新しい婚約者もできるでしょうし」
「……新しい婚約者?」
驚くことではない。名家の子息なのだから、アルヴァと破談になったところで、また新たな婚約関係を結ぶのは当たり前だ。気にするようなことではない。分かっているのに、何故か気分が急降下していく。心臓に岩石をくくりつけたかのように胸が重たい。無性に腹が立ってきた。なんだこれは。
「アルヴァ殿下、難しい顔をしてどうしたんですか」
不機嫌のままにデュバルをじろりと睨むと、大の大人が「ひえっ」と竦み上がった。
「アレンツァ公爵家の中で彼の立場は弱いんだ。新しい婚約者なんてろくな奴じゃ……」
「心配なら、アルヴァ殿下がファーシル殿の婚約者を見繕ってはいかがでしょう」
名案、とばかりにデュバルが胸を張る。
確かに、目上の者に弱いアレンツァ公爵家なら、ファーシルの婚約相手をアルヴァが決めたところで文句は言わないだろう。皇帝陛下だって自分の腹を肥やすことしか考えていないし、わざわざ首を突っ込んでくることはないはずだ。
デュバルの案のとおり、ファーシルの涙を止めるには、アルヴァが信頼できる人選をするのが最善かもしれない。しかし、何故だか煮え切らない。
ファーシルが他の人にお茶を淹れたり、手紙を書いたり、笑いかけたりするところを想像してみる。作りものの世界だというのに、想像の中のファーシルを攫いたくてたまらない。
そんな衝動に駆られる自分が理解できなくて、アルヴァは「あーもー」と頭を抱えた。
いつもの理性的な自分でいられない。笑顔の仮面の被り方が分からなくなっている。
「彼の新しい婚約者の話は置いといて、とりあえず、聖女殿を敵に回すわけにもいかないし、そろそろ手紙の返事でも書くかな」
「お、めずらしいですね」
「もう手紙を送ってくるなって」
「敵に回すわけにはいかないのでは……?」
面倒くさいな。アルヴァは溜息を吐きながら、ぽっと指先に火を熾して、手にしていたマリッサからの手紙を燃やした。
「で、殿下、そんなに容易く神聖力を使っちゃいけませんよ」
「君以外の前では使わないさ」
ふっと息を吹きかけると、小さな火は細い煙を残して消えた。
アルヴァには秘密がある。その一つが、神聖力が使えることだ。このことを知っているのは、幼いころからアルヴァに仕える護衛騎士、目の前にいるデュバルだけだ。
アルヴァが神聖力に目覚めたのは、六つになったばかりのころのこと。
アルヴァの誕生日パーティーで、泣きそうな顔をして会場を後にしたファーシルを追いかけたとき、ファーシルはアルヴァの眸をじっと見て、感嘆するように「きれい」と呟いた。
――アルヴァ殿下の眸、お星さまみたいできれいですね。
先ほどまで涙に潤んでいた紅い眸は、まるで周りの光を集めたようにきらきらと輝いていた。きれいなのは、ファーシルも一緒だった。
アルヴァの眸を星に例えるファーシルの声は、何日経ってもアルヴァの耳に残っていた。
いつものように眠れない夜を過ごしているとき、なんとなく夜風にあたりなくなってベランダに出ると、見上げた空にはたくさんの星が瞬いていた。
どうして星は見えているのに、どれだけがんばっても手が届かないのだろう。もしも星に触れることができるのなら、ファーシルに星を取ってきてあげるのに。
そんなことを思って、一等大きな星に向かって手を伸ばし、星を掴んだ。もちろん、本当に星を手中に入れたわけではない。ただ星を掴む真似をしただけだ。――だけのはずだった。しかし、次の瞬間、アルヴァのこぶしの隙間から光が溢れ出したのだ。
おそるおそる手を開いてみると、そこには光があった。それは、まるで小さな星のようで。それは神聖力としか考えられなかった。
しかし、どうして突然アルヴァにそんな力が芽生えたのかは分からない。
神聖力の素質は五つまでに決まるとされているが、アルヴァは神聖力の査定では引っかからなかった。つまり、アルヴァの神聖力は途中から授かったということだ。そんな事例は聞いたことがなく、さまざまな文献を読み漁ったが前例はなかった。
奇妙だと思ったが、都合がよかった。
この力は、アルヴァの『計画』に利用できる。
だから、そのときまでは秘密にしていよう、そう決めたのだ。
433
あなたにおすすめの小説
【bl】砕かれた誇り
perari
BL
アルファの幼馴染と淫らに絡んだあと、彼は医者を呼んで、私の印を消させた。
「来月結婚するんだ。君に誤解はさせたくない。」
「あいつは嫉妬深い。泣かせるわけにはいかない。」
「君ももう年頃の残り物のオメガだろ? 俺の印をつけたまま、他のアルファとお見合いするなんてありえない。」
彼は冷たく、けれどどこか薄情な笑みを浮かべながら、一枚の小切手を私に投げ渡す。
「長い間、俺に従ってきたんだから、君を傷つけたりはしない。」
「結婚の日には招待状を送る。必ず来て、席につけよ。」
---
いくつかのコメントを拝見し、大変申し訳なく思っております。
私は現在日本語を勉強しており、この文章はAI作品ではありませんが、
一部に翻訳ソフトを使用しています。
もし読んでくださる中で日本語のおかしな点をご指摘いただけましたら、
本当にありがたく思います。
分厚いメガネ令息の非日常
餅粉
BL
「こいつは俺の女だ。手を出したらどうなるかわかるよな」
「シノ様……素敵!」
おかしい。おかしすぎる!恥ずかしくないのか?高位貴族が平民の女学生に俺の女ってしかもお前は婚約者いるだろうが!!
その女学生の周りにはお慕いしているであろう貴族数名が立っていた。
「ジュリーが一番素敵だよ」
「そうだよ!ジュリーが一番可愛いし美人だし素敵だよ!!」
「……うん。ジュリーの方が…素敵」
ほんと何この状況、怖い!怖いすぎるぞ!あと妙にキモい
「先輩、私もおかしいと思います」
「だよな!」
これは真面目に学生生活を送ろうとする俺の日常のお話
愛してやまなかった婚約者は俺に興味がない
了承
BL
卒業パーティー。
皇子は婚約者に破棄を告げ、左腕には新しい恋人を抱いていた。
青年はただ微笑み、一枚の紙を手渡す。
皇子が目を向けた、その瞬間——。
「この瞬間だと思った。」
すべてを愛で終わらせた、沈黙の恋の物語。
IFストーリーあり
誤字あれば報告お願いします!
美澄の顔には抗えない。
米奏よぞら
BL
スパダリ美形攻め×流され面食い受け
高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。
※なろう、カクヨムでも掲載中です。
春を拒む【完結】
璃々丸
BL
日本有数の財閥三男でΩの北條院環(ほうじょういん たまき)の目の前には見るからに可憐で儚げなΩの女子大生、桜雛子(さくら ひなこ)が座っていた。
「ケイト君を解放してあげてください!」
大きなおめめをうるうるさせながらそう訴えかけてきた。
ケイト君────諏訪恵都(すわ けいと)は環の婚約者であるαだった。
環とはひとまわり歳の差がある。この女はそんな環の負い目を突いてきたつもりだろうが、『こちとらお前等より人生経験それなりに積んどんねん────!』
そう簡単に譲って堪るか、と大人げない反撃を開始するのであった。
オメガバな設定ですが設定は緩めで独自設定があります、ご注意。
不定期更新になります。
寂しいを分け与えた
こじらせた処女
BL
いつものように家に帰ったら、母さんが居なかった。最初は何か厄介ごとに巻き込まれたのかと思ったが、部屋が荒れた形跡もないからそうではないらしい。米も、味噌も、指輪も着物も全部が綺麗になくなっていて、代わりに手紙が置いてあった。
昔の恋人が帰ってきた、だからその人の故郷に行く、と。いくらガキの俺でも分かる。俺は捨てられたってことだ。
僕の幸せは
春夏
BL
【完結しました】
【エールいただきました。ありがとうございます】
【たくさんの“いいね”ありがとうございます】
【たくさんの方々に読んでいただけて本当に嬉しいです。ありがとうございます!】
恋人に捨てられた悠の心情。
話は別れから始まります。全編が悠の視点です。
届かない「ただいま」
AzureHaru
BL
いつも通りの変わらない日常のはずだった。
「行ってきます。」と言って出て行った貴方。1日が終わる頃に「ただいま。」と「おかえり。」を笑顔で交わすはずだった。でも、その言葉はもう貴方には届かない。
これは「優しさが奪った日常」の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる