1F原発復旧3号機ドーム建設酔夢譚

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1F原発復旧3号機ドーム建設酔夢譚 【1】~【10】

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1F原発復旧3号機ドーム建設酔夢譚

はじめに
私は1Fで原発復旧作業の放射線管理をしている青成瓢太(以後瓢タン)といわきの居酒屋とか寮の部屋とかで飲むことがあった。瓢タンの話は例え話を交えており酒の力によってどこまでが事実かどうか、作り話のようにも思えるが、それなりにリアリティもあって面白くもあった。

【プロローグ】ガーガの呼び声
【1】 武道の猛者に泣き出す女子事務員
【2】Jヴィレッジのレトルト食品
【3】重症災害の嗚咽と逃げるドライバー
【4】大物搬入口の不気味な風
【5】ビビりの初回測定
【6】巡礼
【7】あっちもこっちも警報だらけの現場
【8】全面マスクは水中マスク
【9】オペフロ線量低下と地上線量上昇
【10】除染電離測と帰還基準
プロローグ
大地震後の大津波が襲ったその時、機械保守担当川中真一は建屋の外でまさかそんなことになっているとは思わずに建屋内のタービンを点検していた。
 タービン建屋は原子炉建屋の隣で海抜約10mにある。通称「10m盤」と呼ばれているが、津波の際は徒歩で30m盤と呼ばれている通称「高台」まで歩いて逃げることになっている。 機械保守のグループ長は地震後すぐに高台の免震棟内に退避していたが、津波と言っても通常の数mくらいとしか考えていなかった。だから誰も速やかに退避の指令を真一に出していなかった。
 真一は10m盤のタービン建屋内点検中に、突然屋外から押し寄せる圧倒的な海水の流転の渦の中で意識を失い、複雑な機械空間の中で機器に叩きつけられ、最初の一撃によって水中で息を引き取った。
 その亡骸は正門から搬出され富岡町体育館に一旦安置された。瓢タンは幼馴染でもあり津波後に真一が帰ってこないことを知った。遺体安置まで付き添った瓢タンの目の前の遺体は前進紫色のうっ血で、痣だらけであり、もし自分が彼の代わりに保守点検を行っていたらどうなっていたか、と、たらればの答えのない問答が頭の中を駆け巡った。
 遺体が原発最寄りの体育館で安置されたことを母親に連絡をして、それを受けて一目散で駆け付けた母親を入り口で迎えた。すると母親は瓢タンに会うなり、すがりつくようにしてこう言った。
「息子は生きてるよ。生きているんですよ、さっき電話があったんですよ」
 母親のあまりのとっさの言葉にたいして、瓢タンは答える言葉がみつからなかった。安置室に一歩入れば紫色の遺体を目の前にすることになり、現実を理解するだろう、そう思って黙っていると、母親はさらに続けた。
「さっき妹と電話してたんですよ、そしたらガーガと聞こえたんですよ。」
「ガーガ?ってそれは電話のノイズですか?」瓢タンは聞き返した。
「違いますよ、あの子は幼いころからずっと私をガーガと呼んでいたんですよ。いまでも。それがさっき電話の中で聞こえたので、いまガーガって真一の声がしたよねと妹にいったら妹もそうだねと言ったんですよ。だから電話の声はノイズではないんですよ、真一は生きているんですよ。」
 真一の魂が電波となって電話に現れたのか?瓢タンはそう思って気が動転したが、しかし次の瞬間母親は目の前の遺体安置室の中の現実に出合うだろうと自分に言い聞かせるのだった。
 しかし母親が聞いたと言うガーガの呼び声と、部屋に入れば紫の遺体があるというこの酷い現実の状況を素直には受け取ることはできず、もし~だったらの、答えようのない不条理にうろたえ、免震棟からタービン建屋に向かうとき見た彼の最後の微笑みをフラッシュバックさせながら、瓢タンはそれ以上真一の母親を直視することはできなかった。
 その後60日くらい経って瓢タンが母親を尋ねると、彼女は四国巡礼の旅支度をしているところだった。「ガーガ!」の呼び声のあとに何が続くのだったろうか?その疑問の答えを探すために。

【1】武道の猛者に泣き出す女子事務員
3号建屋のドーム建設は2011年6月にJVとして立ち上がった。JVとはジョイントベンチャー、共同事業体といって、今回は大手ゼネコン6社の共同企業体で、幹事企業は鹿山建設だった。作業を請け負う下請け企業も決まって、いわき市内の作業員用プレハブの宿舎も完成した。しばらくは調査目的で原発構内に入り作業計画を立ててゆく。
 3号機のオペフロ、原子炉建屋の最上階、使用済み燃料プールのある壁や天井は水素爆発で吹っ飛んだ。原子炉圧力容器を囲む原子炉格納容器とそれを囲むコンクリート建屋、そこまでは頑丈に作られているが、その上のオペフロは鉄骨梁にコンクリートの壁材を張り付けたものだった。水素爆発では簡単に破壊され、骨組みの鉄骨は恐竜の背骨のように折れ曲がっていた。オペフロの壁材はいったん垂直に吹き上がったあと粉々になって落ちた。無残な残骸というしかない。
 オペフロ壁材は板材を重ねたもので原子炉までの壁材よりは爆発には弱いので、爆発の際に吹き飛ぶようになっていた。逆に言えばオペフロ壁材破壊で吹き飛んだことにより原子炉建屋には応力がかからず守られていた。
 3号機JVのルールでは30歳前は原則として事務所勤務であった。瓢タンは現場採用の現場放管(放射線管理)なので32歳でも現場に行くが、法令上の被ばく基準を守っていればいい。事務所には全国の工事現場から職員が3か月交代でやってくるが、年寄りから先に派遣されてくる。若手は家族の同意が有られそうにもなかったからだ。亭主元気で留守がいい、ってことで年寄りになると家族の同意も得やすい。孫の写真を忍ばせて北海道から沖縄より遠路はるばるやってくる者もいた。他のゼネコンも同様だったし、全国からやってくる下請けの作業員も年寄りが多く、事務所の平均年齢が60歳に近い。
 まずはゼネコン職員が50人、下請け作業員が50人。それだけの人数が集まったが、ここで問題はかき集めた皆が原発を初めて経験することだ。原発で仕事する場合はまず中央登録といって一元管理元から登録NOをもらうこと。
 原発作業従事者の被ばく管理は中央登録が一元的に行っている。併せて電力会社に作業者証を発行してもらう。そういう事務業務を専門で行う事務放管がある。3号機JVは事務放管のできる経験者を雇ったが急場拵えで作業員を集めているので電力会社も業務進行が遅れて、手続きに二週間ほどかかった。その間は作業員には日当、職員にも日割りの給料を払う。しかし日当もらってもなにもすることがないのは人間は一番苦手であり苦痛だ。避難者が補償金もらってもストレスで病気になったりするのと同じだ。
 何もせずに一週間も経った。JV職員のなかで佐木っつぁんは武道の猛者で、力ずくで事務手続きが進むんではないかと思い、事務放管に怒鳴り込んだ。事務放管手続きは女性が数人でやっており、彼女たちは放管手続きの経験者で中央登録から電力会社登録そして放管手帳発行までと原発への入構証発行までを行い、原発で作業するためのAB教育、新規入所時教育の申し込みまで行う。専任の経験者でなければ進まないので経験のあるいわき市在住の事務員を募集して集めた。
 ただでさえ原発入門は手続きが厳しいのに、一気に増えた人数を大量処理するシステムはなかった。しかし現場の猛者たちは事務所で二週間も待たされるなんてのはいままでの一般の現場では経験がない。
「なんでそんなんに時間がかかるんじゃあ!われわれはいつまで事務所待機すればいいんじゃあ!」
 佐木っつぁんはいかめしい赤レンガのような顔つきで言った。
 すると対応の女性事務員は泣きだしてしまった。
 女を泣かせてもどうにもならない。ますます手続きが遅れることを佐木っつぁんは理解した。
 原発で作業する手続きの面倒なことが強面の猛者たちも肌でだんだんわかってきた。できないものはできないと。
「そっかあ、彼女たちはするべきことはやってるんだなあ。問題は手続きが煩雑なんだな。そこが一般の現場と違うところか。事務所で待機しているしかないんだな」
 佐木っつぁんは腕組みしながらそうつぶやいて事務所の待機を覚悟した。
 当初の作業者証には写真がついていなかった。ある外人記者が偽造作業者証で入門したことがあった。正門の警備で見つかった。それからは写真つきになってますます手続きに時間がかかるようになった。
 
 一方、現場放管担当として採用された瓢タンの当面のやることは毎日全国から集まってくる作業員やJV職員の放射線教育だった。一般の現場しか知らない作業者たちに原発構内での放射線管理ルールを教えるのだ。教育はまず電力会社が全企業対象にJヴィレッジで毎日百人単位で教育する。これをAB教育という座学でJヴィレッジの会議室で行った。
 そして各企業単位でそれぞれの仕事に合わせたルールを教育する。土木もあれば建築もあれ、汚染水の装置系、電源系など復旧工事は様々だが主として当初は土木建築の人数が多い。日立東芝などが活躍できるのは原子炉周りの作業だから設備土木建築の後になる。
 国内作業者も千差万別で、下請け作業員の中には多重下請けの構造で、反社組織から派遣された全身唐獅子のタトーなどはありふれた光景だった。電力会社からは下着も支給されるので着替えの時に裸になったときにわかる。
 タトーがあるからやくざ者とは限らない。とび職人にはタトーが多い。見分けは、目を合わせるかどうかだ。多重下請けの反社組織から来た者は目を合わせなかった。
 免許証が身分証明だったが、その免許証も仮免の写真のないもので偽造を提出するものもいた。とにかく手と足があれば汚染した高線量瓦礫の撤去運搬くらいはできる。空間線量3mSvの3号機周辺では一か月で40mSv被ばくして交代する作業員もいて、若い人は集まらないし、猫の手も借りたいくらいだった。


【2】Jヴィレッジのレトルト食品
原発で作業するには正門をくぐらなければいけないが、手前20k圏内は警戒区域だから一般服では行けない。まず20k離れた広野町と楢葉町に跨っているJヴィレッジまで一般バスで行き、そこで防護服を着て全面マスクを抱えてから1F往復専用のバスに乗り継いで行く。Jヴィレッジは電力会社が資金をだしてつくったサッカー場だ。今回の事故のために中継所に変貌した。サッカーグランドは駐車場と電力職員の宿泊プレハブに埋め尽くされた。
 Jヴィレッジの先は全面マスクを抱てデュポン製品の紙のようなつなぎ服であるタイベック(デュポンの商標)を着て綿手、ゴム手、軍足を付ける。その格好でバスを乗り換えて原発構内へ向かう。原発正門手前1kmのところでバスを停車させて、車内で全員が全面マスクを着ける。いわき市の事務所からJヴィレッジまでは40分かかる、着替えが20分、バス待ち時間が20分、Jヴィレッジから免震棟までは40分かかる。つまり毎日二時間かけて1F構内休憩所の免震棟までたどり着く。往復4時間だ。昼の休憩が1時間、都合5時間。免震棟の中で現場へ行くための着替えをして、現場から帰ってきて着替えをして、それが40分、免震棟から現場までが構内専用車両で往復20分、計1時間。ここまでで6時間。これに打ち合わせや待ち時間を加えるから実質の作業時間は1時間。
 放射能の飛散した3号機周りの現場では、その1時間もたたないうちに1mSv被ばくしてしまい、そそくさと帰ってくるのだった。なぜなら1日の被ばく線量は最大値が決まっており、年間も制限がある。企業によって異なるが3号復旧工事の場合は1日3mSvの制限があった。年間40mSv に達すると作業者証を返却して地元へ帰郷しなければならない。毎日3mSvの被ばくをすれば13日間で限界ぎりぎりの39mSvに到達して荷物をまとめて作業員宿舎を出ていかなければいけない。そこで作業員は収入を安定的に確保するためにはなるべく被ばくを抑えることを考える。
 APDという被ばく線量測定器を身に着けるがそれは警報設定値3mSvの1/5ごとに短いプレ警報音を出す。一回目の警報は0.6mSvだ。だいたいの作業員はその短いプレ警報を聞けば仕事を終わらせようとする。無理して頑張って3mSv警報まで作業を続けると13日で田舎へ帰らなければいけない。日当5000円と手当て併せて2万円。26万円で出稼ぎ仕事が終わってしまう。もし細く長くということで一か月2mSv以内で要領よくやれば1年で24mSv。限度は5年で100mSvだから約5年は毎日2万円の仕事が継続できる。月に25日として50万円になる。残業追加すると70万円前後になる。    
 しかし工事ストップがあるとその日の収入はない。日当は雑作業で1万円、特殊技能のクレーンオペで2万円。これに被ばく危険手当が東電から作業者へ2万円支給されるが、鹿山の契約社員は2万円そのまま支給されるが、下請け業者の場合は、5000円が一般的で、鹿山から支給される2万円のうち差し引きの1万5千円は下請け企業の積み立てとして内部留保される。積み立てが無ければ明日いきなり仕事がストップされる場合に日当も危険手当も0円になるが、その場合にも日当を支給するためである。
 
 Jヴィレッジは日増しに増える瓦礫撤去の作業員でごった返した。タイベックや下着の配給のための保管部屋はあるが、着替えの部屋というのは特になく、廊下やロビーなど隙間があればそこで着替える。そして作業から戻ってきてから着替える。概ね1時間で被ばく限度に達するので、昼にはJヴィレッジに帰ってきて、そして昼食をとる。
 昼食は電力会社が支給するレトルト食品で、ミネラル飲料を注いで発熱するカレーや丼物だ。通称モーリアンヒートパックと言われている。
 瓢タンたちは事務所にいてもすることがないのでJヴィレッジまで暇つぶしに往復した。
「おい、瓢タンよ、Jヴィレッジまで行って電力が支給してくれるレトルト食品食べて帰ってこよう」
 昼前になると佐木っつあんは毎日やることがないので瓢タンを誘った。JV職員のうち作業員証発行待ちの者は毎日Jヴィレッジまで暇つぶしの往復をしてレトルトの昼食を食べて帰ってくるのだった。
 1F構内作業できるまでの待機期間は日当が支払われる。
「きょうはレトルトの蒸気を天井まで届かせよう」
 自然飲料を注いで発熱するレトルトはタイミングよく封を開けると蒸気が天井まで届く。
「おい!きょうは天井まで届いたぞ」佐木はそう言って瓢タンに笑いを投げた。
 レトルトの蒸気を競って遊んで帰ってくる、あるいは二階のベランダで、そろそろ燕の季節になっており、ベランダの手すりに止まっている燕が指に止まるかどうかを競って時間を潰す。しがない一日が7月中旬まで2週間以上続いた。
 まだ原発作業する前に、全員が作業登録のためにWBCを受けて内部被ばくの測定をする。人の体は日常で普通は炭素C14やカリウムなど放射性物質を蓄えており、4000~6000CPMはカウントされる。Jヴィレッジの東電WBC(ホールボディカウンタ)はそれらを差し引いてセシウムCsの計数がカウントされる。この時期、作業に入れば誰でも2000~3000CPMはカウントされた。
 体重の多い人は自分の体で遮蔽してしまうので少なくカウントされ、体重の軽い人ほど遮蔽が少ないのでカウント数は高かった。
「おい、俺は1000cpmだ、一番少ないぞ」
 そう自慢する作業員に瓢タンは言った。
「あほか、それはお前が一番肥満だってことだよ」
 この時期にはWBCは毎月一回行った。
 柏から来たJV職員に作業前の受検でヨウ素が検出された。すでに3か月たっており、ヨウ素の半減期は8日なので水素爆発から7月10日まで約120日、半減期が15回過ぎているので0.5を15乗すると0.00003となる。1cpmの計数でも爆発時には33,000cpmのヨウ素内部被ばくしたことになる。10cpmならば33万cpmを当時内部被ばくしたことになる。
 逆に考えれば、登録前のWBCデータを調べれば東日本のヨウ素被ばくの実態がわかるかもしれない。

【3】重症災害の嗚咽と逃げるドライバーと救急搬送
2011年7月に入って、2週間がすぎて先発隊の調査もおわり、すぐに3号復旧の計画が具体化した。3号機復旧とは初めに3号機原子炉建屋の上にある燃料プールにある使用済み燃料を取り出すことが急務であり、原子炉建屋を鉄骨で覆い、その上に同じく鉄骨のドームを設置して、そのドームに組み込まれたクレーンによって使用済み燃料を取り出す計画だ。ドーム設置までを鹿山建設が行う。ドームは小名浜で組み立てて海上経由で1Fの港湾内に会場運搬し、そして陸揚げして10m盤の原子炉建屋まで移動する。そして大型クレーン二機で吊り上げて設置する。ドーム内部には東芝がクレーン装置を組み込んでおく。
 佐木っつあんの懸案の作業員証も全員発行された。まず鉄骨をくみ上げるための遠隔操作の大型クレーン重機が動けるための路盤整備をする。路盤整備とは道路上に散らばった残骸を片付けて、放射線を防ぐために砕石を数十センチ敷き詰め、さらに放射線を防ぐための鉄板を敷き詰める。鉄板は4センチ厚さでセシウム放射線を10分の1に遮へいする。その鉄板の上をクレーン重機が遠隔操作で動き、オペフロ上に無数に散らばった高線量瓦礫をひとつづつ取り除いて地上に下ろす。降ろした瓦礫を原発構内の林を開拓してつくった仮置き場に隔離する。
 オペフロ上に高線量瓦礫がなくなればそこへ分厚い鉄板を敷いて原子炉から漏れる放射線を遮へいし、人が立ち入れるようにする。高線量瓦礫のせいでオペフロ上は1Sv/h以上の高線量であり、そこに作業員が経つために空間線量率の目標を1mSv/hとする。
 
 4号機はたまたま原子炉定期検査中だったので燃料はすべてオペフロ上の燃料プールにあって、オペフロ階の建屋外壁は吹っ飛んだが、放射線はプールの水遮蔽によって人が入れるようなくらいの線量率だった。そこでまずオペフロ上にクレーンを設置するため、原子炉建屋を鉄骨で囲って補強し、その内部に取り出し用クレーンを組み込むことになった。ゼネコンは竹山建設だった。
 2号機は建屋が外観上はそのまま残っていたが、逆に今後の方針がすぐには決まらなかった。まず建屋内を調査しなければいけないが、線量率が高すぎておいそれとは人が入れない。建屋内の調査をするための構台設置などからスタートする。ゼネコンは鹿山建設だった。
 1号機は3号と同様にオペフロ階外壁が吹っ飛んだので3号と同様に使用済み燃料プールの上にクレーンを据え付ける計画だ。まず順序として取り合えずは建屋全体をオペフロ放射能が飛散しないようにカバーでくるんでしまい、3号の目途がついてからそれを踏まえてオペフロ瓦礫など復旧することになった。
 そこでいち早く外壁をパネルで覆ってしまった。ゼネコンは真水建設だった。クレーンなど機械装置は日立の所掌範囲だった。
 最後のパネルが1号の外観を塞いだ後、あとは道具を片づけるだけの段階で思わぬ重大事故が発生した。クレーンで使う極太の鋼鉄製ロープを移動するときだった。
「おーい!揚げていいぞう」全面マスクで白タイベックを着た作業員が手を上げて合図していた。
「まわりの人は吊り荷の下から離れろ~~」
 そうやって基本通りに揚重作業をしていたときだった。とつぜん何トンもある鋼鉄の太いロープが荷揚げパレットの台座から落ちたのだ。これで作業は最後だと思って安心して、うっかりしたのか?極太鋼鉄ロープをパレット台座に固定していなかった。
 落ちたロープは地上でバウンドして跳ね上がったが、そのよじれを解くように、まるで蛇がくねるように、そして鞭がしなるように地上でバウンドすると一瞬で近くにいた2人の作業員をなぎ倒した。逃げようとしても逃げられない。そのくらいの速さでロープが跳ねたのである。二人は腰の骨、大腿の骨を骨折した。二度と現場に復帰はできないくらいに。
 瓢タンは地元の東芝所属の65歳になる安全管理者の矢作と知り合いだったが、その矢作と重症を負った作業員は知り合いで、過去に現場教育をしたことがある。矢作は安全教育でパレットに荷を積んで揚重するときは積み荷をパレットに括り付けることを厳守するよう作業員に教育していたつもりだった。しかし今回の問題点はクレーンで吊り上げる高さの1.5倍の半径を立入禁止にしていないことも原因だった。矢作は「俺がその現場にいればこんな事故など起こさなかったのに」と悔しがった。
 後日、矢作が負傷した重症者のベッドを訪れると、本人は涙目で迎えた。もう二度と現場に立つことはできない。両足切断だった。働き盛りなのに家族とも別れることになった。何が原因で何が悪かったか、病室からはしばらく嗚咽だけが漏れていた。
 
 3号ではJVの職員が手配した砕石運搬や鉄板運搬のトラックが構内に入ってくるとそれを待ち構えた鹿山職員が荷下ろし場所を指示し、雇った下請け鳶作業員や雑工作業員を使って荷を吊るして下す。
「お~い!そこへ」と言って65歳の通称チョビチョビひげのオイちゃんが指示用旗を振った。言葉は全面マスクで遮られて相手にはそのままの音量では伝わらない。チョビひげのオイちゃんは福島県双葉郡富岡町で飲食店を経営していたが、爆発後に仮設住宅に住んでいる。
 彼は若い頃後楽園でキックボクサーをしており、キックボクシングで一時代を築いた沢村の試合の切符を売りさばいて生活費を稼いでいた。
「昔、若い時は切符売るだけで高収入だかんね、こんな仕事やってられないよ」
 と言うのが口癖だった。
 砕石を積んだトラックはチョビひげのオイちゃんの指示を無視していっぺんに砕石を下して走り去った。
「あ!こら~~、そこへ全部下すな~~。お~い!」
 しかしトラックはそのまま逃げて帰ってしまった。白タイベックと全面マスクとゴムの1F専用どた靴を履いているチョビひげのオイちゃんが慌てて追いかけるがトラックには追い付かない。
 チョビひげのオイちゃんは携帯電話で下請けの運送会社に文句を言った。すると理由は運転手の被ばく線量にあるらしい。運送会社の運転手は1日0.5mSvという社内規定があった、それを超えたら原発構内にはとどまることができない。だから積み荷をすべて降ろして去ったと。
 原発では放管(放射線管理)ルールが最優先される。この場合、鹿山建設の計画に問題があったことになる。荷運びは前の作業が終わって荷下ろし要員が玉掛け、安全誘導など3名くらい揃って初めて荷下ろしができるから、前の作業が終わるまで待たされることになる。そのときに被ばくする。1F現場の放射能は半減期約2年で放射線が強いセシウム134と半減期30年のセシウム137だが、2011年はセシウム134の影響が強く、トラックの運転席でも外でもあまり変わらない。待つことが多いドライバーは無防備のまま被ばくしてしまうことが多い。待つ時間が多いのは計画が悪いことになる。
 構外休憩所近くで資材荷下ろししていた3号JVの下請け作業員の石塚は平トラックのタイヤに足をかけて1mくらいの高さから飛び降りたときに踵を骨折した。瓢タンは救急車に乗り込みいわき市の病院に運んだ。原発ルールでは元請け企業の放管は救急車に付き添わなければいけなかった。搬送先の病院では1Fから運ばれた負傷者は院内に入る前に医師の立ち合いの元で、汚染がないかどうか測定するルールになっていた。
 搬送中は石塚が痛い、痛いと叫びが止まなかった。
「骨折と言っても踵だから大げさだよ」そう瓢タンが言うと石塚は「そんなこと言っても、車が上下にガタガタする度に痛いんですよ」
 国道6号は地震でひび割れや穴があいてデコボコしており車が走ると頭が天井に着きそうになることもある。
 1Fで汚して救急車でいわき市の病院で診てもらうためには身体サーベイして記録を持参していないといけない。記録は東電がサーベイして作成する。病院の救急口で石塚を搬入しようとすると医師がでてきて言った。
「入れちゃだめだよ。その患者が放射能汚染していないかどうかサーベイしてください」
「東電がサーベイした記録があります」と言って瓢タンはそれを医師に見せた。
すると医師は、「いま目の前でサーベイしてください」
 瓢タンは手持ちのサーベイメータで汚染のないことを示して、石塚は病院の中に入ることができた。診察の待ち時間の間に瓢タンは東電の付き添い担当に言った。
「記録があるんだからそれで信用してもらってもいいと思うけど」
すると東電職員が言った。
「東電と言っただけで信用されないのが実情でして。自分も普段は極力東電ユニフォームを着ないようにしているんです。肩身が狭いんです」
 
そんなふうにして現場は混乱の中で始まった。


【4】大物搬入口の不気味な風
瓢タンは2011年6月から8月までつぎつぎと送り込まれる新入り作業者たちの教育に追われた。実際には現場の放射線測定をしなければいけなかったが、測定器の読み方を教えれば職員が代行してくれた。測定記録は夕方職員が事務所に持ち帰るが、その記録を判別する作業があった。
「あの~、この0.3(mSv/h)という数字は3(mSv/h)ではないですか?」と瓢タンが測定してきた作業員に聞いても答えがなかった。
 簡易測定器は表示単位自動切り替えだが、放射線測定専門ではないので単位を判別せずに数値だけを記録してくる。そこで10ポイントある測定点を確認しながら記録の訂正をする。
「単位を記録してもらえませんか?」そう依頼すると思わぬ答えが返ってきた。
「そんな悠長なことやってられないんだよ。そこの大物搬入口の前を車で通過しただけで数値がぐんぐん上昇するんだよ。」
 海側から風が吹いているとそういうことがあるらしい。そして車から降りて線量率測定したらさっさと車に乗ったままその場を去るらしい。JV職員も被ばく線量を気にしている。とくに派遣会社から来ている職員は現場ジプシーでありJV正社員にとっては被ばく要員でもあった。それでもなるべく末永く日当や現場手当てがほしいので被ばくしないように焦って走り去るのである。
 この時期は乗用車の外も中も線量率はあまり変わりなかったので社内で測定してもあまり変わりはないが、測定記録として残すためには外の空間を測るように指導した。
 放射線が乗用車内外であまり変わらない原因はセシウム137の割合が多かったからだ。セシウム137の放射線は強くてフロントガラスや車体ではあまり低減しなかった。半減期が約2年だから事故後半年くらいはそんな状況だった。
 3号機大物搬入口の前で風が吹くと線量率が上昇するのは、原子炉建屋内には粉塵の放射能が大量に残っていてそれが風向きに依って噴き出してくるのか?ともかく現場作業員によれば原子炉建屋から噴き出す風とともに線量率がぐんぐん上昇するらしい。
 ヨウ素131の半減期は8日だから3か月もすればほとんど消滅する。しかしなにせ原子炉建屋に残ったヨウ素の母数が大きい。あるいはセシウムが気体中の塵に付着して飛んでくるのか。
 原子炉建屋の大物搬入口は海と反対側の建屋西側にあるが、風が吹けば燃料デブリに暖められた蒸気と一緒に核分裂生成物であるセシウムも混じってくるということか。原子炉建屋は水素爆発以来瓦礫撤去作業は一切行われていないため、大量の粉塵が積もっているはず。
 開口部の扉は水素爆発で吹っ飛んでいたので応急にビニール製のカーテンを付けてある。風が吹くとカーテンがひらひらなびき、それに合わせて原子炉建屋内に残ったヨウ素かセシウムが粉塵と共に噴き出してきてそれで大物搬入口を横切ると測定器の値が上昇するのだろうか。
 いずれにしても教育講習で忙しい瓢タンは、被ばく低減のために慌ててそそくさと測定をしている作業員の小数点間違えがないかどうか、記録とにらめっこしながらの毎日だった。
 ところでその空間線量率の調査記録はなんのためか?マップを作成して作業員に現場の作業指導、つまりどこに立っていると1時間で何mSv、一番高い場所はここ、とか教育するためだった。それと線量率の低下推移によって今後の計画の被ばく線量の計画をするためだった。

【5】ビビりの初回測定
事故時、非常時の高線量下では年寄りから先に被ばくしていった。中には100mSvの年間限度を超えたものもかなりいた。ず~と原発で作業してきた放管の中で、600mSvを超えた者もおりそういう場合、仕事(放射線作業従事者)での被ばく線量が生涯1Svという制限があるので差し引いて残りを計算する。
仕事での被ばく線量が生涯1Svという制限は宇宙飛行士も飛行機操縦士も同じである。むしろ宇宙飛行士のほうが制限が厳しく、800mSvを超えると飛行はできない。緩慢な被ばくと短期の被ばくでは短期の被ばくのほうが放射線感受性が強い、宇宙飛行は短期に300mSvなど被ばくする、という理由だ。同じように子供や若年者のほうが年寄りより放射線感受性が強いと言われている。しかし放射線作業従事者は18歳以上なので一律で決まっている。
法令では年間最大50mSv。今回緊急時ということで政府が年間100mSvまで許可している。3号機JVの被ばく線量の自主制限は法令の8掛けで、年間40mSv、5年で80mSv。しかし3年で年間100mSv被ばくすればすでに5年間の限度線量に達したので次の2年は現場にいけないから日当も手当てももらえない。
放管は自己管理で年間通して平均値で仕事継続しなければいけないので計画的に週一回だけ現場へ行くことにした。月平均1.33mSvの計算で5年間で80mSvでやっていけるように行動予定を立てた。そこで現場の線量率を測定するときだけ現場へでることにした。しかも測定ポイントは3号周辺の10ポイントを決めてその推移を記録してゆくことにした。

初めての現場は、JV職員としてジョイントベンチャーの真水建設の東海さんと一緒だった。東海さんは3号建屋南側のSGTSエリアの線量率が高いからそこを図りたいと言い出した。そこは瓢タンの個人線量管理計画では被ばく量が大きいので自分が行くことは無理だった。
「それをやるなら東海さんが測定してくれませんか」と瓢タンが言うと東海は気軽に引き受けた。年齢は61歳で定年後の赴任だった。放射線被ばくはあまり気にならないらしい。
「でも念のためテレテクターをもっていきましょう」と瓢タンが提案した。
テレテクターとは釣り竿のように伸縮する測定器である。4mくらい伸びるので被ばく線量は抑えられる。放射線の被ばくを抑えるには、1.距離。2.時間。3.遮蔽物。
「伸ばしたテレテクタより自分が先にいかないようにしてください」
 下請け作業員にテレテクタを持たせて数字を読み上げて、東海は測定ポイントを指示して記録紙に記載する。
SGTS現場の行動は監視カメラで撮影されて、免震棟の遠隔監視盤に映されるようになっている。
いざ現場へ行くと、東海は10mSv/hの高線量地帯に入った。すると東海の心臓の動機は早まった。だれでも経験のない高線量エリアへ初めて足を踏み入れると緊張してそうなるのだ。監視カメラに映った作業員と東海の映像では、東海が高線量ポイントを支持するためにテレテクタの先端に立って「ここだよ」と指示している。監視カメラで見ていた瓢タンが声をだした。現場のスピーカーから東海さんに呼びかけた。
「東海さ~~ん。だめですよ~、テレテクタの後ろに立ってくださ~い」
同時に免震棟の遠隔監視室で見ている職員も声を上げた。
「おい、おい、東海さんがテレテクターの前にいっちゃったよ」
「東海さ~ん、線量計の後ろに立ってください!」
しかし画面が映るだけで緊張して測定手順を忘れてしまった東海にスピーカーの声は届かなかった。
そうやってみんな高線量に慣れてゆくのだった。一旦高線量エリアの経験をすると、体に何も変化がないことを体験する。今度は、逆に高線量に麻痺してしまい、高線量がなんとも思わなくなる。
東海さんは高線量地帯の測定が終わると平然と帰ってきた。
「おう、最高20mSv/hだったよ。」
いままで誰も経験のしていない高線量を測定したことを自慢げに瓢タンへ伝えた。これがその日の鹿山事務所の武勇伝ではあった。
高線量の原因は事故時のSGTS配管やトランス類だった。配管系統に漏れが生じてメルトダウンの影響を受けたのだろう。
しかし20mSv/hなどはまだまだ序の口で線量率測定はこれから先どんどん上昇してゆくのだった。

【6】巡礼
夏の盛りのお盆の頃、真一の両親が四国巡礼から帰ってきた。それを人伝に聞いた瓢タンは仏壇へ線香をあげに行った。3月末の事故の時の真一の両親の落胆の色濃い影は薄れていつもの平凡だが実直で淡々とした人間がそこにいた。
真一はガーガの呼び声のあとに何を言いたかったのだろうか。その答えは見つかっただろうか。
以前と異なるのは家庭の中に光がないように感じた。朴訥誠実な両親は依然のままでも、その家庭にあるべきはずの真一がいない。それが全体の光の華やかさ減じていた。真一がいれば窓に射す木漏れ日は居間の中でもっと弾んだに違いない。今の木漏れ日は木漏れ日そのもので、それ以上でもそれ以下でもない。
仏壇は目立ちすぎずさりとて過不足なくその部屋にしっくりと座していた。その前の派手な置物に目をやると瓢タンの目に入ってきたのは真一のクラスメートたちの名前が付いた供えた供物だった。
実は級友たちが小学校担任の先生と一緒に行かないかと誘いはあったが瓢タンはそれには同意できず、一人で訪問した。小学生を振り返ると津波以外の真一のもうひとつの、もしあのとき、の疑問が湧いたからだ。
幼いころ真一の人生の選択肢は二つあった。運動も勉強も抜群の彼は小学校からいわき市の記録をいくつも持っていた。特に校庭の鉄棒で遊んでいるときの真一はウルトラ技を自分で習得するほどの素質を持っていた。噂を聞きつけて元オリンピック選手がスカウトに来るほどだった。瓢タンもその才能を伸ばしたほうがいいと思っていた。
「中学から全寮制の体育専門の道があるから、特待生でもいい」という誘いだが、担任の教師は運動でのリスクを懸念し、逆に真一の学力を見込んで勉学と言う安全で地道な道を薦めた。
「真一くんにもしも大けがをしたら両親に申し訳ない。先生としては安全な道を進めるよ」リスクを嫌う真面目な教師らしい指導だった。
それがどうしてこんなことになったか、リスクを回避して堅い職業を選んだはずなのにの・・・瓢タンのなかで、仏壇の前でフラッシュバックしたのは幼いころの選択肢の「なぜ」だった。津波の時になぜ真一がそこに?の疑問は消えて、次には、なぜ優秀な人間が不運に出会い、出来の悪い自分が生き残っいるのか?という答えのない問が生まれる。
その「なぜ」の疑問は学校の担任に向けられた。学業で堅実な道を勧めたことが裏目に出て結局は真一を不運にも死なせたのではないか。自分にとって良くしてくれた幼馴染の不運の因果関係の「なぜ?」の答えを探さなければ瓢タンの心は落ち着かなかった。
級友たちと一緒に訪問しなかった理由はそこにある。担任の教師やみんなと真一の辿った過去を肯定できなかったのだ。しかし責任を誰かのせいにしたところで瓢タンの心は晴れるのだろうか、むしろ逆ではないだろうか。瓢タンは真一が体操の先生になって故郷の子供たちを指導してほしかった、過去をそうやってほじくりかえして、~たら~すれば、と頭の中で妄念をめぐらしたとこころで、それは瓢タンの頭の中だけの妄念にしかならない。
供え物に書かれた同級生の名前や、電力会社の機械課の職員の名前をひとつひとつ脳裏に刻むように見つめた後、仏壇に礼をして反転すると真一の両親の淡々とした微笑みが真一を包んだ。その向こうに仏陀の後光が射しているのだろうか、その穏やかな笑みに包まれて真一の実家を出でば淡々として平凡な日常に戻りつつあった。
真一の実家の裏には大利水力発電からほとばしる水流と阿武隈山系汲めども尽きない清流が合流していた。透明な水がとうとうと集まって好間渓流に注いでいる。
好間渓流は浜通りの二級河川である夏井川の支流で上流水源地はいわななどマニアックな釣り人が好むところで、中流の好間団地あたりには鮭の産卵場所がある。
豊富で透明な水の流れはなにひとつ変わっていなかった。どこまでも清々として満々と流転して尽きない源流を見ていると瓢タンの尽きない問いは消えていった。
津波と言う自然の猛威に翻弄されながら、清流のたおやかさに日常を取り戻すようでもあった。

帰り道のバスの中で瓢タンぼんやり景色を眺めていた。ぼんやりしながらとりとめもないことを廻らすのが好きだった。
真一の両親はお遍路でガーガの呼び声のあとに何を言おうとしていたか、その答えは見つかったのだろうか。いや、お遍路とは巡礼のこと。巡礼とは聖域に触れる行いだ。人は行いをしている最中はああだのこうだの考えないものだ。行動していて考えないことが答えかもしれない。
そう言えばクラスメートの桜井理恵の名前で花が飾ってあった。体育館では津波で亡くなった方々の遺体もたくさんあって、悲嘆にくれた遺族や地元の顔見知りの人もたくさんいた混乱の中で彼女と真一が付き合っていたことに気が付かなかった。年齢で言えばそろそろ身をかためる時期だった。
瓢タンの親類には会うたびに早く結婚しなさいと言うのが口癖の叔母がいた。世の中にはおせっかいな人がいるものだ。そういう人は大抵は親類の叔母さんなのだ。黙って聞いているとそのうち見合い相手探してくるかもしれない。非日常の困難な出来事のあとには日常のややこしさが付きまとうが、それも生きているからこその事だと思い知った。

【7】あっちもこっちも警報オーバーの現場
 鹿山建設が3号機JV事務所を開設して1か月は登録証手続きと教育講習などでほとんど現場には行っていない。東海さんの発言を機に、お盆が過ぎるころ瓢タンは週一で現場へ測定作業に出かけることにした。被ばく線量の限度があるのそれ以上は現場に立つことができない。
Jヴィレッジからさらに40分かけて免震棟休憩所に着き、全面マスクや防護服を脱衣して、自分の出番がくるまで私服で雑魚寝スタイルの休憩エリアでごろっとしている。そして出番がくればまた全面マスクと防護装備に15分かけ、構内作業専用車で3号機周辺現場まででかける。免震棟から車で5分くらいの3号現場へ出かけて、30分くらい線量率調査して免震棟休憩所に帰ってくる。
 12時頃には作業員が一斉に帰ってくる。電力会社下請けの放管員たちは免震棟休憩所、実際は免震棟に併設した建屋の帰還入り口に5か所の汚染検査ポイントを設置して、1か所を作業員の前後2人で測定し、計10人くらいが作業員を前後に挟んで身体汚染検査をする。通称手サベと言う。機械で測定するのをHFCM(ハンドフットクロズモニタ)という。それは入退域箇所であるJヴィレッジの体育館に設置されて一般区域に出るときのチェックをしていた。1F構内免震棟からJヴィレッジまでの通行間に汚染することもある。 免震棟の手サベではつま先から頭のてっぺんまでをサーベイメータをゆっくりすべらせながら検査する。
そんなとき検査を受けていると作業員が身に着けているAPD(アラーム付きポケットドジメータ=線量計)がピーピーとけたたましく鳴る。警報設定の1/5を超えたのだ。現場から鳴らしながら帰ってくる者もいる。5/5の最大値を超えてキュイーンキュイーンと、種類の異なるAPDではピーピーと、いろんな方向から聞こえる。APDの内蔵電池がなくならない限り3分、もう一方の種類では電池が切れるまでは鳴り続ける。
 たちまち放管が寄ってきてどこで作業したのか調書を取る。「工事件名は?なにをしていて警報オーバーしましたか?計画線量は?」この計画線量の質問で作業員は固まる。首をひねってぽかんとする。計画線量は元請けのゼネコンや日立、東芝、三菱が決める。そんな知識まで作業員には必要ない。作業員は警報がなったら仕事仕舞して帰るだけだ。「じゃあ貴社の放管は?誰?携帯電話で呼んで下さい」そして呼ばれた場合、瓢タンはそこへ駆けつけて作業員と電力会社放管の間で通訳となる。
鹿山建設の場合、被ばく線量が計画線量3mSvであり、APD最大警報は×0.7の2mSvに設定しており、3mSvを超えていると事故扱いとなり、いったん工事ストップして経緯と対策の報告書を提出し東電の承認を得なければ工事続行はできない。それは基本であって、この混乱期では計画線量超えが頻発し電力会社の管理限度を超えていた。電力会社の管理能力にも限度がある。結局、以後は注意してください、で一件落着となる。
 現場でアラームを鳴動すると3分くらい経って鳴りやむ。もう一方の種類APDではJヴィレッジに帰って返却するまで。3分で鳴りやむと作業員は安心してまた作業を継続する。この行為は違反行為で、最大アラーム鳴動したらただちに作業仕舞ってAPDを返却して管理区域から退域することを徹底させるのが現場放管の仕事だ。
 しかし、そこかしこで警報オーバーが鳴動するような、そんな混乱期が爆発後半年くらいは続いた。 基本年間平均20mSv(安全目安で鹿山建設では16mSv)の被ばく線量基準値を超えた作業員でも、以前から原発ジプシーを続けているベテランの場合は、他原発に移動して食口をつないだ。
 相馬出身の野馬追馬主の遠藤が川内原発へ移動していった。瓢タンに電話がかかった。「エンちゃんですか、げんきですか。川内はどうですか、汚染無いでしょう」
「当たり前だよ通常運転なんだから、汚染しているのは俺だけ。内部汚染はまだ残っているからHFCM通るたびにアラームが鳴るんだよ。それで俺の首にプラカードつるしてんだ、汚染有りって、な。」
「ありゃりゃ、風評被害ですか?」
「風評っていうかな、実際まだ内部汚染してるのは事実だけど、プラカードぶら下げるのはどうかと思うよ、見世物に近いな、情けなくて泣けるよ。」
 HFCMモニタが放射能を基準値以上検出すると警報が鳴るから放管員は事情調査し、記録をして提出しなければいけない。しかし遠藤の場合は川内原発で汚染したわけではなく、福島から移動してきたときすでに内部汚染している。セシウムの内部汚染はガンマ線が体の外に出てくるのでHFCMや手サベで検出される。いまさら調べても意味がない。それで放管員が調書を取らなくていいようにプラカードを下げるように指示されたわけだ。
「瓢タンよ、俺は汚染の差別なんてことより、いま気にしているのは馬だ。」
 遠藤の場合、野馬追のために自分が飼っている馬が問題だった。自分のいない間家族が馬を養うが、家族は野馬追参加していないのでいやがっているという。
「おせん泣かすな馬肥やせ」は戦国時代の話で、汚染で泣いてるエンちゃんはそろそろ馬を手放す時期かと考えていた。野馬追もできなくなる、それが寂しい。
 エンちゃんは言った。
「汚染泣かすぜ馬放せ、だろう」

【8】全面マスクは水中マスク
 瓢タンは鹿山建設に派遣採用だったので鹿山社員と同じホテル住まいを選択した。鹿山職員と同一行動ができるし、地元の叔母と会うたびに結婚をせかされることも疎ましい。
東北のハワイと言われるくらい温暖な気候のいわきだが7月末から酷暑がやってきた。
JR常磐線いわき駅は地名から言うと平(たいら)であり、平の呼び名が昔から使われている。磐城平城、別名龍ヶ城のあった場所である。そのJRいわき駅前の日の当たる信号下には電光温度計があるが、10時からすでに30度を記録した。2011年の夏である。
鹿山建設の3号機JVの休憩所は原発構外隣接地に設置した。プレハブの備品倉庫では瓢タンが白い防塵用の通称タイベックスーツに身を包み全面マスクをつけて、作業員が着る遮蔽スーツの修理をしていた。
遮蔽スーツはアメリカ製であり、一着定価80万円もするので補修して再利用する。ガンマ線被ばくを防ぐための遮へいスーツは重さ14kgだ。エアコンなど無い、密閉されたプレハブ倉庫の中で革製品用の手縫いストレッチャーを使って手縫い補修するのだが14kgを持ち上げたり降ろしたりで一気に汗がでる。顔を下に向けての軽作業だが、14kgを何度も上げ下げするのは実は原発での最もきつい作業である。
1Fでは空間線量率の高いエリアの作業は被ばくに縛られて短時間で終わる。構外のような線量率の低いところは被ばく制限に達するまで長時間作業となる。
縫製作業していると全面マスクに溜まった汗がみるみる増えてきてまるで水中マスクに海水がしみ込んできたようだ。全面マスクの中で水面が視界に入るほど上昇してくるや否や鼻にも水が浸入してきた。息ができないので顔を上げると溜まった汗が全面マスクの吐気口からドバーと流れ落ちる。
 そんなことを二、三回くりかえすともう暑さで耐えられなくなり、隣接の休憩所へ引き返してエアコンの効いた部屋で休憩して、それで一日の作業は終了だ。正味2時間。構外休憩所の隣接倉庫なので空間線量は低い、だから軽作業なら4時間でも可能だが熱中症の危険性があるため2時間で終わらせた。
 構内現場での夏季は作業員の身体はずぶ濡れ状態。タイベックと遮蔽スーツを着用して、長くつを履いている者は作業終わって長くつを逆さまにすると片足1Lの汗が落下する。作業は1時間以内だが、15分で終わる作業もある。被ばく線量管理が時間を決めている。
 タイベックスーツはデュポンの製品で0.5ミクロン以上の粉じんの侵入を98%防ぐ白いツナギの紙のようなスーツだ。それを原発では放射性粉塵防護用に使っている。透湿で液体は沁み込むが風が吹かない限り密閉サウナ状態である。外界30℃以上では体重が4kg減らす者もいる。休憩所に体重計を置き、出る前と作業終えて帰ってきたときと数値の差を記録している。
 熱中症予防のためいクールベストといって冷却材を背中につけているが、15分もするとその冷却材が湯たんぽのようになり、却って逆効果だと嫌う作業員もいる。
 外気温度25度以上になると休憩所から現場へ出るにはクールベストを着ているかどうかもチェックノートに記入しJV職員が確認する。
「あれクールベスト着ないと現場に出ること出来ないよ」
「じょうだんじゃないよ、いっしょに作業してみろよ。15分で湯たんぽだよ。着けないほうが楽だよ。こんなん付けたら余計熱中症になる。殺す気か」
 現場の最先端は作業員だ。自分の身は自分で守る。その作業員に断固として拒否されたらゼネコン職員は説得できない。なぜならゼネコン職員は現場で監視指導あるいは周辺の準備や配膳作業するだけで実際の作業はしていないのだ。
 それは電力会社も同じで、原発の計画運営業務ではあるが、電力会社の社員は作業しないことが原則である。厚労省のWBGT熱中症対策指導というのがあり、電力会社もそれに準拠しているが、WBGT値は気温と湿度の関数表がありWBGT値30℃を超えたら安静を保ちなさいと言う。湿度が80%を超えたあたりから5度毎に約0.5度の割で気温よりもWBGT値のほうが高い。
 更にビニールの防水アノラックを着ると補正値が10℃で、WBGT25℃でもアノラックを着れば35℃となってしまい作業はできずに安静にしていなければいけない。それでは仕事ができないから例えば15分とか時間制限でやりくりする。現場の車の中でエアコン効かせて休み、15分出て行って作業し、また車中エアコンで体を冷やす。
 WBGTが25℃の雨の中、アノラック着て補正値足せばWBGT35℃で作業中止となる。しかし雨のときはだいたい気温は20℃くらいになる。補正して30℃。これで中止していたら梅雨から夏季の工程が捗らないので15分刻みとか作業員任せの管理になる。したがって過酷な条件でも作業はするし、要するに、作業員は日当と手当を得るためには自分で自分を守らなければいけない。

【9】オペフロ線量低下と地上線量上昇
6月から8月までは大型クレーン重機が動くための路盤整備に明け暮れた。3号原子炉の使用済み燃料はオペフロ階のプールに保管してある。その使用済み燃料を取り出すためにはオペフロにクレーン設備を設置しなければいけない。そのためには水素爆発で吹っ飛んで落下したオペフロの瓦礫を取り除いて更に分厚い鉄板を敷いて原子炉からの放射線遮蔽をすることが必要だ。クレーンを吊るすためのドーム建設のためにどうしても人の作業は必要であり、その為には人が作業可能な空間線量率まで下げなければいけない。現状10Sv=10,000mSv/hから1mSv/h以下が目標だった。
3号原子炉建屋の屋根や壁が吹っ飛んで残った竜骨のようにぐにゃりと折れ曲がった鉄骨や、吹っ飛ばずにまたは吹っ飛んだけど重くてそのまま落下した瓦礫を取り除くことからスタートだった。地上に降ろすまではクレーンとその先にカッターやバケット、ショベルなどのアタッチメントを付けての遠隔操作だった。
操作は免震棟の一区画に設備した数台のモニター画面をみながら行う。
クレーンの先に油圧開閉可能なバケットを吊下げてオペフロ上から瓦礫を掴み取って降ろす。地上に降ろした瓦礫は地上部隊がトラックに積み込んで原発構内の山の中の廃棄仮置き場に捨てに行く。
せっかく路盤を整備して線量率も2mSv/hくらいまで下げたのにオペフロから降ろしてくる瓦礫はその百倍もあった。
地上瓦礫撤去チームはオペフロ瓦礫撤去チームに皮肉まじりに言った。
「我々はこの地上のの放射線を下げようとしていままで路盤整備してきたのに、オペフロ瓦礫撤去チームってその逆だね。地上のの線量率を更に上げるのが仕事かよ。」
地上では線量率を下げるためにひたすら高線量高汚染物を山の中に廃棄して、そのあとオペフロ撤去チームはひたすらオペフロの桁違いの線量を持った瓦礫を地上に下ろして地上の線量を上げた。そんないたちごっこがその後何年も続くのだった。
3年で3号機建屋を鉄骨で覆いオペフロ階を使用済み燃料取り出し用のドームで覆うという計画は全く達成できそうにもなかったのだ。計画は見直されて7年かかることになった。
原子炉自体は高さ20m直径4mの鉄の容器だ。そこから漏れた放射性物質が東日本を震撼させた。20km圏内の森林は放射性物質を被って人も避難した。瓢タンは3号機建屋のまえで、こんな建屋ひとつが東日本、いや太平洋を渡って北米西海岸やさらにはシベリアを超えて欧州にまで放射能を届けたのかと思いながらつくづく見上げた。と同時に涙がでてきた。3号の崩壊した建屋の上に竜骨のようにぐにゃりと曲がった鉄骨、その無残な姿と、たったこれだけの20m×4mの大きさから出た放射能が太平洋側東日本の延々と続く原野に降り注いで、放射線専門の原発専門家たちから大丈夫ですと言われつつ20k圏内の人たちが生活を奪われた。ヨウ素もセシウムも東京まで南下してホットポイントが計測された。何が大丈夫なのか? 
瓢タン自身も常々、災害が起きたら原発が一番安全と思っていたし、そのように周囲に話していた。どこが安全なのか・・・3号オペフロ崩壊の無残な姿を見る度に情けない気持ちが押しては引く波のように何度も繰り返された。


【10】除染電離測と帰還基準
原発事故によって東日本に広範囲に飛散したのは核分裂生成物質の中の放射性物質で一般的には放射性同位元素と言われる。とくに福島県の相馬から浜通りと呼ばれるいわき市北部の太平洋側に高濃度に飛散した。それは風向きに依るもので爆発初期に伊達方面の北西に飛散し、その後は反時計回りに南向きに変化して霞ヶ浦のほうへ向かい、柏や足立区墨田区、新宿にも降下し、神奈川県にも届き、その後太平洋を北上してアラスカ方面まで到達した。列島では山脈に隔てられて日本海側には到達しなかったが太平洋沿いの南側では宮崎まで飛散し検出された。偏西風に従って放射性物質はハワイやカリフォルニアでも検出された。
飛散した核分裂放射性物質であるセシウムの量は広島原爆の約160倍。
原爆では瞬間の中性子線と熱波によって多数の死者をだしたが核分裂自体は一瞬なのでそれに伴う核分裂放射性物質は今回の原発事故よりも極端に少ない。だから10年で広島、長崎は復活した。
事故後には法令上は原発構内も避難区域も放射線管理区域と見なされるが、構内は管理対象区域と命名された。放射線管理区域の法令着て規定は3か月で1.3mSvを超えるエリアを指す。1300μSv/91(日)=14μ/日。通常ならそこは事業所内であり住居ではないから、その事業所で決めた一日の仕事の滞在時間で割れば時間当たりの放射線量率数値が決まる。例えば作業時間が一日6時間なら1300μSv÷91(日)÷6(時間)≒2.4μSv/時間となる。
放射能(線)を扱う事業者はその事業所の放射能(線)を使う管理区域ではでこの数値を守っている。そして法令では事業所外の一般公衆人(18歳未満の児童や妊婦など)への被ばくをさせないように事業所の境界の数値を年間1mSvとして周辺住民の被ばく線量を年間1mSvを超えないように担保している。
この法律は原発の他にも病院や大学、放射性同位元素を扱う事業者(大学、医薬メーカーなど)に適用される。今回は東日本一帯にまで放射性物質が飛散したので電力会社では手に負えず、国が管理することにとなり住民にはまず大まかな範囲で避難指示をだし、自治体がそれを受けてエリアを設定し住民の避難指導に当たった。
避難区域を管理する法令がなかったので除染電離規則という法令を作った。
年間1mSvは365日24時間で割れば0.11μSv/時間となるが、家屋の中にいる時間と屋外に居る時間を考慮して、政府は0.23μSv/時間以上の地域を除染調査対象区域に設定した。
避難民の帰還基準は初年度20mSv、将来的に年間1mSv以下を目指す方針を謳った。しかし初年度20mSvであればセシウム137の場合は半減期30年だから、自然に減衰を待てば年間1mSvまでは120年かかる。実際にはセシウム134の半減期が約2年なので3年で自然減衰して約半分になる。放射能と言うのは時間だけがそれを消すことができる。
原発の核分裂放射性物質の代表的なものはヨウ素のほかにセシウム、ストロンチウム、ウランなどがある。ヨウ素131は半減期8日なので除染電離規則が決まる頃にはほぼなくなっていた。ストロンチウムやウランは存在比率がセシウムの100分の1以下であり問題とはならなかった。
しかし原子番号55のセシウムには質量数134のものと137のものがある。その二つが事故で飛散した。134Cs、137Csと表記するが134Csの半減期は約2年でエネルギーが強く、137Csは約30年でエネルギーは134より弱い。そこで二つを合わせて計算すると134Csの減衰の影響によって初めの3年で半分つまり約0.5になり5年で0.4になる。その後134Csはほぼなくなるので137Cs だけがのこり30年単位で半分に減ってゆく。
除染をしなくても3年経てば放射能は約半分に減るのである。帰還ができないのだから3年経ってみてから除染しても良かったが政府は国民の目を気にして大規模な予算を組んだ。避難して生活権利を奪われた人たちが一刻も早く帰れるように。ニュースでは殊更に半分に減りましたと言っているが、何もしなくても3年経てば約半分に減るのである。
さて、政府は市民を帰還をさせたくて除染をしているが、市民からすると帰還出来ないうちは補償金がでる。帰還すれば補償金はでないので困る人もでてくる。
月8万円の清掃仕事の人はその仕事を奪われており、帰還してもその8万円の収入が戻らないからだ。
一般公衆以外の放射線作業従事者(18歳以上)は生涯1Svまでの被ばくでを政府は許容している。年間20mSv で5年間100mSv、50年間1000mSv=1Sv。20歳で放射線従事者作業始めて50年間の70歳になったら1Svに達する。
放射線は大量に被ばくするとその時点で数値に応じた身体の反応がでる。皮膚のケロイドや嘔吐、7Svで約50%の即死率。
しかし平均年間20mSVの低線量では5年で100mSvとなり晩発性影響といって発癌症状が遅れて出てくる。それは癌細胞などで、最初の癌細胞が分裂発生してから繰り返して増えてゆき10年、20年で発症、発見されるまで成長するからだ。
 晩発性影響は統計的には100mSv被ばくすると致死癌のリスクがある。しかし100mSv以下ではその統計が明らかではない。リスクが無いと言う証明もできない。だから安全側に配慮して100mSv以下でも致死癌リスク=確率があるとして放射線を防護する立場では考えている。これをLNT仮説と称して比例計算できる。
 発癌しないように放射線防護基準で可能かなぎり被ばくを避けて、もし発癌したらそれが放射線によるものか生活習慣に依るものか証明はできないので、統計的な基準で妥当性を審査する。それが労災認定だ。
しかし児童に対してはその基準が定かではない。
1Sv=1000mSvで5%の致死癌リスクだから100mSvで0.5%の致死癌リスクの追加となる。追加と言うのはもともと日常の生涯で考えると約26%が致死癌を発生している。それに0.5%追加される。政府は日常のリスクに1%までは変動範囲であり市民に許容されると考えている。
低線量被ばくに閾値はないが許容値はあるというのが政府の考え。
一般公衆1mSv/年間が許容されるかどうかと言うと、日本では通常自然から受ける被ばくが2~3mSVであり1mSvは地域誤差の範囲であり許容されるだろうと考える。
年間1mSv被ばくした場合100歳では累計100mSvとなりそのリスクは致死癌が0.5%追加となる。100歳時点の致死率は26%だから放射線で1Sv被ばくしても致死癌発症0.5%追加なので、1%以下は変動範囲であり、市民は許容できるだろうというのが政府の考えである。
政府は年間20mSvで帰還可能、将来1mSV/年間に戻すと決めた。
しかし問題は放射線の影響リスクが年齢に応じて放射線感受性が異なる。帰還基準にはその年齢別区別がないことが欠点であり、母親たちの不安感を誘う元になっている。
年間20mSvを上限として帰還できるとしても大人も子供も同一だから親としては不安である。どんな物質規制でも子供のほうが弱い。薬も子供の服用は量が少ない。
また親にとっては、生涯の致死確率が0.05%としても親は子供場子供でいる間は子供には判断選択できないのであり、親はその0.05%であっても避けられれば避けたい。
被ばくを避けられれば避けるという親の直感は放射線防護基準の「ALARA=as low as reasonably achievable、合理的に避けられれば避ける」に適っている。
従来から原発は事業所境界を1mSvの更に1/10とか殊更に報告しているが、やればやるほど費用が嵩みそれを電気料金に乗せていることになる。そもそもなぜ1mSvの1/10に下げなければいけなかったのか。そして一旦事故が起こると1mSの20倍でもやむを得ぬことになった。
帰還基準が当初年間20mSvであればセシウム半減期30年によって生涯約600mSvとなり放射線作業従事者の1Sv=追加致死癌リスク0.05%より低い。屋内に8時間はいるだろうからそれを考慮すると500mSv以下になるだろう。大人にとっては追加リスクは0.05×5=0.15% <1%。通常の生涯致死癌リスク26%に比べれば政府の言うところの許容範囲かもしれない。
児童や子供はどうだろうか。
生涯癌死亡率26%
80歳までの癌死亡率26%
70歳までの癌死亡率10.0%
60歳までの癌死亡率2.9%
20歳までの癌死亡率0.00%
20歳までに癌で死亡する確率はほぼ0%に近い。
だから親は子供が大人になるまでは日常以外の新たに加わる追加リスクを0で育てたいと思う。日常でさえリスクを0で子供を育てたいと思うのが親心だろう。
年齢別の放射線感受性を、例えば年齢別に児童、幼児は放射線感受性が20歳以上の4倍にした場合、20mSv/4=年間5mSvとなる。単純な掛け算で18歳までに90mSv。これが安全かどうかは証明できないが感受性の違いを数値で表現すれば例えばこうなる。
病理的な因果関係はさらに不明で、その癌がストレスかタバコか他の要因か、癌が発生した時点を捉えることができないから、何が原因か証明できない。
作業従事者の放射線労災認定は可能性として妥当と思える条件を設定しており、因果関係の証明ではない。逆に、放射線影響ではないという証明もない。疑わしきは排除せずという科学的態度である。
現実に市民が直感的判断によって児童、子供や孫を帰還させないことは統計的な疫学事実(年齢が低いほど放射線影響が高い)に基づいたALARAとしての安全行動と言えるだろう。
60歳以上は放射線作業従事者の基準で年間20mSVでも20年間の80歳までに最大400mSv、80歳過ぎれば癌より老衰死のほうがリスクが高い、だから帰還自由とすればより現実的だったのではないだろうか。ただし、生活に必要なサプライチェーンがないしインフラも整備されていないので日帰りか、数泊とかして避難場所との往復になる。それでも、畑仕事や故郷の慣れ親しんだ場所で過ごせるほうがストレスがすくなく、避難に依るダメージがすくない。墓参りもできる。花見もできる。
 帰還規制によって福島県の避難関連死者数はその後2,300人以上になった。ちなみに震災死者数は2,686人だった。
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エッセイ・ノンフィクション
アルファポリスガイドライン禁止事項が追加されるんでガクブル

とある男の包〇治療体験記

moz34
エッセイ・ノンフィクション
手術の体験記

真面目な女性教師が眼鏡を掛けて誘惑してきた

じゅ〜ん
エッセイ・ノンフィクション
仲良くしていた女性達が俺にだけ見せてくれた最も可愛い瞬間のほっこり実話です

24hポイントが0だった作品を削除し再投稿したらHOTランキング3位以内に入った話

アミ100
エッセイ・ノンフィクション
私の作品「乙女ゲームのヒロインに転生、科学を駆使して剣と魔法の世界を生きる」がHOTランキング入り(最高で2位)しました、ありがとうございますm(_ _)m この作品は2年ほど前に投稿したものを1度削除し、色々投稿の仕方を見直して再投稿したものです。 そこで、前回と投稿の仕方をどう変えたらどの程度変わったのかを記録しておこうと思います。 「投稿時、作品内容以外でどこに気を配るべきなのか」の参考になればと思いますm(_ _)m

百合ランジェリーカフェにようこそ!

楠富 つかさ
青春
 主人公、下条藍はバイトを探すちょっと胸が大きい普通の女子大生。ある日、同じサークルの先輩からバイト先を紹介してもらうのだが、そこは男子禁制のカフェ併設ランジェリーショップで!?  ちょっとハレンチなお仕事カフェライフ、始まります!! ※この物語はフィクションであり実在の人物・団体・法律とは一切関係ありません。 表紙画像はAIイラストです。下着が生成できないのでビキニで代用しています。

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